30年前の話
阪神淡路大震災から30年になる。
思えば1995年は大変な年だった。
年始に発生した震災はもちろんのこと、3月には地下鉄サリン事件があった。
もっとも、当時幼子だった私にはほとんど記憶がないのだが。
サリン事件はともかく、震災の方は当時から大阪に住んでいたこともあり、決してテレビの向こうの知らない話ではなかった。
震災で私自身の記憶として覚えていることは二つだけである。
朝起きたとき、両親がテレビを見ていてそこには土煙?のようなものに覆われた市街が映っていた。
あれは神戸の街だったのだろうか?
幼いながらに両親の様子から深刻な事態を感じて神妙にしていたように思う。
もう一つは壁の色を変えた水漏れである。
当時住んでいたマンション屋上の貯水槽と配管系が破損したらしく、壁が水浸しになっていた。
最終的には畳が浮いたという話だがそれは残念ながら覚えていない。
たいしたことは覚えていないように感じられるかもしれないが、当時の私は4歳だった。
そんな幼いころの記憶が30年経っても残っているのだから幼いなりに衝撃だったのだろう。
それはそうと、震災に関連して家族からよくよく言われるのが本震発生時の話だ。
当時、揺れに驚いて飛び起きた両親と違い、私はすやすやと眠っており、その上に箪笥が倒れないよう父が必死に支えてくれていたらしい。
そのことには感謝しているがことあるごとに0歳の弟も起きていたのにお前だけ寝ていたといわれるのは実に心外である。
4歳児が午前5時に起きてる方がおかしいだろう。
あと、弟はたまたま授乳のタイミングだっただけである。
そんな家族の思い出も含めて、阪神淡路大震災は私にとって忘れがたいものである。
さて、そんな運よく起きていた弟もこの夏には父になる。
あの震災からそれだけの時間が流れたということだ。
先日話す機会があった教職の知人は、同僚の中にも震災後に生まれ、震災を知らない世代が増えたといっていた。
阪神淡路大震災は徐々に過去になっているのだなぁ、と感じる。
実際、そのあとも新潟、東日本、熊本、北海道、能登と大規模な震災は続いている。
この後は南海トラフもいずれ訪れる。
そうなれば阪神大震災はもっともっと過去のものになるのだろう。
しかし、テレビ越しの神戸の街も水漏れで変わってしまった壁の色も、私はきっと忘れることはない。