深夜はきっと生ぬるい息、大事にできないまっぷたつ [小説]
落ちかけた頭のせいで画面にうつるタレントの顔面がずりむいて見える。朝を無理矢理に引っ張るその活力に満ちた顔がうまく馴染まない―昨夜の記憶が都合よく抜けてしまって、いやむしろそう振る舞ってしまおうか、そう考えるたびに修次の目にうつる切り替わる容貌の数々が像を結ばなくさせる。暖房の熱がまだ心地のいいほどだ。
ナツミとの関係に終着駅が見えてきたか、閉塞感の果ては雪崩か、大きな音をたてて。画面は好き勝手に話込んできてそれをこちらにながしこんでくる。それに比べて向かいでロールパン持ったままのナツミは静止画みたいだ。目をみはらなくても音声ではいりこんでんでくる。世間に侵入されることでかろうじて漂流することができる二人は声の主とお互いの昨晩の主をリンクさせていく……山火事の被害が淡々と読み上げられていく。記号となった面積を再度埋めつくすには燃やすよりもどれだけの労力のかかる作業だろう。すっかり当てはまらない―ニュース原稿と昨晩のシナリオが折り重なって混ざり合って、ストンっと抜け落ちたように振る舞えたら、と目の前の血の通った静止画を曲解したくてたまらない、残像が溶けていく。
5、6月ごろの修次には自分の行為が待伏せにあたる認識はない。偶然を装ってナツミを捉えるというふうに考えてただけでいつも只、会いたかっただけ。連絡通路そば売店から網を張るのがうまくいきやすい。単純な構造の大学だったから出くわすのには容易であった。あらシュウ、2限は?あら蹴ったの? と言われたら苦笑いをどう作ろうかな、なんて必要のないシミュレーションをしてみる。
__あ、お、おはよう。はじめのころ、語尾が霞んだナツミは戸惑っていた。予期せぬ相手と思わせる。挨拶は基本だ、爽やかを重視しろ、洗面所の鏡で前の晩に見ていた恋愛テクのネット記事を鵜呑みにして自分の顔、表情を逐一点検していくのにはどこかはずかしさが吹き出してきているようできもちがわるい。ゲリラ戦を展開していたころの修次にはナツミの全体像なんてあきらかにみえていなかった。事実、修次とナツミのコネクションなんてたったひとつのサークルで学部も学科も違ったし大学が一緒なだけ。それまでほとんど幽霊部員だったナツミには修次が暴れ馬のような人間だと噂できいていた。彼が2年になって行われた新入生コンパで初めてお互いを目に止めたばかりだ。わざと傾げてみせた修次の横顔をナツミはコンパの時の真っ赤にはじけた表情とをピカソの絵みたいに無理矢理当てはめていく。
ぐわんぐわんと脳が揺れる心地が修次に自分がどれほど酒に弱いかを教えてくれる、思い返せば頰が赤らんで、風呂に入っているニホンザルみたいになっているのにはうすうす感づいていた。もう真っ赤でしょ、皆さんに煽ればだいたいが飲みすぎでしょと返す、いえ、まだ一杯目なんですよと答えてみせる。
ゲリラ戦はおもに木曜の昼休みに行われた。回を重ねるごとにナツミの勘が効いてきて、時間差を狙った回避で修次の猛攻を交わした。ナツミには付き合って二年の彼氏がいた。来年の春先に本格的に就活を始めないといけない、卒論のテーマ決めが押し寄せてきているのに手がつかない、ゼミのメンバーはギクシャクしている、最近母の態度が重い、アルバイトを辞めたいけれどなかなか踏み出せない、彼氏は中退してバーテンダーの見習いを始めてしまった、ナツミを蚊帳の外にゼミの同級生同士が揉め事をしたわけじゃない、けど沈黙がいつも充満している。そういった軋轢が何重にも彼女にのしかかっている。
すっかり抜け落ちた前川修次はまた一つ減った日々の残基のことで頭の中の空所を見つけ出した朝を迎えた。そばに並ぶ退屈そうな朝の顔をしたナツミに寝ぼけている真似をする試みを企てたのは何度目か、いやそれはきっと妄想の中での話題、過去の相手と夢想の中の彼女との経験が混合してしまっている。いずれ昔の女を間違いで口に出してナツミに抱きついてしまうという錯誤行為の極地に辿り着いてしまうんじゃないかと悪寒がはしる。シラを切ることもできず、むしろ過去を引きずった__傷心にまみれた__青年のいっちょあがりで、年上特有の見下し方でナツミが小馬鹿にしてくるか、あるいはあからさまに拗ねてみるのだろうか、そもそも自分は偽物の関係の相手でしかなくて、また自分を笑ってみせる。傲慢な妄想だ。朝日をとなりの寝顔に通すべく、起こした上体をねじまげて足元へ向かわせると彼の先輩はふやけた猫の体操みたいに萎縮してはよじれて壁側を向いてうめいた。朝だよ。ナツミはそのひとことに間をひとつ空けて、油断をもちあわせる後輩の貧弱な上体をつかまえては布団の中へひきよせる。朝は弱い。この一言が出ないでとも、それは彼に見据えてる。毛布を頭から被り直すと二人の素足がはみ出して冷気にぶつかった。少しばかりの息苦しさのなか、ナツミの体温と湿り気の正体を暴こうにも、ヒントに満ちあふれていた。
__おはよう、これを待ちわびていたとしてもナツミの方から発されることはないから少しずつお互いの吐く生ぬるい息でいっぱいになって苦しくなる密閉空間を脱したくて、修次からそれに折れた。
じれったさはだいたいそう。
錯誤行為に関しては昨晩のナツミがひとつ犯していた。__いわばいい逃れのできない、確信的なミスで、またこの修次の部屋に残るその瞬間に発生した沈黙の味がナツミの胸をいまだに痛める。連れそって二年もたつ男と、知り合って間もない得体の知れないただの後輩との名を間違えるなんて、__くだらない女にもなったわ。そうあきれつつ、その凡ミスを帳消しをもくろんで強引さとあざとさを無意識的に味方にして昨晩を遂行した自分が腹立たしかった。こんな後輩がいい気になれば昨晩の失態を忘れさせてくれるかしら。とてもそうは思えない、無意味だ、こっちは本気じゃないのに、そしてそのことを彼は知っている。
彼氏とゆったり一晩過ごした安ホテルの一室__タバコの匂いがこびりついたちょっと染みのついた壁、窓が閉じられ密閉されているはずなのにゆるみきった空気、陶芸細工のようなアニミティ……ナツミには懐かしかった。もうどれくらいそんなことしてなかったかな。いや、そんな夜、むしろお出かけさえ……する暇のない忙しなさと、今後輩の隣で眠っていた身体との異和がナツミの中でふつふつ浮きだしてくる。それは罪悪感からくるものでもない素直な感情だった。
__コーヒー、いれてくる。修次が布団をでていく。な、……ナツミ……先輩は、ほ、ホット、ミルク? ついまだぶっきらぼうだったころの「ナツミ先輩」という呼び方の癖がぶり返してしまう。まだ慣れてない証拠なのか、昨晩のせいか妙にぎこちなさが修次は持ち得てしまった。そのわりにセンテンス全体には、語尾の「です」「ます」長を削ぎおとされた、敬意と親しみが渾然一体としたちくはぐな発語で、なおかつその最中でイントネーションもでこぼこになってしまう。日本語覚えたての外国人みたいに。
__……いい、……いらない。返事はしんどさが配合されていた。そう修次には感じとれた。自分たちの身体にさっきまで覆いかぶさっていた__ナツミの被せた―毛布を修次の手で払いのけられるとついさっきまで一筋だった窓から差すよわい光線が、日の若干持ちえた上昇によって部屋全体に白さが増した。みえやすくなった。彼の部屋にある東向きの窓の先は丁字路で、両脇に背のたかい一軒家があり、あいだの通りを伝って上ってくる冬の朝日が遠くの家屋を縁取りして徐々に自分のもちあわせる力を誇示していく過程が、修次には好みであった。この部屋を選んだあとに彼の見出した納得点のひとつであろう―ユニットバスは寒い日だとしんどいけど。毛布が剥けてしまい、低血圧調の顔が薄くはなり始めている、昇り日にまみれたナツミはまたうめいた。朝を望んでない顔。冷たい夜が苦手で甘えるように二人して潜った布団には朝になっても体温が憑依し続けている。でもそれが運のツキだった、と振り返る__彼女はこの朝には冷静だった。
布団を離れることがすこしもったいなくなったからだろうか、ぬくぬくと戻ってきてしまった修次にナツミはなんで戻ってきたのと半開きのうつろげな目つきで睨むから、萎縮というか居心地の悪さにさいなまれて彼は、やはりはい出てしまった。布団はふたりには少しせまいシングルサイズ。やっぱり欲しい。離れてく後輩に投げかけてみるとやっぱり自分ってあざといと天井を睨み返してやった。きっと天井はこっちを驚かせようと降りそそいでくるかも―ちゃんと、膜はとってよ。下や口の中に張り付く、ホットミルクに浮かぶ白い膜が小さい時からナツミは苦手だった。ぬくもりの代償だとか、ませた捉え方などして変に背のびをしていた小さい頃を笑ってみせる。あのころの方がずっと大人だったかもしれない。きっとおばあちゃんの受け売りの所為だわ。修次の部屋の天井はごわごわのホットミルクの膜、キメの粗い泡をまとめてしまった、月のクレーターをはっつけたみたいな模様がある。ぬるくなった室温が舌を焼かずに済みそうなぬくもり。
修次と出かけるときに行く喫茶店じゃいつもナツミはホットミルクか、夏であればクリームソーダを頼んでいた。個人営業の小さいお店の三種類の色から選べるクリームソーダはいつもどれにするか悩ませるメニューだった。決まって彼女はティースプーンで膜をまず払いのけるし、ソフトクリームもしくはアイスクリームから手をつけた。膜がカップの中身を飲み干すときに底面に残って冷えてへばりつくのも嫌いだった。幼稚園の頃、祖父に連れられて海水浴に行ったときに踏んづけた、打ち上げられたクラゲの感触を連想する。足元に通った、ひんやりとぷにぷにした弾力が必ずしも手にしたカップの底にあるわけでもないのに。クリームソーダになると炭酸に混ざりこんだ白い小さな塊が氷にへばりつくのも嫌いだった。風呂の排水溝に溜まる石鹸のカスや抜けた髪の毛の塊みたいだ。炭酸が苦手なナツミにはしゅわしゅわが紛れてしまうから好都合ではあるが、どっちも気に入らない。
ならなんでいつもそんな難しいの頼むの? って修次が聞いたとき、彼女は嫌な顔をして苦いのにコーヒー飲むのとか舌とか喉が焼ける思いしてまで真っ赤な坦々麺とか食べるようなものよと答えてみせる。ひどく具体的なのはナツミには理解しがたい嗜好だからだろうか。コーヒーばかり飲む修次を目の敵にしたような、むしろ高圧的な態度をとってみせる。__あら坊ちゃん、ミルクもらえなかったでちゅか、砂糖ご入用でちゅか? スティック状の紙包に入ったグラニュー糖をさしだされて苦笑して受け取らなかった修次が、可愛くない。続けざまにあら酒は弱いくせに苦いのは飲めるのねと嫌味を吐いてしまった。ふたりで初めて入った喫茶店の時だった。ナツミはどこか投げやりで、退屈な日常の閉塞感に潰されてしまって、炭酸にもだえながらストローをすすってクリームにまぎれていた__コーヒーに生クリームを入れると、生臭い牛乳マシマシになる感じ? と修次がひねりだすからわかんない。コーヒーの匂いだけで充分な生活。ほんのり溶けた砂糖の甘さがぬくもりにかくれ、飲むたびにナツミに安心がやってくる。マグカップがつめたい掌を温めてくれる。どうもぬくもりを放出できないタチでいる掌だった―はじめて二人で喫茶店に行ったのはもう12月だったから。
繁華街の地下にこじんまりと潜む隠れ家みたいな店で確か休日だったその日、地上の歩道は青白く光る樹に巻かれたイルミネーションまみれで目当てにしているカップルの群れで溢れていた。足元に膝上の高さほどしかない立てかけの看板を見つけることは難しかった。確か、こっちだった気がするんですがとナツミを迎えにきた修次の口がどうも少しだけ当てにならない。でもちょっぴりしか呆れはなく、むしろ投げやりに大きかったがためにこの得体の知れない後輩に流されるまま。まだ午後四時過ぎだというのに日の沈みは進んでしまっていて、夜の果てからやってきた暗さが空に侵食し始めてたけど人の光が抵抗している。
どうも見つからない店のために人混みをさまようのにナツミはどこかでしびれをきらしてしまった。ひとつふたつみっつと信号機のある交差点を、隣の呑気なカップルや向かいからスマホから目を離さない若者に注意を配りながら横断すると、渡った先の歩道沿いに人混みの流れが途切れてて、冷えた路肩にこじんまりと鎮座する看板のそれがふたりの目に入った。
店は地上のごった返しに栓を開けたみたいに、テーブルに関してはほとんどの席が埋まっていた。地上の人びとよりは一回り上の世代の彼らは途切れない談話を咲かせていた。テニスコート半面ほどの広さの店内に煙草とコーヒーの匂いが充満してて、修次はタバコの匂いはだいじょうぶですかと聞いてみると彼氏がしてるからと答えてきて、ちょっと憧れる。壁や小物、椅子に猫の図型や足跡、シルエットがあしなわれ、いちばん奥の方に飾られた西洋風の絵画には空を滑る羽の生えた猫たちが描かれていた。ごく自然にカウンターへまわされると―にやりとしてやったと言わんばかりの顔をする修次が良い店ですねなどと肩透かしのような紋切りなことばを並びたてるからむしろこっちも応戦と彼にのってあげると、どうも閉塞感に緩みができた。
正反対の感触なら、いまの布団の中からナツミは経験として残していたものを掘り返せた。彼氏の店に修次を連れてった晩のことだ。めずらしく放課後にナツミの方から修次を誘ってみた。
12月中頃、突然の休講にうろをつかれて、たまたま二人してダブってた授業だったから手持ちぶさたを紛らわすように大学図書館に転がりこんで、それとなく全集のまとめられた開放の書庫へ、奥へ奥へと背の高い棚のある方へ入りこんで、端本を手にしてみれば戻し、頭や髪を撫でたり、冷めた手を相手の背中に差し込んだりの遊戯が行われた―号令もなく、断続的に。こんな最深部にもぐりこんでくる学生は今時なかなかいない。しかし、もし仮に現れたら__顔を真っ赤にして爆発するんじゃないかと、状況のかち割れるのに恐れながらの戯れは余計彼らの肌に電撃をほとばしらせた。本棚の死角は容易に見出せた。しかし何度目か、本棚に背を押し込められた修次が差し入れた指で背中の方に回っているブラジャーのホックを外してしまった。どうも場の興がさめた。上昇していた心地がじつのところ、彼のみが享受していた偽物に過ぎなかったと気づいたか、じとじと冷や汗をかくころには彼女はその場を飛び出してみせていた。喉がやけ、頭が氷水をぶっかけられたように冷静に、こっぴどく細かく見えてくると、血の気が引くふるえをどこか自分が今立っていることをうんざりするくらい誇張を持ち得るほどに主張して、あるいはそれへの疑惑が占領を企てる心地に、どうかして棚の林をかいくぐって姿を消した彼女を探すにも、探し方が見当たらなくて、彼の体を焦燥がぎこちなくさせて、こわれたブリキの玩具になってしまう。
ホックを直しにトイレに駆け込んだ彼女は上着を脱ぎニットのセーターを剥いてヒートテックもすり抜けて、なんとかつなぎなおした。禁忌、彼氏しか触れたことのない所に、何か一線を超えたあいつに罰を与えたくなった。しばらく個室にこもってみせた。鞄はおきっぱなしだし、スマホも財布もあしたのゼミ課題も全部その中だった。過剰な信用でもあいつにもっていたのかとうなだれた。ナツミの詰めの甘さというか、抜け目のある、もっと悪く言えば―彼氏の言葉を借用すれば―ドジっ子である、その属性が時ににがにがしく発揮されることに、その度に自分はうんざりしてみたけれど、ナツミ自身、今回ばかりはあいつのシナリオの所為なんじゃないのかなってなって、余計やり返しがしてやりたい。言わばどこか投げやりにも取られるだろうが、その足でわたしを出し抜いた代わりに今夜は連れまわすよ、はたから見て悪女ばりな性質をかもしだして、寂しいから自分をあざとく扱ってみせる―ナツミはそんな身の振りの軽さがあいつ―修次にとって、あるいは今から行く先で働く彼氏にどう影響するか、深くは考えてはなかった、ただ混乱を起こしたい……困れ、困れ__……
実際に修次とナツミの彼氏が対面した時、一番戸惑いを持ち得ていたのはナツミ本人だった。身の振り方や振る舞いの波紋、言葉におぼつかなさが表出しているのはその場三人全員が共有することで、それがどこか彼女が可愛げに見えて、どこか不協和音を隠せない混線して張り詰めた空気だった。修次の腰抜けの様を、軽くあしらうか嫉妬にかられる彼氏を見てやりたかったのに、萎縮の矛先が彼氏からも向けられている自分がよっぽど腰抜けだった。こんなことなら、こんな欲張りな自分を断罪してよと彼氏に懇願したくってしょうがないナツミだったけれど彼氏は意に反してまるでナツミの親身になったみたいにいつもナツミがおせわになってます、こいつおっちょこちょいでしょといいお兄さんを振舞ってくれる。あ、こいついいやつなんだな、最近ほったらかしだったくせに。調子を合わせたつもりか、あおくさい修次は前の週、喫茶店の翌日にナツミがなくした定期券の話題を持ち出す始末。彼氏には話しそびれてた話題だった。カバンを確認したらって僕が言うんですけどナツミ先輩、全然もう見ようともしない、何回も見たもん、同じだよって。それで一緒にいた僕の後輩が見てみたらすぐでてきたんですよ。修次にはナツミと、たぶん愛しあってる、ナツミに愛されてる男をみて、自分にはとても及ばない、たどり着けない大きな山脈が目の前にある光景をバーテンダー姿に見出して、もはや畏敬の念、それに呼応してというよりは反比例して、自分がたかがナツミ―ナツミ先輩にとってまがいものでしかない関係で、その偽の関係ごときで足踏みをしているだけで、彼らの間の隙を見出すこともできな事実にふつふつと湧き上がるマグマになって皮膚を突き破らんばかりの内側から押しつけてくる気色がして、絶えず耐えかねない。爆発しそうだ。話が進むにつれあいつのじれったさも認知できるようになって、ナツミの酔いもぐるぐるまわってきて、うっかりさっきのあいつの蛮行でも暴露してしまったらどうなるかななんていたずら心が産声をあげる__こいつ、さっきさ、図書室でさ。
__ガス抜きを欲してただけ。修次がコーヒーを沸かしてマグカップに牛乳を入れてレンジでチンしている間、枕元に転がっている充電をし忘れたスマホで彼氏からのラインが来てないか確認しようとしたけど、端から端まで探したり、何度か時間をおいてから見直してみたり、電源を一度入れ直してみたけど、やっぱりひとつも来てなくって、お前まだなんか隠してない? って問いただしてみたくなっちゃうけど彼氏にナツミは自分の気持ち、届いてないんじゃないかなってなる、送信がされて三日ほど経つ通知は―彼に辿りつかなかったのかな……―電車での居眠り、いつも使っていた路線の上りで下車する駅のひとつかふたつ前でなんの拍子もなく目が覚めて、自分が今どこに向かってそこで何をするんだったか、突然内容が抜け落ちてさらわれてしまったような、前後の文脈が捉え損なってる、思い出せない空っぽになってる時と、いつまでたっても彼氏の返事を待つ時と、何かナツミの中では虚しさが似通っていた。ひらけてしまったとナツミは中学時代のメールのやり取りのころから感じていた。
修次とはじめて面と向かって会ったサークルの飲み会で取り分けおとなしい彼をてっきり中途半端なタイミングで入部してきた一個上の先輩かと思って敬語を使ってみたら、隣に座ってた気さくな茶髪のボブの子に―ナツミ先輩でしたっけ、シュウ先輩に敬語使っちゃうんですかと笑われた。そこでふとそういえば異端児みたいな子が入部したとだいぶ前に聞かされてたことを思い出して勝手にそれが修次だと納得してしまった。けどそれは実際、別の子でその場で確かに正体がわかったのだが、今ふりかえれば誰だったのかナツミには思い出せない。
どうでもよくってきっと話しかけても紋切りな心地だろうとタカをくくっていたら、向かいのシュウ先輩とボブの子に呼ばれてる人物が、単に大人しくしているのではなく、頬から耳の裏まで真っ赤に熱らせていることに気づいた。
__ちょっと、何杯目ですか。
__まだ一杯目です。
お酒飲めないくせに、苦いのは飲めるのね。沸騰に耐えきれず、銀色のケトルからぶくぶくと熱湯の粒がふきだして、あわてて流し込んだから包装紙に書かれた分量を大幅に外れたようで、あまり美味しくないインスタントコーヒーだった。テレビといってもリサイクルショップだったかで今年で卒業していったサークルの先輩がゲームをしにくるのと下宿祝いに持ち寄ってくれたもので、父親が去年の暮れかに来た時、アンテナ繋げろよと勧められて民放だけ流す約束で、朝から見るようにはなった。ニュース番組のゲストとして出てきた、タレントのうまくできすぎている容貌がどうも疑わしい、まがいもののようにみえる。バーに入ったあの晩の現実味のなさのように。冬の弱々しい今にも止みそうな雨が、小さく小さく鉄筋ビルの群れにうるおいを流してなめらかな夜だった。折りたたみ傘をカバンから出すか迷ってもきっと開く頃には止むんじゃないってナツミが言うから、その通りに修次はしていたら交差点を渡るいくつかの大人たちの手には開いた傘が握られていて、普遍的にもまれてむしろ差したくなった。
修次にとっては関係のない山火事のニュースのあと、ハムエッグのレシピが去来して冷蔵庫をあけてみた。昔平日の昼間にやっていたライオンのごきげんようのサイコロほどしかない大きさの冷蔵庫には生活の影がうすくて、同じ下宿の同級生がくれたキムチの残り香がむっとして、それが半年前からつづくからあまり貯蔵する気にはなれない。じとじと倒れたオレンジジュースのパックが中身を垂らしてたときはなにやら宇宙人でも立てこもっているのかと夢想したこともあった。5枚でひとパックのハムが3枚綴りで夕方30%オフのシールが巻きつかれたものと、修次があまり得意ではない生卵が__高校2年の頃にそれで軽い食中毒をあててしまったのだ__ふたつばかり残っていた。
フライパンを熱して、ハムを二枚ばかりその上にのせて焼きはじめてみると、ナツミがゴソゴソと動く音がしないか少し気がかりになって換気扇をあえてかけなかった。脂のにおいがした。コーヒーを飲んだとはいえ、手元が覚醒しているかあやしくって、普段片手で割れる生卵に親指が突き刺さってしまった。からの破片がパラパラとハムにこぼれて居心地のわるさに似たムカつきがのぼって、寝起きですることでもないと納得させようとした。バーの晩のときと同じ動作を修二はこの卵にしていた。
見えない引力をたよりに、ナツミにつづいて回転扉を抜けたさきにやさしい橙色の薄い照明は内装の黒塗りに温もりを与えていた。アーチに包まれた何十何百本の瓶を収める棚を背に、バーテンダー姿のナツミの彼氏とこの後すぐ紹介されることになる若い男が、均等に顔をほがらかにゆるめた表情でこちらへどうぞとカウンターに誘いこんだ。
ナツミのぎこちなさが向かいの彼氏を溶けた視線でつかまえる姿をみているとドロドロになる気持ちで修次はいっぱいになった。チャイナブルーの青白さに冷ました。
ハムエッグも満足に作れないのかとあきれ、殻を取り除き目玉焼きのつもりが炒り卵とハムを和えたものへと作りなおした。ほんの少し茶色に焦げた裏面を隠して、皿に盛ってみてそれなりになったところでナツミを起こして朝食にしようとしたら、もうすでに這い出てきてて、なにそれ、少なって笑われた。昨晩マックスバリューで半額のシールを貼られて弾かれてたマーガリン内蔵のよっつ組みのロールパンも並べて、ほったらかしに少し冷めてしまったホットミルクの膜をスプーンと箸とで取り除いてみせる。なにそれ、蟹みたい、と彼女は席につくから手術完了。
―なにこれ、もうぬるいよ。
__すぐ起きないのが悪い。
ナツミは黙ってしまった、エアコンの作られたあたたかさが自然体でなくって、機械的なぬくもりだったからどこか微熱の予感がして気分が悪いという意味合いのことを修次がかこぼすと、
__ならコタツにでもしたら? とまた突拍子もないことを言ってみせる。コタツ入れてくれたら潜りに寄るよ、とナツミは言いたげな表情へと修次は勝手に解釈して、顔に出てる本性を読み取るのがこれほど分かりやすいと彼が喜んでいるようにナツミにはみえた。
__毛布に潜ってろよ。
ぶっきらぼうになってしまったのは、ふたりがきっとあの生ぬるい息のなかが好きだから。