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旅の土産: あん入り生八ツ橋(清水寺)
やっぱり京都といえばこれですよね。
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八ツ橋。これを買って帰らないと京都に行ったとは言えない、くらいに思っています。
京都に行かずとも、デパートの物産展や、スーパーのお菓子売り場、ときにはコンビニですら見かけることのある八ツ橋ですが、それはいかにもお土産調なパッケージに包まれた箱入りだったり、個包装だとだいたい抹茶かニッキ味のみで、餡も入っていないタイプか、そんなものばかりで、色んな味から自分の好きなものを選んで気軽に買えるような場所は、やはり本場の京都しか未だに知りません。
こう書くと、八ツ橋の本場を知っているかのような偉そうな書きぶりですが、僕がいつも八ツ橋を買うのは、清水寺の前にある坂の途中のお土産屋です。いつも買うのに、名前すら未だに覚えることができません。
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なぜか京都旅行の最終日には、いつも清水寺に行くことになっている。修学旅行でもそうだったし、友人と来たときも、家族と来たときもそうだった。今回の旅行ではそもそも清水寺はリストに入っていなかったので、ああ、いよいよ清水寺に行かない京都旅行をやるんだな、とどこかで寂しさを覚えつつも、それでも特に問題はないなと冷めた気持ちもあった。ところが、最終日の朝には結局清水寺に行くことになっており(そんな話がいつまとまったのか)、僕がそんなふうに思ったから神様が予定を変えたのではないかと思えるほどだった。
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清水寺というと例の清水の舞台が有名で、僕もその清水の舞台でみんなで写真を撮っているときのあのがやがやした光景をぼんやりと記憶しているだけで、ここがいったいどういうお寺なのか実のところよく分かっていないのだった。
舞台の先には、恋愛成就を祈願するエリアがある。ここに来るまで、ここに来たことがあるのを忘れていた。最近では『やがて君になる』という漫画の中でここに来た。佐伯沙耶香があの、石から石まで目を閉じて歩けたら想いが叶うという縁起物の余興に挑戦したのではなかったか。沙耶香は燈子の声に導かれて向こうの石まで辿り着き、彼女への告白を決心した。(もしかしたら違うかもしれない)
燈子にとって重要な文化祭での生徒会劇(舞台)が終わったあとに来た恋愛の季節。それは、舞台の先に恋愛成就があるというこの清水寺の空間配置とも巧みに重なっていたのだ。
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登ったときはまだ閉まっていたお店が、降りてきたときには開いていた。こんなところに森の小径のような通路があって、ジブリのグッズを扱ったお店があるとは知らなかった。ふらふらと奥の方へ吸い込まれていく中村さんを見送りながら、僕は小径の真ん中に立ち尽くし、どこからともなく聞こえてくる唄を聞いていた。
閉じていく思い出の
そのなかにいつも
忘れたくないささやきを聞く
こなごなに砕かれた鏡の上にも
新しい景色が映される
懐かしい唄だなと思っていた。たぶん、はじめて映画館で聞いた時から。そうだ、あのころのぼくはいつもこんなことを思っていた。あんなにかけがえのない時間を過ごしたのに、どうしてそれがすぐにちゃんとした思い出になってくれないんだろう、と。自分にとって大切なはずの出来事を思い出してみるたびに、実際の経験との彩度の違いにやり切れない気持ちになった。いやいや、こんなものじゃなかった、と。思い出はもっと色鮮やかに、次に進むべき道を照らしてくれるような、あるいは思い出すだけで疲れた心が回復するような、そういうものだと思っていた。でも新しい現実は次から次へと押し寄せてきて、それが美しかったあの時間を侵食していくように感じられて耐え難かった。思い出が閉じていく。そして子どものぼくはささやく。
「ぼくらはどうして、たった一つの忘れたくないことを、忘れないでいることすらできないんだろう——」
様子を見に来た向さんと横山さんに連れられて、中村さんはようやく出てきた。
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下りの坂道で八ツ橋を買ったとき、ここは僕がはじめて八ツ橋を買った場所だと思い出した。中学校の修学旅行では、他にも色んな場所を回ったはずなのだが、なぜか僕はここであらゆる種類の八ツ橋をひたすら試食していたことだけを覚えていた。京都は本当に素晴らしい場所だと思った。ふと、ここでラムネ味の八ツ橋を買ったことを思い出し、ラムネ味がないか店員さんに尋ねてみると、ラムネは夏限定らしい。そうか。ぼくが来たのは夏だったのか。代わりにみかんとチョコバナナを買った。店先には同じく修学旅行で来た思しき子どもたちが色とりどりの八ツ橋に惹かれて集まっている。奥で試食できますよ、どうぞ。店員さんが声をかけている。それはこのご時世に対して信念だけじゃなく、僕の思い出も守ってくれるやさしい色の声だった。
その声をきき、ぼくは自分がどうして八橋が好きなのかを思い出した。その根拠は、子どものころにここで八ツ橋を選んだ記憶だったのだ。すべてがお祭り騒ぎのようだった修学旅行の時の中で出会った、心ときめくお菓子、八ツ橋。集団からはぐれていくのも構わず、いつまでもここに居座りたかった。気前よくふるまってくれる店の厚意に甘え、母から渡されたお小遣いを握りしめ、名残惜しい別れに際して、誰のためでもなく、自分のために味を選んだあの時間が、ぼくの八ツ橋の原風景だったのだ。
「忘れてなんかいないさ、思い出せないだけで。」
誰かのささやく声。好きなものがあるから人は大変な日々でもなんとか生きていける。たとえば、家に帰ったら八ツ橋食べよう、と思って昼間の仕事をやり抜くのだ。だとすれば、やはり思い出はどこか胸の奥、見えないままの姿で、僕のことを支えてくれていたのかもしれない。
そんなことを思い出した。