柔ら工事難破記
こちらではまだあまり載せてはいませんが、私はなんだかんだで小説を書いては読んでを過ごしている与太者でありますが、この頃やはり文体ががちがちの輩になり、それがはち切れんばかりでいわば硬渋の有様になっているのは自他を認める状況であります。これを影響のせいと短絡的に説明してしまえば、それは逃げであり言い訳であるとなっても返す言葉がありません。近年の文壇における、文体の柔軟さを持ち合わせたもの、最近の例としては町屋良平大先生、少し前に行けば吉本ばなな先生など、何人かはいるでしょう。私は町屋大先生の「しき」が芥川賞候補に上がったときに「青が破れる」とともに読んで電撃を受けてそれからぞっこんなんですが、彼の柔らかいニュアンスは、わたしが普段好きで読んでいるいわゆる戦後作家の面々、列挙すれば大江健三郎、中上健次、古井由吉などの硬く密度の濃い文体の対極にいる印象をもっております。
話が逸れましたが、ここのところ、読んでいるものとしたら大江健三郎全小説の端本を進めているわけで__全然手が追いついておらず、書店の取り置きを3冊、読み終えてないものが手元に3冊目残してるほどですが__密度に関していえば、大江健三郎の文体に少なからず影響されているわけでありまして、ただそれが単なる圧でしかなく、中身の深さといったら偽物の類しかない心地のものしか記せなくなっているという懸念がこの頃あります。体力の頭の容量の問題なのでしょう。
いま書いているもの、原稿用紙、そうですかつて皆様が幼い頃夏休みの読書感想文で突きつけられてきた20×20の400字詰の原稿用紙、それに安い万年筆で手書きで書き進めて62枚ほどになりましたが、いかんせん、その枠の与える威圧といいますか、強迫観念といいますか、どうもまだ慣れないといったところでしょう。これまでのでは、裏紙の下に線を引いてほぼ無地の紙に1枚400字になるように書きつけ、それを文字起こしをし__友達にそれはしてもらったりもしてました__体裁を整えてとしておりましたが、正規品の風格を持ち合わせる原稿用紙はどうも微熱を起こさせるものであります。今朝だって向かい合ったら2、3行記したところでコーヒーをちょうど中央上部にこぼしてしまい、あきれて手を止めてしまいました。
さて言うまでもなく、手書き原稿というスタイルは昨今ではかなり少なくなってきています。ベテランの古株の作家さんであるとか、わたしの知る限りですと私小説作家で芥川賞受賞の知らせにはこれから風俗にでも行こうかななんて考えてたと言う西村賢太先生、もらっといてやるで石原慎太郎に一石なげた田中慎弥大先生でしょうか、もう書かないのかもしれませんが大江健三郎も手書きでしたね。中上健次は集計用紙を埋めつくす手書きでしたし、石原慎太郎は続け字で解読係が編集部にいたとか。
それに対してやはり近年、とくに町屋良平大先生なんかはスマホで書きつけるというのだといいます。手書きから機械を通して原稿をつけ始めたのは「砂の女」でおなじみ安部公房がワープロで書いた「方舟さくら丸」が初めでしてが、それ以後パソコンだとかで書く流れが主流になっていったと認識しております。あの村上春樹の書斎にiMacありますよね。
わたしもかつて、数年前はスマホのメモ欄を使ってぴこぴこ小説を書いていた時期がございましたが、予測変換という邪念から、どこかスマホとともに書きつけている心地がして、手書きにタイムスリップしてみました。病みつきになり、今ではむしろその方式じゃないと書けないような気さえ起こします。
とはいえいま書いてるこの雑記はスマホぴこぴこなのですが、スマホで書くと柔らかくなるのかという実験でございます。まあ緩やかにソファに寝そべってこれ描き終えたらまた硬い本でも読むか柔らかくなってみるかとか考えながらぼやくようにぴこぴこしています。ぴこぴこぴこ。そういえばピコ太郎なんて変わったおじさんいましたね。あんな人が出てくる小説を柔らかく描きたいものです。
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