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オーウェルの水たまり

 水たまりを避けるのは歩いているときだけで、自動車や無機質な機械に乗り込んでいるときは容易には避けられない。 

 水たまりを避けることは、絶望の縁にあろう人間でも、条件なく反射的に行う。誰かの水たまりを脇によける行為を垣間見て、歯車から薔薇へと転生したかのように天変地異の打撃が生じることはあるか。

 ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」(1931)の有名な一節は、有機物と無機物との往来を示している。「水たまりを避ける」行為を見ることで、オーウェル自身のなかで落雷の打ち震えが振動している。オーウェルは1922年から5年インド警察の警官としてビルマで勤務していた。教官らと共に、ヒンズー教徒の囚人を絞首台に誘導するときのことである。どこからか犬が駆けてきて一同の歩行が止まる。また歩き出す。オーウェルは自分の前を進む機械的な存在としての囚人の背中を見つめている。そして囚人はひゅいと、水たまりをかるく脇によけた。そのとき、オーウェルは「We」の中の一人、ワンオブゼムから、まさに「I」としての存在を取り戻す。 

妙なことだがその瞬間まで、わたしには意識のある一人の健康な人間を殺すというのがどういうことなのか、わかっていなかったのだ。だが、その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたしはまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった。これは死にかけている男ではない。われわれとまったく同じように生きているのだ。(略)彼とわれわれはいっしょに歩きながら、同じ世界を見、同じ世界を聞き、感じ、理解している。それがあと二分で、とつぜんフッと、一人が消えてしまうのだ── 一つの精神が、一つの世界が。『オーウェル評論集』(岩波文庫)

 法を実行する巨大な暴力装置の一員として、オーウェルは歯車の要素となり、ただ業務を日常的に遂行しようとする。しかしその水たまり、無邪気な大地の窪みは、人間だけで了解し合う法と刑罰の歯車をユーモアラスに皮肉する。そしてまた生物的な無垢さで佇んでいる。オーウェルはまた、死に向かう人間にも次のように人間の循環と生成変化を認める。 

腸は食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は伸び、組織も形成をつづけている──それがすべて完全に無駄になるのだ。爪は彼が絞首刑の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて行くさいごの十分の一秒のあいだも。『オーウェル評論集』(岩波文庫)

 オーウェルは暴力と権力の世紀で、人間と非人間、有機物と無機物のあわいを往来した。それはエクリチュールの中だけではない。実際に銃弾を被り、まさに有機物と無機物を彷徨い、しかもそれを「インタレスティング」だと達観したユーモアで生き延びた。有機性を媒介として無機性への哀惜を認め、無機性を有機性へと転換する。その夢想を心の内に咲かせようとする。そして乱舞する自然の豊饒さを敏感にとらえる。

 レベッカソルニットの新著『Orwell’s Roses』(Granta,2021)にはオーウェルの有機物への愛情について記されている。第二次世界大戦真っ最中、オーウェルはコテージの庭に薔薇の苗木を植える。

 オーウェルは、有機性へと変化していくその過程にこそ慈しみと希望を、生きものとしての豊饒さを祝福しただろう。灰色の空に血がめぐり通うように青へと変わり、萎れ倒れた花がまた返り咲き、汚濁した水がまた流麗に澄み通うように。そして水たまりも、一つの有機的な生としてある。有機性を帯びる豊富な生である。

 オーウェルに水たまりは、彼の心そのものであり、その心の機微に接するための寛容な穴である。だから、まだ脈動する人間が水たまりに近づくとき、愛でる花を繊細に扱うように水たまりを避ける。そのときオーウェルは花を見つめる人を見た。有機物と有機物が通い合う瞬間を見た。まだ爪を伸ばす囚人は、水たまりを避けることで延命した。まだ自分の循環する水たまりを踏つぶすわけにはいかない。

 しかし機械的運動では、それはなし得ない。 車は、道路の水たまりを否応なく減速せずに踏み越してしまう。避けるために急ブレーキはかけられない。水たまりの水飛沫が飛び散る。機械システムに蠕動される世界の歯車たちは、血飛沫となって、周囲に飛び散る。まさにいまも。

 水たまりをひょいと避けて、機械から逃走線を走らせる。オーウェルはその契機を、常にセンサー反応を起こすように、足元の水たまりに目をやっては、薔薇を眺める雄洋さを保っていた。

 心の中に、潤う水たまりを貯水するオーウェルには、ビルマでの勤務は不向きだったろう。悪魔的勢力なるアメリカ的なテクノ機械、ロシア的官僚機械、ファシスト的な機械に巻き込まれる世情でオーウェルはどうするのか。ドゥルーズが言う。

もろもろの切片の加速された連鎖を断つために、公式の革命に期待することなどできないのだから、文学機械に期待することになる。この機械は切片の加速を先取りし、もろもろの「悪魔的勢力」が形成される前に、これらを追い越すのである。アメリカニズム、ファシズム、官僚制など。つまりカフカが言ったように、鏡ではなく、進んだ時計であること。『カフカ マイナー文学のために』ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著(法政大学出版会)

オーウェルは『1984』で進んだ時計として未来を牽引し、何らかの逃走線を引き、出口の扉を見出そうとした。その逃走線から水漏れが生じたならば、水たまりが現れる。その穴はまさに機械から人間へと戻る洞穴になり、出口から逃走する通路になる。

「絞首刑」の最後の場面。絞首刑が終わりしんとなる。執行員たちは早朝のゴミ出しが完了したようにタスクを終える。絞首台から百ヤードしか距離のないところで、皆と一緒にオーウェル自身も陽気に笑い合って、ウイスキーで首を熱くする。

#ジョージオーウェル   #レベッカソルニット #1984 

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