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可哀想ではない

可哀想って思われたい人っているのか?

例えば、障害がある人がいたとして、ご不便や偏見や(一応)健常者の私には計り知れないご苦労などがあろう…とは想像できる。

しかし、そういった方々は可哀想なのか?

私は可哀想とは思わない。
逆に魂レベルが高いのでは!?とすら思う。
だって、地球に遊びにくるにあたり、わざわざ何らかの機能が損傷している(後に損傷することが決まっている)もの選ぶかい?
おつとめ品やパッケージの凹みぐらいならまだしも、腐っていたりあからさまに美味しくない商品は買わないと思うんだ。

で。ついさっきの出来事なのだが…母に

『アンタはお母さんのことを可哀想だとは思わないのか?』

と言われた。即答で『思いません。』と返した。

母は背骨が曲がっていて歩くことや長時間立つことが出来ない。しかし、自分で風呂に入りトイレにも行けている。激痛を伴うようで一歩踏み出すたびに痛い痛い言っている。

大変そうだな。とは思うけれど、果たして母は可哀想なんだろうか?

私はそんな可哀想なあなたに『アンタが(無職のため)家にいるから病気が酷くなる。』と言われた。私はその言葉を絶対に忘れないし、許すこともない。

私は、精神に病気がなければ、とっくに定職について家を出ているだろう。
私は『朝が弱かったり、風呂に入れないのもうつ病の一つの症状である。』とは話したが、『うつ病なので、〇〇出来ない(ex 働けない)』と言った覚えは一度もない。寧ろ、うつ病と診断されてからも5年は身を粉にして働いていた。

自分の見たい現実が叶わない時もあろう。
それは誰でもなく自分の責任である。

誰かに幸せにしてもらおうと思ったら、やっぱりダメなんだと思った。そして、誰かの不幸の上に自分の幸福を築くこともダメだ。

悪いがあなたは、可哀想ではない。
可哀想と思われたからといって背骨が治るわけでもない。

あなたには笑っていてほしい。
いつまでも笑っていてほしい。

自分の不甲斐なさに泣けてくるけれど、
私も…可哀想ではない。

世界中の誰もが私のことを可哀想だと思っても、私は私のことを可哀想と思ったり、ましてや見捨てることなんて出来ない。

それが、生きるってことじゃない?