冒涜のマグロ (中編60枚)

1 わたしたち殺人事件

 マグロは三匹目だ。……またか。いい加減にしろ。受け身ばっかりだしなんなん……反撃の意志すらみせない……立派だと思っているのか……服従が?……きっとこいつは受け身でいてくれれば相手は幸せだと思いこんでいやがるんだ……思いあがりもいいとこだ!……世界ってのはこっぴどく……ぼろぼろになりながら……鞭をびんびんひっぱたかれながら必死こいてまわってるのになんだ……てめえらだけ楽しやがって……げてくそめ……俺は云ってやったんだ……だが勘違いはよせ……その仕事は俺のもんさ……――あゝうゝ、え、えゝやあっやめっ……ちょっ……ね……――なにがちょっだよ……こちとら全開(・・)なんだよ……ざけんな……てめえだけいい気になるなよ……
 今日のマグロは二日前、つまり木曜の夜、釣りあげた奴で、自称メンヘラで好きなものは人肌の温度ってゆうから俺はお外でしばらくコートも着ないで過ごしてやった。
 逢瀬は本郷駅のほとりに転がる喫茶店だった。招集時間と場所を決めるのにはずいぶんとくだらないラリーを電話でくりひろげた…………
 ―どこが都合がいい?
 ―どこでもいい。
 ―何か飲んで待ってたい。
 ―なんだそれ。(微笑)
 ―私、冷めやすいから。
 ―カイロでも持ってろよ。
 ―そういうのじゃないの。
 ―カイロじゃ物足りないのか。
 ―内がわからあったまりたいの。
 ―お湯でも呑んでろよ。
 ―ねえなんでさっきからぶっきらぼうなわけ。
 ―こういう口なんだよ。
 ―ええ? どういう口なの。内カメラまわしてよ。
 ―いやだ。
 ―なんで。はずかしがんないでよ。
 ―そういうのじゃねえ。
 ―じゃあなに? 部屋ちらかってんの?
 ―そうでもねえ
(部屋には居なかった……俺は衣装ケースのなかに押しこまれていたんだ)
 ―ひょっとして誰かいるんだ。
 ―……まあ、な。(腰骨をつまんで)
 ―誰よ! どこの馬の骨よ。
 ―さあ、誰だろう。
 ―んもうっわけわかんない。
 ―わかんなくて良いよ。
マグロは声を上がらせて大きな音をたてた。
 ―で、どこにするわけ。
 ―ちょっとノーリアクション? 大丈夫とかないの?
 ―何が。
 ―もう、知らない!
 しかし電話の切れた音はしない。衣装ケースに受話器のむこうの女の息が荒々しくもれてくる……
 ……俺はこのくだらないマグロが、電話のむこうで何を考えているのか思いうかべてみてはひとつひとつ空想の中のマグロの部屋にベランダからあがりこんで首のうしろへ手をまわして背骨をつたってのばして静かに触れるか否かのギリギリで撫でて力を抜かせてから捕食した。思いうかべるマグロの表情はよじれひねくれるのだろうがうまく像を結ばなかった……今回のマグロは口が大きい……これまでの二匹のマグロはひどく口の小さい奴らで歪みも弱く、印象が薄かった。大口をひらいて笑うことのできる今回のマグロはどうやってその構成がぐにゃぐにゃになってしまうのかいまいち想像ができなかった。せいぜい想像の中でのマグロは真顔のままりんごになってえへへうへへへとしていて不気味だった。吐きそうになった。マグロの上に真顔ってどうしたらいいのだ。ますます腹が立つじゃないか!……主体性をもたないままに刺身にされちまんだ……馬鹿め!……
 俺はきまぐれに電話を切り、布団に身を任せて力を抜いた―という動作を夢想した。手にしていた他人の腰骨は獣の複雑な骸骨のようで、なめらかな流線や鼻の跡地のわかりやすい空洞、眼玉のはめこまれていた虚のようなくぼみに指を挿入れては撫でた。べとべととして押せばつぶれて中身がふきだすか、いや乾いて柔軟にその先端を押しかえしてくる肉の感触はもうなく、無機質な固い乾ききったざらりとした骸の残り香だ……思いだしたように電話は鳴った……地中はひどく……つながりづらい……消えかけてしまいそうな意識の中で……―もしもし―ねえ、なんで切るわけ―電話代がもったいない―そういうもんだいじゃないで、しょ……ひらがなを読み上げているようだ……―あとこっちはつながりにくい―あら、そうなの? たしかにくぐもっているわ―それよりどうしたんだい?―どうしたもないわ―……ひどく長ったらしい……ぐだぐだつづく会話だ……うんざりする…………どこで集まんの―君の好きなようにすればいい―あなた主体性ないわけ?―そのまま同じこと君にかえすよ―ムカツク……喫茶店でいいかしら?―勝手にしろよ。どっちにしろ、俺今は動けない―はいはい、じゃあ駅前の喫茶店ね、今日の十七時に―……とても、十七時に間に合う筈がなかった……そろそろ完全に埋められたころだろうか……くそっ……腰骨を下腹部においてみた。ひどくここは窮屈だと思われるが……腕を伸ばすことはできないが欠伸びをする余裕はある……カプセルホテルをさらにちぢめたような……息苦しさには慣れていた……首を締められているのには慣れてしまったからか?……違う……もともと息苦しい……首がさびしい……勝手にしろよ……俺は土葬をあきらめた。裂けた横腹からカセットテープがこぼれた……こんな詩がくりかへし収められている……酷く稚せつな……種子のちらばるように……………

おせせせせせさせせせさせせさせさせさせせせはかせせせさせかおかおかおかせせせせせおかざせせせせききのきままみまみままま「み「み」「みみみみみみこのぬつつゝなばははびびびびぶぶべぼぼほほほぽぼぼぼぼぼぼぼぼぼほ、

 ―……俺を埋めた〈わたしたち殺人事件〉はずいぶんと雑な埋葬をしてくれたものだ……これじゃ記憶から抹消されない……第一辞世の句すらない……スタンダールの墓碑には「生きた、書いた、愛した」とあるそうだしルイ=フェルディナン・セリーヌの墓には「Non」と一言あるだけだし、タルラーパンクヘッドの最後のひとことなんて、バーボンをちょうだい―だった。俺ならなんだ……なんだったってなんだ……この世界は構造の迷路……生きているのさえずいぶんと雑になったし物書きさえしない……愛なんてエゴさ……呪詛は使い古された弱き者の持ち物、毛布で毎夜かみついて眠った振りをするためのおかずでしかない……平和なんてない……内乱は続くんだ……永遠に……
 考えない猿だ……あの女は……まだ〈わたしたち殺人事件〉ちゃんの方が考える猿だった……俺と〈わたしたち殺人事件〉はひどくぶしつけな性癖で辛うじてつながっている……人間はもともと2人で1人だって云うけどどうもそれを辛うじて……世間のゴミどもの云うところの―赤い糸を信じていて、でもそれはどうも肛門から垂らしてあって……とにかく満員電車のなかで……触れあった尻たちの悪夢だった……尻……ASS……Ass-kick(ケツを蹴とばせ)……くだらないふしだらさえない……恥らいなら……むしろマグロのほうが面白みはない……しかし、彼女は経験上男とひとつのベッドで向かい合ったとき……自然に……というかむしろ当然のごとく……自動的に服が脱げると思っていたらしい……―なんで脱がさないの?―俺はこの女をものすごく蹴とばしたくなった……ねえ、ブラのホック片手で外せる?……女はそういった背に腕をまわすようにうながしたから正面きってその腕でこちらへマグロを囲いこんで首筋→うなじ→背筋へと舌を滑べらせてホックを噛みちぎった……金属……血の味……鉄分の味……―ちょっと! いたいんだけど!……背筋に歯はくいこんでいない……アマガミ?……いや容赦は知らない……恩赦! 恩赦!……右翼をもいでやる……きれいな肩に舌を切って出た血で汚してやる……ブラのホックは思っていたよりも鋭い……金属の味……胸が自由になれば女は布団に身を任かせて解体を待ちわびる赤身の塊になった……豊洲……築地……豊洲……築地……俺の指が舌が蛇が上へ下へと行き交う……毛はそれなり、しかしひとつまみまぶしたような物足りなさを元に丘にそびえていた……くだらない山だ……幻滅とは不意に不本意に襲来して……さらってしまう……出来たてホヤホヤの艶々な恍惚を……俺の滅亡の原因は女の宇宙が無臭だったということだ!……ムカツク!……喫茶店……喫茶店……喫茶店……イタリアンバー……カフェ……スイス料理屋……居酒屋……男女の仲なんて喫茶店の向かい合わせで済んでしまうのは……あとに巻きおこる嫌悪の段落は蛇足だ……むなしい……終わりにむけてのたうちまわる……そのけなげさ……全部汚してやる……嘔吐…………マグロの赤身が赤らんでゆきその表情がふやけまぶたもおぼろげになってゆくとその面がゲシュタルト崩壊してゆく……お前は誰だとか……つがってんのになにくだらない質問をするんだ……哲学か?……ははん、哲学か! そうさ! 馬鹿が哲学するのさ! 吐きそうさ!……マグロは大口を開いてかっかと息をかすめて高い音を……悲鳴にも似て……鳴らしてみた……トランペットのようだ……その吸いこまれそうに膨らんだふしだらな上の口を徹底的に苦しめるとかそういうレベルでないほどの恨みで塞いでしまいたい……
 ―……〈わたしたち殺人事件〉はよくできた丈夫な人間でちょっとのふらつきで崩れたりしない……俺だってそうありたかったさ!……そうさ、あの雨の昼間でさえ、俺は濡れるのが嫌だった!……捨てられた段ボール箱の小屋に……夜毎の淋しさをひきずったみたいに……泣き喚めくパサパサな毛を散らした哀れな小犬みたいにはなりたくなかった……雨は弱いほど心地がいい……酒がまわって肌を……頬を赤らめていく寸前の……女を抱きよせたときの肌の温度だとか……首を締められた瞬間……それとは正反対さ……雨といえども年中良いってわけじゃない……俺のかつて掌中でもてあそんだ……抜け身の天才の女が……こっぴどい梅雨生まれで……濡れたアスファルトがしみついていた奴だったが……―私、雨の日の露面でへたりこむのが好き……―とつないだ手を離して誰も見ていない……世界から追い出された星々の見つめる空っぽの路地裏に……ぽつねんと口をひらく水たまりにひざをつき……次にスカートをしめらせて腰を沈めこんだ!……俺は呆気にとられて頭を落としたさ……酷く酔っぱらっていたからな!……あの晩は!……ひょっとしたら女に水面にキスをしたかもしれない……何百何千何万キロと俺たちの靴底さえ味わえない地の感触を嫌というほど味わったドス黒いタイヤがはねた水たまりを!……女は何万キロと口を混じえたのさ……そして俺はその何万という距離と、間接的につながりを持ちえてしまった!……ああ! あさましい……夜毎俺の元へその何万の距離が枕元に現れて女を仲介した情事にムリヤリ参加させられるのさ!……女はけたけた足をばたつかせて胸を跳ねさせ笑いつづけている。はじけてしまえばいいのにとさえ思うのも飽きた……飼育されていく距離の深さのなかで俺は静かに果てるのさ……残るは土砂の舌ざわり……土の味……辱悔……水面はいつだって俺の足元で横たわってその身に重ねられるのを待ちわびていた……その瞳はかき混ぜられた溜のように濁って……光は入らず……深淵につなぎとめていた……俺はその都度けとばした……かったさ……でも倫理が赦さない……そいつの開かれた悦びの表情の熱……それさえ反対だ!……何の話だったか……そうさ、雨の、小雨の心地よさ……霧……女は冷たい、冷めた女の瞳……三白眼……―
 ――〈わたしたち殺人事件〉という女はそれはそれは綺麗な丸い目玉があってその黒目の割合は瞳全体三分の二を占めすもので、見惚れさせるためにある鋭利さがあった……俺はよくその目を見つめてやる……赤はみだら、瞳に己は映えぬ……俺は不純か!……お前を汚す……綺麗がなんだ……すべては穢れてゆく……いやおうなしに!……あっけなく……悲しげに……霧のにおい……そうアスファルトが女を包みこむことがあるか……俺たちは卵巣を踏んでやっと歩ける……〈わたしたち殺人事件〉の犯した罪は……世界をひとつ壊したことにある……ならば瞳に映えぬのはどうだ……世界は脆い……すぐ不具合さ……皆々壊れてしまうのが恐いから権威に逃れる……権威が思想をねじまげて旋動する……考えない豚どもを! そして喰らわれる……男女男女の快楽の仲も、いや仲でさえ……巻きおこる内乱……俺に支柱はない……糸をたぐりよせてはかろうじて取り止めている……世界は漂流する……洞窟のなかで……女の中さえ……いや女さえ洞窟のなかのように何がどこにあるかわかりゃしない……せいぜい辛うじて辿りつけた足元を擦するしかあるまい……痙攣の音……眠らぬこともない……雨は止まない……さては終夜雨と擦したころにはもう手遅れ……渇きを潤おうその滝……俺は沈む……深い深い遠い深淵のなかへ……渦の中に……ねじれろ……ぐにゅぐにゅぐにゅ……くだらない……滑稽さ、朱色の頬……沈むはえくぼ……そうさ……〈わたしたち殺人事件〉には大きなエクボがある……彼女が大きく見える……一対のくぼみが……酔え……吐け……荒息の吐露……うじのごとくのたうちまわれ……見失う……その顔……ゲシュタルト崩壊!……俺が見ていたものはなんだ……どこだ?……世界はどのへんで落とした……どうしてくれるんだ……眼鏡さ……〈わたしたち殺人事件〉……おまえは俺の眼鏡だ……盲になってしまえば早、口もきけぬ……唖さ……
〈わたしたち殺人事件〉である理由を探して旅に出たことがあった……ならば愛に飢えては漂着する女々の骸……世界は簡単に砕ける……月の音も忘れた……どうした……どんな音だろう……夜も更けぬころから呑みて照点の合わない目でこらして精一杯懇願して……すると〈わたしたち殺人事件〉はいらん同情さえ汚物のように扱う……月の音も忘れ草……かぐや姫にもなりたい年ごろがあって……竜宮に溺れて老衰……老いたくない……若くて死にたい……〈わたしたち殺人事件〉にはみえていた……月の音が……―
……突然の死……あゝ、あれよこれよ……衰退……綺麗なままぬるぬると夜毎にしずむか……その身よ……つらつらと砕けてゆく……地獄へ向けた死のレース……編み目もように浮きでる己々の日日……わたしたしたし詩抄と〈わたしたち殺人事件〉はくりかへし……ただ、死こそ断絶……あゝ俺は知らない……このロマンティシズム……もう書けたもんじゃない……俺は無知さ……この件に関していってしまえば……いい加減バチが当たればと思う……病だ。
……俺の〈埋葬〉は失敗に終わった!……精神にも……身体も、だがどうだ? 俺は精神を見失なってしまった! 簡単な話だ、必要ないとなれば吐き捨てられたのだ! 合理性を容易に超えている……〈わたしたち殺人事件〉は自己の優良性に欠けたものに対して一切のためらいも罪悪感という心情の作用もなしに力を入れずに捨てさることのできる……断捨理の天才だった……俺が衣装ケースに密閉され暗く冷たい土中に葬られたのは、彼女にとっては不用なチラシをくしゃくしゃにして塵籠にぶちこむ程度の安易な行為だ……俺たちの知るロマンスというステレオタイプはいつだって俺たちの吐き溜めとなっていた……彼女と嫌々、トゥルーロマンスという映画を観た晩があったが……開始十分ほどで主人公とヒロインが合体しやがった! なんだこれは! あんまりじゃないか! 俺は観る前に食べたパイを吐いて白ワインに口中を含ませてアルコールまみれの顔面で目を真っ赤に滲ませて吐しゃ物の海に伸びた……なんだよ……あんまりじゃねえか? 童貞オタクのこじらせ妄想だ! そんな都合の良い女なんて現れっか! プレスリーと格闘映画の好きでスパイダーマンの朗読を熱い視線で聴きつづけるなんて……あゝ、くそ! この男、顔はいいんだ! 畜生! なんて奴だ! イケメンのオタクなんて……タランティーノ、俺は騙されねえぜ……こんなの本当じゃねえ……ただの夜更けのおひとりさまの虚妄さ……もううんざりさ……恋なんて幻想さ! ポスト真実の幻想の時代さ……もう古いんだ! 俺は一生てめえらみたいな虚妄に浸れない……リアリズムの男だ! 〈わたしたち殺人事件〉は俺の脱落をヨソに見続けた……ヌード恐怖症のパトリシア・アークエットの乳房が夜のうす暗の中に青黒く染まって覆い被さる男優の下で影を描いている……貴様のロマンスを正当化しようとせんシルエットさ! 神秘的な。優しさを持ったなだらかな音楽が耳をつんざく! ベッドの先に並ぶ二つのキャンドル……うしろにあるのはまちがいなくプレスリーだ!……Loveがなんだ、楽しいか、それは擦りこみさ! なんだってんだ。なんだってプレスリーなんだ……セックスすれば愛成立なのか?……動物にならないようにするための正当化させるための人間たらしめているセーフティだろ?……―ねえ、早く、ジラさないでよ……ねえってば……―マグロめ、俺の芸術にケチをつけてくる……じれったいらしい……この大口のマグロはすでに顔面を歪めて卑猥な上の口をパクパク広げてやがる……空気中の酸素を余すことなく食べ尽くすつもりだ……沌欲だ! 恥もない! プライドもない! なんて奴だ……このマグロは俺を食らおうとしてるんだ! 下衆が!―……俺は光速で手をひっこめた……そして濡れた指先を二、三枚ばかりのティッシュをついばんでせっせと拭きとって……洗面台へかけ込んだ……ベッドで無造作に横たわる困惑のマグロにもその中に響くくらい盛大な水音をきかせるべく蛇口を開いて手を洗った……石っけんをすぐ泡にしてくりかえしくりかえし手全体に塗りたくってはこすり合わせた……肌の色さえわからなくなって泡の色も変わらなくなると今一度盛大な蛇口のひらきののち洗い流し散らした……洗面所はバケツをひっくりかえしたように流れきらない泡を垂らしながらまみれてしまった……それでもマグロの中身のぬかるみに指を挿し入れた感覚は抜けなかった……―


2 きずだらけのマリアンヌ

 驚いてくれ虚勢でいいから……愛という偽りを呻く俺は今、素面だ……そして何度も何度も何度も〈わたしたち殺人事件〉のことを頭で反芻している。発語してみる―……
 ―〈わたしたちさつじんじけん〉
 ―え何? 小西くんどうしたの。
 ―〈わたしたち〉
 ―何よきもちわるい。
 ……単純な話だ、入れては出す、人間はおろか世界万物どこもかしくも入れては出してやがる……野卑な動作さ……生まれ変わりだって入れ換え、呼吸も……読書も食事と排泄も……セックスも……会話も……
 ―〈わたしたち殺人事件〉。漢字っぽさがにじみでた発語だ……彼女の名前として発語している〈わたしたち殺人事件〉は今俺の前に居る、カフェオレをけげんな目で……なにこの土砂色の飲みものは……こんなものがあっていいの?……と初めて見るように……見つめるマグロ三号機にとっては非常識的な日本語の組み合わせであり、〈わたしたち〉という〈We〉にぶっきらぼうに殺人事件という刃物のような言葉が仲良よく並んでいる。この不安定さはマグロ三号機に奇妙な―何か毒でも盛られたような舌ざわりの悪さ……喉ごしの悪さ―感触を持って鼓膜をゆすりにかかる……ここまで俺が積み重ねたこのマグロ三号機との曖昧な仲を震わせにかかるのだ……不穏さだけが染みわたる……〈わたしたち殺人事件〉における〈わたしたち〉は複数形でありながら俺と〈わたしたち殺人事件〉と称される女性との間柄、つまり肛門からの赤い糸でつながれているような拘束力をもち合わせている……だが緊縛のような窮屈さはそこになく、むしろ軽うじて繋がり合う、ゆるくて朧ろげな拘束である。その気になってしまえばひっこぬいて指にからめてまとめて捨ててしまうことさえ容易な話だ……ただ俺とのその糸を断たない、〈わたしたち殺人事件〉の思惑の根源には心身における淋しさがあるからか……云わば俺は〈わたしたち殺人事件〉の玩具か……脳をハイジャックされている……向かうは一対の高層マンション……マグロ三号機を彼女のパイプベッドへ滑べらせた……豊洲……ここは豊洲……換気のできない豊洲……呼吸がままならない……苦しい……このマグロ三号機……換気の文化がない……俺はカルチャーショック……下水の逆流が下階から轟く……嵐は俺たちのすぐぞばまで近づいている……築地……水揚げされたマグロ三号機は虫の息……そんなにがたがた震えて寒いのかい……?……三号機は活動限界か……声も荒げてくれない……只、胸を大きく上下させているハイスケールの肺の動き……彼女に呼吸が足りていない……人工呼吸だ……鼻をつまめ……洗濯バサミさ……唇を覆って含んでいる空気を押しこんだ……破裂を期待していた……―
 マグロ三号機から引いていた赤い糸が解き放たれてベランダをつきやぶり夜更の街路へ垂れていった……静かに真っ暗なアスファルトにリアス式海岸を描いて眠りについたから明日、あの浜辺で静かに波の音を数えましょう―……
〈傷だらけよ私は!〉……とマグロ三号機との初めての夜、全てのプログラムが済んで天井をにらんで大の字で寝転んで声を裏返らせた……これまでの自分を否定したまゆのひそめかたをして……〈私って不幸だったのかな〉ヤボなマグロだ……傲慢という概念を知らないんだ……きっと自分の足の指にとてつもない飼い犬を卒倒させる臭気を帯びていても気にしない部類だ……せいぜい自分が幸せか不幸だったのかなどと誰にでもなく尋ねてみることこそ浅はかだ……内面の吐露……意識の垂れ流し……まれに歯車を掴めやすいと相手のことが手に取るようにわかる場合がある……相手は自分を見透かされたように意心地を悪くするか只、驚く……マグロ三号機と二度目の逢瀬の際――俺はこのときすでにこのマグロ三号機との契約の解除を考慮していた……要するに二度目を実行は愚か計画を企むことさえも頭になく……四号機の製造のテーゼを練っていた――マグロ三号機は自ら連絡をよこしてきたのだ……―もしもし――……はい、どなたでしょう―からかわないでよ小西くん、私よ***よ(マグロ三号機の下の名前だ。ニュアンスとしては下の口に通ずる心地があり、劣等感に似た自己の名前への呪詛が度々見られる―私の名前、あれに似てるでしょ……そう、キライなの……あんまりじゃない―俺に会うまで偽名で俺と知りあい連絡を取り合っていた……信頼できない……フジ子と名乗っていた……峰? いや谷フジ子……ひどく古くさいと感じた……本名の話をされたとき、その偽名は母方の祖母から拝借したものだときかされた……その祖母は昨々年に亡くなったらしい……枝きれのように細くなって開いているか曖昧な口から少しだけはみだす死の手前の声は彼女に聞きとれるものではなかったという……―おばあちゃん、ロクに自由恋愛できなかった、ってきかされたの……だから私はおばあちゃんの分まで自由恋愛してやろうと思ったの、だからその、片身じゃないけど……せめて名前でも楽しんでほしくって……―傲慢だ……)―……***さん? あゝ、あの晩はどうも―いえいえ、いいのよ、今度はいつ行きませう―……行く行かないの決断の権利はおろか彼女に対して自由もないらしい……―はあ、こっちは少しこのところ忙がしくって……(もちろん嘘だ……)―……あらそうなのね。ちょっとでいいの……ランチとか、簡単な呑み屋にでも……――このマグロ……吐きちがえもはなばなしい……股を開けばこっちが云うことをきいてくれると思いこんでいる……突然コネクタを切りかえてしまう軽さを持ちあわせたマグロはのちのちに豹変する……彼女は相手に求められることに喜びを持つと同時に相手が自分の思い通りに動くと思っている……攻守関係があると思いこんでいる……快楽のお返しのつもりか……割り勘は銭でしか起きない……愉悦も満足感は分け合えやしない……悲しみも……結局は他人は絶対に混じり合えない……陰茎を押しこんでつながりあってもそれはたかが肉体が近づいただけで何も近づいてやしない……俺は求められなくなった……初号機への愛(というものがあるとすればそれ……今の俺にはこの存在は信じられない……幻想だ……)の濁流でもうこの理はわかってしまった……女の……マグロの豹変は……気色が悪い……きっと一夜が過ぎて何ごともなくこれまで通りの関係で過ごしてしまえるような女の方が甘えることができない状況をつくってくれるのが良いかもしれない……―あまり時間はつくれないかもしれない―……ハア、空いてそうなの教えてよ会いたい―……押しつけがましすぎる! なんて奴だ! 随分ひどい半生を過ごしたらしかった……いつ空くかわからないんだ……―じゃそのとき教えて―……のテーゼは正しくない……この発語をされた相手はきっと空いてる日を提示をすることはない……うやむやになってオシマイだ……三号機は全くモタないかもしれない……むなしいもんだ……食いものは飽きた……只、眠ってしまいたい……忘れたように死んだようにぐっすりと……―
 〈こんなにツライなら 愛なんて信じない……〉……少し前にあるミュージシャンがそう唄っていたけれど……愛が幻想だとわかってしまってからが本当にツラい。こりゃ固まっていた自己の常識をアップデートしなきゃならなくなる……俺にだって愛のもとに動いていた可愛い頃もあった……だがやめた……むごいだけだった……愛は一方通行であるし、勝手に思いこみでできている……そうなれば残ってしまうのは性欲? くだらない股にぶらさがっただらしのないいちもつのために神経を尖らせて女を愛でておだてていじめてからかって挑発して笑顔をつくってみせて嘲笑してさげすんで馬鹿にして踊らせて愛したフリをしてベタ褒めして頭を撫でてみせてちょっと病んだフリをして甘えて掌をくすぐって頬をつかんで首筋を舐めてうなじを指でなぞって指先を含んでみせて耳たぶを少し噛んでみせて赤面を馬鹿にして歩幅を合わせてみせて車道側を歩いてみせてドアを開けてあげて連絡をマメにとって気が向いたらわかりやすい優しさをまぶしてみてと思ったら嫌いになったみたいにつきとばしてみて崖から眼下を覗く顔を夢想して三白眼を注文して変顔をして好きなものを把握して嫌いなものを目の前で食べないように注文に気をつけて食べるまえに写真を撮るようなことをしないで只食べて喜んでるフリをして君といると楽しんでるんだと思いきかせてみたり甘ったるいスタバに入ってみたりかといって相手の優しさに遠慮してみたり悩みごときいたりわかってあげた振りをしたら核心をつきそうだけど内面にひた隠してそうな思わせぶりなことを云ってみたり笑顔が好きだよと云ってみたりわざとふざけてみたりエスカレータはうしろに乗って普段見ない目線に合わせてみたり文句を云ってみたり固くなにだまってみたり甘いものを苦手ぶったり食べきらないものを食べてあげたり財布を忘れてみたりトイレに行ったスキを見てお支払いを済ませてみたり夜毎思ってみたり日中面を夢想しまくってみたり君の好きな音楽をひたすら聴いて暗記してみたり小説を読むときの想像のフィルター四基盤に君を置いてみたり触れるもの見るもの感じるものに君はどう感じるか考えてみたり自分の考え方に君のイデオロギーを食みこんでみたり君のためにフェミニストぶってみたりどうしたら上手くいくか試行錯誤してみたり只、只、只、ひたすら君のことを俺のワンダーに合わせて侵食していって……果ては性欲のため? 滑稽じゃないか?……なら仮面を被りきる……愛の死んだ風景がその小さな風穴の窓から見えてくる……酷く濁声で……―
 〈……もしもし、私よ……ねえ、予定合わせれそう? 連絡頂戴よ……〉……〈もしもし小西くん? 今度の土曜の夜いいかしら? 栄のクリスタル広場に十九時ね……おねがいね……〉〈ごめん! バイト長びいて少しおくれちゃう!〉〈ごめんなさい……本当、おくれてしまって……怒ってるよね……怒って帰っちゃったよね……〉……〈話がしたいな……もしもし、ごめんなさい……何度も……でも謝りたいの……実際に会ってさ……ねえわかるでしょ……〉……〈もしもし小西くん生きてる? もう一週間連絡くれないじゃないの生きているの? 私心配すぎてハゲてきちゃうよ……連絡して……おねがいだから……〉……〈もしもし、淋しいわ……私もう〉……――このような留守電の濁流が日に何十何百件と上り、とうとう俺は契約している携帯会社の支店に赴き、留守電機能を解約した。……俺のような本来なら社会から放畜された焦土の塵芥がそこの歯車に単身赴くのはあちらさまにも申し訳のない話であるし、俺だって居心地が悪い……俺に携帯電話を持たせた〈わたしたち殺人事件〉に同行を願ったが彼女にしては珍しく予定が合わせることができなかった……〈埋葬する死体が今月増えちゃってさ……ブルドーザーでまとめて埋めてしまえば楽なんだけど、水葬とか天葬とか細かい注文が多いのよ……琵琶湖に沈めてくれ、とか……東名高速に大根下ろし葬にしてくれとか……竹島に島流し……猟銃で塵とか……塵芥収集車にぶちこむとか……調理してホームレスに食べさせろとか……やんなっちゃうわ……全部ウジが食べてくれればいいのに……〉……〈わたしたち殺人事件〉ちゃんの直属の上司は百町の生首レイプ・ソーセージと呼ばれる人間腸詰の専門家でありながら始末屋の元締めが契約している清掃員から送られてくる郵パックの中身を彼女へ委託している……おもにフラれて生きているのか死んでるのかどうしたらいいか若い娘や……寿命の短かい苦しみの死体や……小学校のあるクラスで飼われた金魚を校庭の裏に溺らせた悲しみや……ある少年に起きた同級生の女の子のひいひいおばあちゃんが入院したと聞いたときの胸奥のかゆさの骸や……地下鉄のスチール缶によるおきざりにされた迷子の幼女のような恐怖心の抜け殻や……A4の郵パックにひとつずつ収められたその死体を〈わたしたち殺人事件〉は丁寧に特注で葬ってあげるのだ……わだかまりを……心の中の死を見届ける……―
〈ごめんね小西くん。結構いっぱいいっぱいなんだ……落ち着いたらこの件でお返しじゃないけど……なんて云ったらいいかな〉
 ―罪ほろぼし? 妥当な言葉を見つけられない俺は〈わたしたち殺人事件〉ちゃんに罪悪感に近い濁りを与えぬよう、――いいよ、気にしなくて――とそよ風の返答をした……〈でも留守電やめちゃったら困んない?〉
 ―もういやなんだ、留守電ってワードを聞くのも。
〈よっぽどねその女。私が言葉責めにしたけよか……あ、でもそれ私の仕事増えるじゃないの〉
 ……俺が〈わたしたち殺人事件〉に申し訳なさを与えぬように気を遣って振るまわってしまえば俺の中のわだかまりが〈死体〉となって郵パックで届いてバレちゃって葬られちゃう……すると〈わたしたち殺人事件〉ちゃんの中で俺の内面を葬ったことに関して鬱屈が世界に作用して大地震が起きてしまう……だから俺には〈わたしたち殺人事件〉ちゃんにできる限り軽薄に余裕を持ち合わせて振るまわらなくてはならない……もちろんネガティブの暗い影を落とさずにそれによって〈わたしたち殺人事件〉ちゃんの負荷を与えてしまわぬように正当化までして……東北だった……熊本のだって、彼女はどん底に落ちこんだ……次はもうもたないかもしれない……もう俺は軽薄でいるしかない……それが俺と〈わたしたち殺人事件〉との距離間なのかもしれない……―
 ―また何か用があれば頼らせてもらうし、君が必要なら動くよ。そう俺は云い締めてやりたかったが、云わずとも伝わってしまっているのだ……〈わたしたち殺人事件〉はそういう女なのだ……


3 タイタニックプレイの発明

〈わたしたち殺人事件〉とTSUTAYAで借りた「タイタニック」を見終えた俺は、冬の夜風に晒された……眠れない夜だったのを覚えている……夜の果てにくすぶっている太陽の臭いを必死に探していたんだ……
 凍りつく氷流極まる極寒の海の底へレオナルド・ディカプリオが沈んでゆく……マグロ三号機も忘れてしまって、〈わたしたち殺人事件〉に甘えてしまったころだった…………〈……ああやって沈んでしまってさ、海中の微生物に美しい容貌も巧ましい躯もむさぼられてしまうのよ……あんまりじゃない?……たかが氷流の一塊にあたってだよ……〉俺は三時間弱つづいたイチャラブの連続に蹴落とされてひるんで……途中から眠ってしまった……パニックで混惑しながら冷たい海へ飛びこむ人びとの悲しみで目が覚めた……その惨劇ですぐに……〈わたしたち殺人事件〉の目を覆ってあげたくなったが彼女はそれを静した……
〈いいのよ小西くん……心配しないで……虚構と現実の区別くらいつくわ……―〉彼女の瞳は潤んで赤らんでいた……胸元は火照り、髪は乱れた……〈わたしたち殺人事件〉の内面にとやかく云えるものではなかった……
 ―海中で氷づけになってるかもしれないよ。酷くSF的な考えだった。サルベージ。
 ―そんなのありえないわ……都合よくレオ様だけ海中で凍るわけないわ……レオ様が海中で凍ってしまったなら、海はどこも凍ってしまってるわ……確かに論理だっていた……
 マグロ初号機との関係構築の時、俺はそのマグロとクリスマスの夜更け……身を硬ばらせ凍結寸前で思いを告げ合った……舞台の公演はまだ残っているだろうか……タイタニックよりもすこやかで死にきれない……只、肌を刺す寒さで動けなくなった……マグロ初号機の体温を感じて安楽を得ていたことが懐かしい……純情だったのさ……どこでいなくなったんだい?
〈わたしたち殺人事件〉からしてみればその生あたたかい愉楽がくだらないものに見えただろうか。
 ―マグロ初号機はいわゆる〈タイタニック・プレイの発明〉と称された……彼女が沈没するかこちらが沈むのが先か……青かった俺は……彼女に溺れたがったが、すでに深く溺れていて、息がかすかに薄明に透けるほどだった……〈タイタニック・プレイの発明〉との関係は不完全はおろか、むしろ不安定でいつ音を立てて崩れるのかわかったもんじゃなかった……俺のマグロに対して行う一時間以上続く深い深い、なでやかな触りは彼女を氷上げされた肉塊へと変わりはてた……身動きのとれない……降伏を、幸福? いや、そんな誤植などではない……むしろ呆気ない……滑稽な……力なくたらりと……目は虚ろ……生気のない……死んだ? と笑ってうかがってみせる……大きく上下する胸が生を訴えている……活きのいい魚みたいな痙攣のあと……荒く熱っぽい息……ふやけた顔……溺れてゆく……降伏したマグロの淫らな躯を……この無抵抗をつくりあげること……それに気づかず……只、女の快楽の創造だけに愉楽を見出していた生ぬるい日々……
〈それで? 何、ずっとそんな感じだったの?〉
この話をタイタニックを見終えた深夜に目が醒めた俺と〈わたしたち殺人事件〉が性体験の暴露会が始まった時、語られた生やさしいぬるい情事に腹を立てた彼女がそう苛立ち気にきいてきた……その晩、俺たちは夜がこんなにもこれっぽちという短さなんだって知ることができた……それだけ知ることだけでも有益な収穫だった……枕元のスタンドの明かりは眩しかったから付けずに月明かりをたよりにしていればいずれ〈わたしたち殺人事件〉の容貌が浮きあがっていた……短い黒ずんだくしゃくしゃの丸い髪の波……肩の流線……昼間見る〈わたしたち殺人事件〉よりも物体じみていた……彼女の鋭い三白眼で睨むのも頬を歪めた大きな笑顔も暗闇が邪魔をする……月明かりに目が慣れない……
〈若かったし青臭かったし……会えばだいたい……きもちわるいよ、いま考えれば……〉
 微笑の声がする……フフフとかいう息をこする……俺も笑っていたかったけど腹筋が痛いんだ……早すぎるんだ……
〈今と変わらないわ……〉
 痛いほどその返事が刺さるから、これだからチョンパを夢想してしまう……けどしんどいから〈わたしたち殺人事件〉に溺れていたい……頭を撫でていたい……髪を撫でて耳たぶまで滑って頬を伝って鼻で跳びたちたい……いつもギラギラの瞳が暗闇でも映えてくれてほしかったが……名残り惜しげにつぶれかけていた……俺は安楽の眠りがとれそうだ……溺れて沈んで、彼女という深海に冷たく沈んで、凍ってしまうか……微生物やプランクトンに蝕まれてゆく……〈わたしたち殺人事件〉に過度な好意はバランスの崩壊の危険性が頭を過ぎる……濁流……彼女は俺の世界だ……愛は残念なことに幻想だし平気で逆流だ……只、只、只、空回りで空転屈伏死……毒だ……愛で身を心を滅ぼす奴だっている……俺も〈わたしたち殺人事件〉もボロボロになりすぎた……どちらとも自分を犠牲にした……戦争だった……何故こんなしんどいことを我々はしなきゃならない……精ぜい、喫茶店の席で卑猥な会話を珈琲で口を潤おしながらあとで思い出して赤面しそうなテンションで話すくらいが幸福なんだ……俺は何を求めている……その抱擁の意味はなんだ? それによっておまえは何を得る……心は絡みつくほどズタズタにしんどくなる……もう恋なんてできなくなった俺に……俺の身に雷は落ちない―……
 ……―〈思い出せば思い出すほど恥よ〉背を向けてしまった女の像はそうつぶやいてみせた……〈忘れなさい……〉
 ……簡単に云うな……―
 まっくらな部屋の隅に残る画面に映っていた沈むレオナルド・ディカプリオに、消えてしまって黒を、静寂を映しつづけるテレビに、俺は猛烈に嫉妬した……


4 与謝野晶子

  乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き―
     (与謝野晶子/みだれ髪 臙脂紫)
 ―ひととおり済んでしまって、荒くかすむ息が二人のあひだに充満して窒息の味がする……その肌と肌の触れ合いの中で体温の異和を覚える……女は何を数えるのでもなく、過ぎていった騒乱の残り香の有り処を遠く離れた天井に探していた……従順だ……俺たちは血反吐を流そうが股が裂けようが……心を抜きとられようが……野蛮な絡みに巻かれようが……唇をつけ合わせて歯をあてがえようが……パンティを口に詰められようが……顔を塗りたくられろうが……髪がくしゃくしゃになるまで撫でまわされようが……むさぼり食うように、歯をかみ砕き舌を切れ切れになろうと指がしびれて感覚がふやけて体液でしわくちゃにふやけようが……腰が砕けようがその肉体がこちらに身をゆだね……荒い息の熱量に冷めた肌が忘れていたぬくもりを思い出して……只、只、ぬたりとぐちゃぐちゃに……従順に……渦に浸りきっている……―星が、星がまわって……―夜の名前も知らずに俺も相手に消費されていく……底に落ちきったら愛欲の微笑をほどこしませう―……嘔吐…………

なににとなく君に持たるるここちして出でし花野の夕月夜かな―
(同前)
 眠れぬ夜が来れば、ぬたりぬたりと忘れようと酒を手にした。俺は強くない……すぐに赤らんでくる……頭がパンクしたからベッドに転がればいつかの肌が触れ合った夜の、夜気が、女が残していった長い髪が残る……色合いからしてまだ幼気の残るマグロ三号機か……女の頭頂部を抱き寄せたとき……熟成した汗のかおりがした……少し前なら苦手だったかもしれないその臭気を受け入れるほどの力量を持ち合わせることができるようになった俺は軽薄さを持ち合わせたらしい……
〈わたしたち殺人事件〉を酔った勢いで抱きよせた、あの時の頭部のシャンプーのかおりとは比べものにならないほど、庶民的なマグロ三号機のかおりは幸福とは何かを考えさせられた……きっと俺は近づきすぎたんだし、向こうも俺に近づきすぎたんだろう……―いざ眠れたとしても夜中に途切れる……見るのは悪夢……

 ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯―
(同前)
 ……朝が部屋にやってきてしまう……あいつはいつも俺の静寂にケチつけて勝手に上がりこんできやがる……つき刺さる……薄明のなかで見つめると〈わたしたち殺人事件〉の容貌の造形が刻一刻……だんだんと……ゆっくりと正体を明かしていく……俺と彼女とが互いを剥きだしていった夜の始めと……ここまで互いを晒けだした秘密の残骸のダイジェスト……秘密を失なった俺と女にもう華は残っていないかもしれない……〈わたしたち殺人事件〉の寝顔は安らかに髪に乱れていた……素顔を横断する髪が鼻筋を伝って唇の付け根へと過ぎていった……普段張りつめた素情ばかりの彼女はゆるくなめらかになっている……夜は安らかほど平和かもしれない……もしかすれば夜中その安楽の表情を眺めつづけることはその形成をさまたげるから不可能かもしれなかった……俺の視線がしがらみなのだ……彼女の安心の邪魔だ……彼女に揃ってその表情を眺めるのをやめにして横たえ天井を見つめた……レオナルド・ディカプリオへの嫉妬は冷めていて……何に憤りを抱いていたのか定かではなく……像を結ばない何重もの輪郭が震えていた……―

その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ―
(同前)
 情事はこらえてしまった翌朝の冷気に肌を震わせて、〈わたしたち殺人事件〉は二人分の毛布をさらってくるまってしまっている。〈服を着ようか〉
 俺の提案に彼女は反応を見せず、そのかわり、冷たい三白眼でこちらの視線を離してくれないし離そうとしない―……
〈***ちゃん(〈わたしたち殺人事件〉の本名。昨夜の永い抱擁の末、彼女がようやく名乗った。しっとりとした雪の音がして思わず聞き逃しかけてしまって只その発語の違和は不慣れであって疲労のにおいがした。意識が不鮮明であったのもある)ってよくちゃんと人の目を見ていられるよね〉
 ―……マグロは揃って目を合わせるのに二度や三度、初号機に至っては十回目でやっと三秒あわせることができた、という程、時間がかかった。初号機はいつもうつむき加減の視線で、一緒に歩道を進むとよく人とぶつかった。視界が正面を向かず足元を向きつづけるのであれば彼女の股をもてあそぶときはどうなるのかという興味がおきて、親密さを持ちよった晩に、無理にとりつくろって唇でまさぐると見下した目はこちらを向けずに、只、只、そのまぶたは固く閉じられていた。至極当然だった。
〈ねえ、また、誰かと比べているんでしょ〉
 そう艶やかな、曲線のある声の色で〈わたしたち殺人事件〉は俺に浴びせた―…………〈また郵パックが増えちゃうよ〉
 ……嫉妬だろうか。
〈捨てるの?〉
〈重たいもん〉
〈そうか……〉
 彼女は平気で心に巻き起こった感情を捨ててしまう……そうでないと進めなくてたちまちに濁って足をもつらせて動けなくなる……―
〈もう沢山よ〉
〈何がだい?〉俺の押しつけがましさ?
〈わからないの〉
 それは疲労というよりは朝日への憤り。世界がどんくさいから俺たちは蝶の夢をみるしかなくなる……
〈ねえ小西くん〉彼女は俺を毛布の渦に取り込むことなくこう云う……〈世界ってのはちっとも優しくないんだよ……あなたのやってることは、エゴなんだよ〉
                              ―……暗転。
 かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君―
(同前)
〈俺〉はその朝、サルトル的嘔吐感覚にみまわれた。
 只、腹の奥のむずがゆさが〈俺〉を解放してくれなかった。
 そうやって死にまた近づいた―……


5 いっしゅうかん

 火曜日、俺は嘔吐した。
 水曜日、俺は嘔吐した。
 木曜日、俺は嘔吐した。
 金曜日、俺は嘔吐。
 土曜日、嘔吐。
 日曜日、〈俺〉は〈わたしたち殺人事件〉に会えず嘔吐。
 月曜日、嘔吐嘔吐嘔吐嘔吐、嘔吐、嘔吐、嘔吐、嘔吐、嘔嘔嘔嘔吐、おおおおおおおおうとおおおおおおおおぉぉおおうとおおお………―
 火曜日、〈俺〉はヤリマンの唄を探しに夜行列車にまたがって嘔吐した。
 中古CD屋には〈銀杏BOYZ〉もなかったし〈BLUEHEARTS〉も〈大森靖子〉も〈神聖かまってちゃん〉も〈ニルバーナ〉も〈東京事変〉も〈マキシマム・ザ・ホルモン〉も〈RAMMSTAIN〉も〈マリリン・マンソン〉も〈ゲスの極み乙女。〉も〈Radiohead〉も〈österrich〉も〈斉藤和義〉も〈Janne Da arc〉も〈石崎ひゅーい〉も〈あいみょん〉も〈高橋優〉もなかった……コンパクトディスクを収めたはかなげなプラスチックケースが満員電車のようにひしめき合う棚に嘔吐した。
 いちまいずつかち割って残骸で欲情した。


6 オッペケペーおしべとめしべがおっぺけぺー
(あいどんなわだい/銀杏BOYZ)

 部屋は狭まかった。ツインベッドと画集を広げてしまえば埋まってしまう小さな机、足場を埋めたソファを壁が挟みこんだ窮屈さがあった。壁紙は百鬼夜行、窓の上から打たれた枚は剥がれて外の繁華街の眩しい明かりと電柱の影が這いりこんでいる。
 ベッド奥の明かりを載せたベッドテーブルにプラスチックの小箱があり、ふきぬけの枠の中に虎柄のコンドームが入っていた。
〈女〉は部屋に上がりこんですぐ鞄をソファに預け、向かって左手のユニットバスにかけこんで鍵をかけた。俺は自分の部屋のものよりも広大な面積を誇るベッドで大の字になって死んだフリをしてみた。マグロを自宅ベッドで捌くとき、どうしてもスタンダードポジションだと片方の膝が床へ抜けおちそうになり、坐位に逃げたがる。騎乗をさせるとまれに女がずりおちかけるし、マットレスの上の布団は行為が終わるころには半分以上が垂れて冷めてしまう……俺と〈女〉を揺るがすことのなさそうな立派なベッドの器量の広さに、このホテルの寝具に感動を覚えているとシャワーの抜ける音がした。
〈女〉は俺の注文どおりに前に釦のついたカッターシャツを着てきてくれたし、チェック柄のスカートだったし、幼げを覚えたあどけない表情が純情を思いださせてくれた。
 今池駅を下車して六番出口から地上に出て車道をはさんで対岸にあるドン・キホーテのまがまがしさを二人して眺めた。
 ―激安の伝導。
 ―チープなフェチだよそれじゃ。
 ―しょせんペンギンだから。
 ―ペンギンに顔面させられて白い液でびたびたにされる映画なんだったけ。
 ―ほぼスリーハンドレット。
 〈ゲイはアンティークに奔る〉とか、今思えば偏見じみたことをこのパロディー映画は謳っていた。
 ―主人公の股下のブツがなくてツルツルなんだよね進撃の巨人みたいに。
 ―私、ちょっと期待してたのよ、あの全裸であの大きさだからブツもきっとデカいってさ。
 亀島のピンクザウルス二階にそびえたっていた三十八センチのディルドが脳内をかすめて嘔吐していると右手にスギ薬局とJOYJOYがかすめて寿司屋が見えたところで折れてやると味仙がつづいて、自転車が路上で眠っていてあぶないなあぶないなとしてたらコンパルが角に見えてきた。
〈女〉とは栄の西原珈琲でまちあわせた。高校時代のマグロ初号機はピンク・ローターよりも俺の指がいいと懇願していた。
 生身の人間がプラスチックに勝った。やったあ。
 玩具にしたがるけど玩具をつかうのは何か違うきがして一台も買っていない。
〈女〉は西原珈琲が気に入ってアインツを出禁になった。アインツのクリームソーダのバニラアイスでトリップしたからだ。
〈女〉が上がってくるまで部屋の調光でデヴィッド・リンチごっこをしているとフィラメントを迸らせてしまって、管理人に電話をして電球を取りかえてもらった。
 高校卒業まで「ワイルド・アット・ハート」みたいなセックスだらけの愛が肯定できた。
 けど今ユニットバスで湯にあたる生肌をもった麗嬢はどうも像を結ばない……「ロストハイウェイ」的な嫉妬が身をこがしているようだった。俺はもっと彼女の愛する男に成り変わらなきゃなんない。
 放課後、まだ誰も帰ってこない、ずっと誰も帰ってこないでと思いながらマグロ初号機を抱いていたテスト週間最終日のあせりは生き急いでいた。
〈女〉がバスローブにくるまって出てきて俺はぎょっとした……何のための注文だったんだろう……俺は西原珈琲のうす暗い店内で君を待ちわびながら何度も何度もワイシャツをうしろから君を抱きしめながらひとつひとつ釦を外しながらその都度首筋にキスしようだなんて考えていたのに……―
 喫茶アインツで逢瀬したマグロ三号機は他人の目をよく見て話を聞ける部類の構造だった。そして当時の俺よりもエロティックな恋愛経験の豊富な女だった。嘔吐。アインツ、ツヴァイ、ドライ、ゼックス、ゼックス、ゼックス……―悪魔の数字、フリーメイソン。
 〈69〉ってのは男女の抱擁形態を記号化した超意味言語だが、そうなれば〈666〉という三ケタの数字、仲よく横にならぶとこれはサンドウィッチ・プレイか。ちょっとなにイってるのかよくわかんないです。
 グーテン・モルゲン―……俺らはいづれいまからまさぐりまさぐられめくれてめくられてひっくりかえされひっくりかえしおしこまれて挿入して挿入されて頭に雷が落ちて死ぬんです。わかっちゃいるさ。
 ―痛かったらいうんだよ、やめるから。
 ―……うん。
 俺が目の前の女のなかで無になる。
 俺のシャワータイムの末、あのベッドの部屋に戻ると時間をさかのぼったのか〈女〉はYシャツにチェック柄のスカートを纏っていた。
 制服姿の君は何度見れただろう、滅多に学校で見かけないし、部活も休んでばかりだし、もし仮に会えても君は青い鳥のときと違って全然口をきいてくれなかったよね。多分制服姿――白い夏服……うすいベージュでふちどられた襟……―はあの日だけ……体育館の舞台壁面の灰色のカーテンにまぎれてしたキスの……純情……いやそんな思い出しらないぞ……君への接触はカラオケで打ち上げがあった夜、誰も居なくなった個室で夏の汗がわずかに残る肌で少しだけ抱きしめたあの時だけだった筈……もっと君は冷たいかと思ってたけど、君の肩は弱々しくってとても優しいあたたかさがあってそれからもう君に会えなかった……かなしみの中でずっと抱擁に溺れている純情……唯一、俺が心かよっていたと思えた……君はまだ生きているのか?
〈女〉とは表層的な物体として描いてしまう―正確には〈わたしたち殺人事件〉だ。髪を伸ばした彼女ははじめから肯定も否定も理解も拒否も求めていなかった……只、只、俺と同じように安楽を求めていた……世界はぐずついていて濁流だから、必死こいてヴァタフライでラテックスでヴァタフライしないとやってけないんだ……でないと世界と出来婚してしまう……
〈安楽はどこですか?〉
 彼女は三杯目の〈金麦〉をあけたころだった。俺はもう一本目で顔が蛸色だった―……日曜の夜は寂しかった。何もうまくいかなかった……あの晩ひとりで呑んだのも金麦だった……〈安楽なんてあるの?〉
 ひととおり済ませたら二人で呑もうとして買っていた〈金麦〉も呑まれてしまった。だから三本目。彼女の言葉のつぎに俺の言葉がゴダール的に続く。
〈心が蕩けてしまうような〉
〈躰なんてチャチなもの〉
〈わかりやすすぎる〉
〈表象の具体的装置〉
〈心とはくい違う〉
〈それは生理的現象〉
〈嘔吐感覚が生きる指針〉
〈灯台を崩すセックス〉
 実際、俺は乗り気じゃなかった……性交について頭が痛くなるし足の力が抜けてしまう……きっと喫茶店のマッチを一本ずつ丁寧に火をつけて並べてくより難儀なんだ……猿になるのには遅すぎたし速すぎた……酒に火照らせた肌を彼女に抱き寄せて荒く轟く息に溺れてしまうだけできっと安楽だ……
 ―性交の同意って存在するの?
 空気を抜いた風船がしぼんで床にちらばるように呆気なく俺の口からその質問が垂れた……
 〈知らないわよ〉
 彼女の答えには急を要していなかったら待ちわびる心もちはあった。けど肩透かしに会うほどの速度で腰が抜けた……
 〈世の中、同意もなく始まることだってあんじゃん?〉と俺はきいた。
 〈増税とか?〉
 〈増税? まあそうだけと〉
 〈戦争とか?〉
 〈はあ、頭痛い〉
 セックスも増税も、戦争も突然同意もなく始まってしまうのか……きっとこの夜も、前振れとか知らずに始まるのか?……
 〈増税したら俺と口をきかなくなる?〉
 〈さあね〉
 〈戦争が始まったら俺の前から疎開する?〉
 〈さあね、きみの方がよっぽど疎開的よ〉
 きっとそうだ……俺は逃れたい……甘えん坊だ……
 〈セックスが始まったら〉
 〈それは戰争が始まるし増税よ〉
 辛辣だった。
 ―俺たちの寝静まるころ、街灯のいくつかは俺たちの寝顔を覗くのだろうか? 安らかだろうか、それだけ確認の連絡をしたかった……―
 ―もしもし、電柱ちゃん? ああ、僕だよ元気かい? それはよかった……何か用かって用があるから連絡するんだ……ああ、朝からごめんね……俺だって暇じゃなかったんだ……朝食を裂いて電話してる……そうだね、もう昼ごはんだよね……朝昼夜も古いのかな……それはそうと、何を話そうとしていたんだっけ? ちょっと思いだすまで待ってくれないか? 君のおかげで本当の暗闇のことを俺は知らないんだ……
 〈性交になにを求めているの?〉
 そう云われると男は難色を浮かべる……俺は虚無の入口なんだと思っている……むしろ性交のできる幸せ者はこんなことで悩んだりなんかしないし、こんな悩みさえ知らない……だが問いかけが明確かつ的を得ていて、およその男は口を開けなくなるか、それとも自分の最大級のエゴを披露する……もっと頭がパアだったら平気で己の欲にまみれて女をまさぐって挿入してはあはあと勝手にいくんだろうけど。
 ―……〈問題を重大化させてくれないか?〉
 滑稽だろ? 女の中にはいりこんで挿れてんできもちよくなるのは……だからマグロを捌くようになった……完璧な奉仕主義に徹した……俺には愛がわからなかった……
 〈わたしといつやるの?〉
 俺は―やる気はない―という意味を云ってしまえば星は砕けるし、―かといって押したおして三本目の〈金麦〉をぶちまけて彼女をまさぐってもしたら地球が割れてしまう……
 〈わからない〉
 ……もっともアンヴィヴァレントな関係の中で巻きおこる共感こそセックスをやるより、高尚かもしれない……俺にしても〈わたしたち殺人事件〉にしても、下手くそだし、不器用だった……
 〈小西くんってがっつかないよね〉
 〈がっついてもいいことないもん〉
 朧いから……そんな勢いのあることができなかった……マグロ初号機のことが影響しているかもしれない……
 〈他人に期待はしてないんで〉
 〈はあ? 頭痛い〉
 〈呑みすぎなんだよ〉
 〈小西くん、水〉
 狭い部屋の玄関側にあるサイコロみたいな冷蔵庫があって正常位のときのふてぶてしい醜男の肉体のように冷蔵庫におおいかぶさるかたちで棚があり、そこにボトル付きのウォーターサーバーがあった……
 部屋にそなえつけのカップに注いで彼女に渡すと四、五杯それをつづけさせられた……
 〈やばい、頭が痛い、きもちわるい……〉
 〈楽な体制をとるかい?〉
 俺はソファから反復する腰を浮かせる動作をちがう意味で行ったがすぐに袖口をわしづかみにされた……―
 〈そうやって弱ってるとこを浸けいる気でしょ……〉
 俺は理解できなかった。
 彼女の目は充血して、酔っ払っていてまぶたも半びらきだったがその眼光には俺の中身の正体を見透すような気色の悪さがあった……―……―……
 〈小西くんって嫌悪も拒絶もこわいでしょ?〉
 俺は理解できなかった。
〈拒絶が恐いからこじれないように、こっちが動けなくなるまで執拗に執拗に執拗に…………―〉
……―Someday My Prince will come……―
 きっと俺たちは黒いネズミランドの囚われた幻想のおそとにいるんだ……執拗に……
 俺に抜けがけなんてできやしない……
 〈拒絶されるのがこわいから……自分がこれからすることにうしろめたさ……嫌悪があるから……その罪ほろぼしで……〉
 〈そんなこと……―〉
 それ以上発語できなかった……
 俺は理解ができなかった。
 〈……俺は……俺はどうしたらいいの?〉
 〈甘えるの?〉
 〈いや……〉
 〈私を抱いて、また甘えるの?〉
 沈黙。だが彼女は容赦を知らない……
 〈これまでのマグロたちみたいに、私に甘えるの?〉
 〈……甘えじゃない〉
 〈いや、甘えよ。小西くんって甘々よ、アマアマよ〉
 甘くないようにすればいいのだろうか……―
 〈甘えを捨てればいいの?〉俺はつづけた。
 〈それが悪いんじゃないの〉
 彼女は焦点の合わない瞳で見上げてくる、半身はソファからのりだしている……
 〈悪いとか良いとかじゃないの〉
 〈どういうことなんだい〉
 〈どちらかにわけれないし決めつけれないのよ〉
 全くわからなかった……俺がわかろうとしないだけか?
 〈只、只、その位層を越えてごらん……〉
俺によりそって彼女は肩に頭をのせる……―

〈男女の仲ってのは戦争よ〉

 でも好ききらいだとか良い悪いとかきもちいきもちわるいじゃないんだよ、きっとどこかで何かが何かで共感したいだけなんだよ、人間どんなに解剖したってひとりなんだから……だから余計に痕跡をのこしたがる……さみしがりやだから……
 〈小西くんの痕跡をちょうだい〉
 そのひとことが俺と〈わたしたち殺人事件〉の共感を始まらせた……―
 ―喫茶アインツの窓際の席でクリームソーダを注文した五月末……新緑のしつこさと肌着のしつこさがうっとうしかった。
 もうバニラアイスはただれて白い大きな泡をいくつも吐いてひしめきられた一口大の氷の上にへばりついている……そんな風になってしまうなら早めに食べてしまえばよかった……俺はもう若くなかった……クリームソーダを忘れていた、彼女に溺れ続けた高校時代はもうない……毎月25日になるとコメダ喫茶でシロノワールを食べれば幸せだった……海辺の汚なくって狭くるしい……対岸が見えてしまうちっぽけな海に面した店に手をつないで赤点の危惧を話し合ったりして只歩き、淡々と食べて、交通の多い湾に沿った道を進み、港公園の屋根つきのベンチで暗くなるまでくすぶった炎みたいにじゃれあった……俺は自分の中に確かにあるだろうと云いきかせた愛を武器に弄んだ……冬が近かったかもしれない……冬服の上から触れ合った……拒む女を制して撫でた……耳の形を舌で撫でて把握していった……暗くてよくわかんなくなったころ、接近してやっと真っ赤な女が目に入って、自分の正体を思いだすんだ……―

 頬にひとつふたつと少しにきびをつくらせた荒れた肌がむしろ愛らしかったのだろう……丸々な瞳をしていた。
……―俺はあのころの純情さはない!
……残るのは疑念の散積したグロテスク……
 

7 葬送曲

 そして俺は腰骨と共に埋葬された。
〈わたしたち殺人事件〉の元へ届く〈わたしたち殺人事件〉と俺の感情の郵パックが、〈わたしたち殺人事件〉には手に負うことができず、今や世界へあふれだしている。
 マグロ三号機が鳴いた、泣いた、啼いた。
 世界はエゴで満ち満ちている。/ 《でも世界は何も変わっちゃいない》

(了)

*本作は2018年頃執筆したもので実在の組織個人とは一切関係のないフィクションです。第二回ことばと新人賞にたしか応募した気がしますが、あんま覚えてません。(おぺんぺん大学運営主)

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