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見て見ぬ振りでさよなら

 わかりやすく言えばレーズンパンの中のレーズンの数がわかるんだよね。と言われ、私は今世紀最大のときめきを感じこの人のことをもっと知りたいと思いました。「千佳ってホント男見る目ないよね」と、よく言われます。ライバルがいなくて良いと思うんですが、違うんですか?

 先月、実家からパンの詰め合わせが送られてきてその中にブドウパンが入ってました。名前がなんだかかわいくて、最後に食べようと思い冷凍庫に閉まっておこうと手に取りました。後ろの成分表を見て「なんだ、レーズンパンなんだ」と、人生の経験値が低い私はその時初めて知りました。数日後、そういえば私、あの時レーズンパンを見て彼のこと思い出さなかったなと、ふと思ったんです。こうやって人の記憶って薄れていくんだと実感した瞬間でした。けれどその日の夜、冷凍庫のレーズンパンを取り出し、過去を反芻してぼろぼろと泣きながらレーズンパンを食べました。最後に牛乳を流し込み、その後お風呂場で全て吐き出しました。記憶は薄れたとしても、この過去があった事実は消えないのです。過去があって、今の私なのです。私の過去は、一生私の未来にまとわりついて来るんでしょうね。

 その日から、彼からお気に入りだと教えてもらったカフェで過ごすのが日課になりました。最初はこのカフェがある駅に降りることすら嫌でしたが、彼と精神的に繋がれるような気がして足しげく通っています。もう絶対、彼はここに来るはずなんてないんですけどね。彼は今どこにいるんでしょうか。もしかしたら日本にはいないかもしれません。タイで起業したいとか言っていたときもありました。「じゃあ、白いTシャツ着て腕組みしてる写真をフェイスブックのアイコンにしなきゃね」なんてその時は笑って言ってやりました。楽しかったな。まあ二度と戻れないんですけど。

「千佳、お待たせ」
「カオルさん。遅いって。30分も遅刻じゃん」
「いや、千佳が家出る前に言ったよ。早く来たのはそっちの意思でしょ。ていうかお詫びに家まで迎えに行くって言ったのに。ホント好きだねこの『思い出のカフェ』」
「今日もうるさいな」

 むせ返るほどの私の想いが染みついているこのカフェに、遅刻しても悪びれもなく現れたのは高校からの付き合いのカオルさんです。同い年ですが、出会った当初高校生にしては見た目がやけに大人びていたのでカオルさんと呼んでいます。でも、毎日のように遅刻するし、携帯はよく没収されて先生と言い合いしていましたし、大人とは程遠い存在だと気づくのには知り合ってからそこまで時間はかかりませんでした。それでもカオルさんは勉強はできる方だったので、名ばかりの進学校であった母校はあまり強くカオルさんに文句を言えない様でした。

「じゃあ、行くよ。こんなとこさっさと出よう。アイツと同じ空気吸ってるみたいで気持ち悪くなってくる。いい加減他のカフェでも見つけてよ」
「ちょっと聞こえるって」

 確かにここは『思い出のカフェ』ですが、何度も足を運ぶようになってからマスターの煎れるコーヒーの味にハマってしまいました。彼の後ろ姿を追う気持ちに合わせて、マスターのコーヒーを求める気持ちも大きくなっていったんです。ここに来れなくなってしまうと私の休息の場がなくなってしまいます。このカフェには何の罪も有りません。私がただ勝手に過去の記憶に縋っているだけなのです。

 でも、今でもコーヒーにミルクを入れるたび涙が溢れてしまいそうになって、心臓がすり減る感覚は無くなりません。カオルさんの言う通り別のカフェを見つけるべきなのかもしれません。それでも私はここで、マスターのコーヒーを飲みながら彼を待ってみたいのです。カラン、とドアが開いた音に振り返ると彼がいて、2人の時間が止まった様にほんの数秒、だけど数時間にも感じるような時間、2人で見つめ合ってみたいのです。だってそんな事があったら、私たちは運命だったのかも、なんて思ってくれるかもしれないじゃないですか。

「カオルさん、待って」

 早々とカフェを出て行ったカオルさんを追いかけ、お会計を済ましました。意図が伝わるかは分かりませんが、騒がしくてすみませんとカウンターにいるマスターに頭を下げてカフェを出ました。ドアを開けると、カラン、と音がしました。彼の後ろ姿を思い出しました。

「千佳、良かったね。今日ナナコも来るよ」

 ほら、と『今から向かいます』とウサギのスタンプが送られている画面を見せられました。ナナコは、カオルさんと同じく高校を過ごした友人です。

「えっ。絶対男といると思ったのに」
「飽きたんじゃない? じゃ、ナナコ拾いに行くから早く乗って」

 カオルさんの愛車、「カオちゃん号」に乗り込みました。数年前まで毎日の様に乗っていたので車内には私の私物がいくつか置いてありました。視界が懐かしくて、過去に戻った様な気になりました。冷え込んできたからといつかの夏の終わりに持ち込んだブランケットが、綺麗に畳まれて後部座席に置いてありました。身体を捻って後ろを向きブランケットを手にすると、微かにカオルさんと同じ洗剤の匂いがしました。わざわざ洗ってくれたんですね。カオルさんのこういうところ嫌いじゃないです。

「あんたもさー、洗いなよ全部」

 ブランケットを手に取った私を横目に見たカオルさんのオブラートに包んだ言葉が、ずっしりと心臓に刺さりました。左折ランプのカチカチという音が車内に響きました。私は、サイドミラーに映る自分を見つめ、なんて私はブスなんだろうと思いました。

「ちゃんと洗ってるよ。でも、消えないんだよ」

 カオルさんの返事はありませんでした。

「ナナコとは連絡とってた?」
「たまーに。会わせたあの日以来かな……」
「めっちゃ前じゃん。まあ、こればっかりはナナコもナナコだから仕方ないけどさ。いい歳なんだから、そろそろちゃんとした恋愛しなよ」

 いい歳ってなんなんですか。私はまだ26です。でも最近よく思い出すんです。小学生の頃に流行ったプロフィール帳の、何歳で結婚したいかの質問の答えに『22』と書いていたことを。22歳なんて、まだ大学生なのに。でも、小学生の私からしてみれば22歳は立派な大人だったんです。そんな理想の年齢から4年も老いてしまいました。いざこの年齢になってみると、正直まだまだ若いと思ってしまいます。思わせてください。それでもやっぱり、23歳を過ぎたあたりから誕生日が来るたび「来るとこまで来たな」なんてどこかで思ってしまいます。こんな26歳になるはずじゃなかったんですけどね。
「結果としてちゃんとしてなかっただけだよ」と、意地を張った返事をしてしまいました。26って、アラサーか。

 ナナコの家は思い出のカフェから車で10分程でした。ナナコとカオルさんと私は大学卒業後、地元で就職したので3人の家はそこまで離れていません。でもナナコは昔から男の家を転々としているので、遊びに誘っても隣の県にいたりで会えないことがほとんどでした。なので今日もてっきり来れないと思っていました。

 右手に握っていた携帯が小さく震えました。反射的に画面を見ると「コンビニの前にいるね」とナナコから連絡が来ていました。久しぶりに通知画面にナナコの名前が表示されました。

「あー、いた。相変わらず全身黒いなあ」

 カオルさんの声にはっとして前を向くと全身真っ黒のナナコがいました。ナナコに向かって、カオちゃん号がゆっくりと近づきます。ナナコがカオちゃん号に気付いて、小走りで近づいてきました。ナナコを見つめていると、ナナコの後ろに立っている男に会釈されました。

「ちーかー! カオル!」

 後部座席のドアが開き、ナナコが乗り込みました。

「珍しいじゃん。前日の連絡で来れるの」

 気づいていないのか、カオルさんは後ろの男には触れずにナナコに話しかけました。

「あっははは。なんかさ、疲れちゃって。最近はずっと実家だよ。26で実家ってやばいよね。でもそのおかげで今日来れたし。朝起きたら朝ご飯はあるし。実家万歳だね。で、はい、今日はー、ユッキーも連れてきました」

 ナナコが後ろの男の腕をつかんで前に引っ張りました。

「あの、初めまして。すみません、ナナコさんが来て良いよって……、タカユキです」

 イケてる風の男がおどおどと話しだしました。清潔感もあって顔も整っていていますが、歴代のナナコの男とは雰囲気は多少違います。ナナコのタイプはどちらかというと筋肉質で、ぱっと見前科でもありそうな人相の悪い男を気にいる傾向にありました。「どこで出会うんだよ……」と、カオルさんが言うのが定番の流れでした。

「あのさ、ナナコ。うちらの中に男連れてくるなって前も言ったよね。毎回結局変な感じになって終わるんだから」

 カオルさんが電子タバコの電源を入れながら言いました。

「違う違う! 会社の後輩! そういうんじゃないよ。こっちに友達いないみたいだからどうかなーって。昨日カオルから連絡来た時ちょうど一緒に仕事してて。いい奴だよ。頭良いし」

「す、すみません……。あの、お二人の名前だけ聞いてて、カオルって、ってきり男性なのかと……」

 無理だったら言ってください、と困ったようにタカユキさんはぎこちなく笑っていました。「いいよいいよ」とナナコはカオちゃん号に乗り込み、タカユキさんの腕を引っ張っています。

「あはは、確かにカオルって男でもいるもんね。私は全然良いよ。人多い方が楽しいし。良いじゃん良いじゃん」
「まあ……、千佳が良いなら良いよ。タカユキさん、どうも。乗って」

 運転席にカオルさん。助手席に私。後ろにナナコ。これが定位置でした。遠慮がちにナナコの隣にタカユキさんも乗り込みました。カオルさんが電子タバコをサイドポケットに置きました。セーフです。

「カオル、ありがとう迎え」
「はいはい。じゃ、行こう。海。タカユキさん、海行こうとしてたんだけど、良い?」
「あ、はい! 良いですね! 海!」

 カオルさんに話しかけられるとタカユキさんはピシッと背筋を伸ばしました。そんなタカユキさんの様子を見てナナコは「ウケる」とタカユキさんの背中を叩きました。

「海良いね! でも何で海?」
「千佳に良い空気吸わせてやろうと思って」
「え? なんかあったの千佳」
「……」

 聞こえないふりをしました。

「なんかあったから今日会ってんだろ」

 「なになになに!」とナナコが後ろから顔を覗き込んできます。私は無言でブランケットを顔にかけました。

 言葉にしてしまうと、それは目を逸らすことのできない現実だと突きつけられてしまうようで、中々人に話すことが出来ません。カオルさんに話した時は、1人ではもうどうしようもなくて。抱えきれなくて。ワッと感情が溢れ出してぼろぼろと泣きながら深夜に電話して話しました。そうです。レーズンパンを食べたあの日のことです。最初、馬鹿らしくて笑ってカオルさんに電話を掛けたのですが、電話越しだとカオルさんには泣き声に聞こえてしまったみたいで「そんな奴のために泣くな」って言われてしまいました。その言葉で泣いてしまったんです。カオルさん、多分あの時すごく焦ってました。「アンタから連絡来る時は大抵こういう時ってわかってたけど、まあ、今回はちょっと辛いか」なんて言われました。今までと同じじゃん。むしろマシな方だよ。こんなことで泣くな。とか言って欲しかった。可哀想な子になりたくなかった。

「あとで言うよ。ナナコ、元気だった?」目元だけ見えるようにブランケットをずらしました。

「元気だよー。健康面はね。まあ、アイツでしょ? 千佳、最近アイコン変えてたもんね。なるほどねー。合点合点。だから絶対ヤバい奴だって何回も言ってたじゃん。私もだけどさ、やっぱ友達の意見ってちゃんと聞き入れた方が良いんだよね。ってこれ前も話したじゃん。学ばないよねえ、うちら」

 ナナコが前に身体を乗り出して再び私の顔を覗き込んできました。

「危ないから」

 カオルさんはナナコを後ろに押し除け、カーナビに目的地を入力し始めました。ここから1時間程度で海に着くようです。

「あ、ホントに海? サイコーサイコー!」
「まあ、たまにはね」

 カオルさんの声と同時にカオちゃん号が動きました。 

 海、海かあ。彼と一緒に行った沖縄、最高に楽しかったな。私、あの時初めて海に入ったんです。初めての沖縄でした。本当に楽しかったんです。多分これから一生、今までで楽しかった旅行は去年行った沖縄旅行だと言い続けるんでしょうね。もし、次の彼氏ができたとしてもその人にそう言ってしまうと思います。本当のことですし。彼も楽しかったと思うんです。すっごく笑ってましたよ。あの笑顔今でも眩しい。またもし彼が沖縄に行く機会があれば、私のこと、少しでも思い出して欲しいです。そして、思い出した私は笑っていて欲しい。笑顔の私が、彼の中に残っていて欲しいです。だって、過去は消えないんですから。

「千佳、後ろの食べて良いよ。たぶん埋もれてる」

 カオルさんの指さす方を見ると、見覚えのある袋が置いてありました。

「あ……」
「あ、千佳の好きなクッキーじゃん。いやーカオル。そういうところ。そういうところ!」
「いーから。なんか思ったより人気なんだねここ。だから遅れちゃった。ごめん。まあ、食べて」

 そういうと、カオルさんはカオちゃん号を動かしました。

「千佳、ユッキーどれがいい? 私このチョコの食べたいなー、って……えっ」

 自然と涙が溢れました。私、最近泣いてばっかですね。

「あれ、ごめん、いや、ごめん……。いや、そのお店さぁ、初めてのデートで見つけて、それで、それでさぁ、この前の、ホワイトデーにも……ここのクッキー、もらったんだ。好きなのは、本当だから。カオルさん、ありがとう。遅刻とか怒って……ごめん……」

 ブランケットをまた顔にかけ直しました。真っ暗な視界の中で、グルグルと思考が駆け巡ります。

「はい、カオルアウト~~」
「あーー、ナナコ、全部食べてくれ」
「ユッキーごめんね、これが26の現実だよ」

 だって、3年。3年ですよ。3年もここで彼と一緒に過ごしたんです。こんな小さな街、3年もいたら全ての物に何かしらの感情が付加されてしまいますよ。このクッキーのお店は、付き合う前。そう、知り合ってから初めてのデートで、2人で散歩している途中に偶然見つけたお店でした。マフィンも売っていて、チョコチップクッキーとマフィンを買って近くの公園で食べました。ホットコーヒーも買って。そうだ、その時エントロピーについて教えてもらったんです。「レーズンパンの話、覚えてる?」なんて言われて。覚えてるに決まってるじゃないですか。だって私、それであなたに恋をしたのよ。

『コーヒーとミルク。これがそう』
『コーヒーとミルク?』
『うん。この前も言ったけど、大学で統計学について学んでるんだ。統計学って言われてもピンとこないかと思って、わかりやすいところでレーズンパンの話をしたんだけど……。統計学の中でも俺はエントロピーについて研究しているんだ。コーヒーにミルク入れてみて。うん、そうそう。ミルクが渦を巻いているでしょ。そしていずれは均一に混ざる。ミルクとコーヒーは1つになって、それぞれではないまた別のものになる。この一連の動きをざっくりエントロピーと言って、コーヒーとミルクが混ざることを煩雑さが増すっていうんだ』
『煩雑さが増す……』
『そうそう。不可逆性とかもいうんだけど……、このコーヒーから、ミルクだけ取り出してって言われたらできないでしょ? これは宇宙の話まで発展するんだ。なんだかワクワクしない? 俺、すごく魅力的に思えて。この目の前の動きがさ、宇宙の動きと関連性があるんだ、って』

「きたきたきた!」

 ナナコが窓を下げると、勢いよく車内に風が入ってきました。ほのかに感じていたクッキーの甘い匂いが消えていって、残り香をたどるように窓を見ると海が広がっていました。こんなに綺麗な景色を見たのはいつぶりでしょうか。

 さっきまで私が泣いていたことはすっかり無かったことのようになってます。気にかけてもしょうがないことだと、2人は分かっているのです。非情さも感じますが今はその対応で正解でした。心配されてもどうしようもないのです。初対面のタカユキさんには申し訳ない気持ちがありますが、気にする余裕はありませんでした。

「いやー、今年海来れてなかったからテンション上がるわぁ。ソフトクリーム食べよう。たしか有名なところあったんだよこの辺りに」

 そう言ってナナコは携帯でお店の場所を調べだしました。「俺調べます」とタカユキさんも一緒に携帯を触り始めました。

「あ! 次の次左です!」
「ユッキーナイス! 危うく過ぎるとこだったねー。おっ、ほら、星4だって。ここなら行ったことないでしょ、千佳」

 ナナコがからかうように私に聞いてきました。

「ないよ。ないない」

 確かにないですけど、この景色、あの日見た沖縄の海に似ています。星4のソフトクリームじゃなくて、コンビニで売ってる適当なアイスで私たちは十分でした。「せっかく沖縄来たのにね」そう言って笑いながら入るんです。そして、まずは彼が好きなクッキーアイスを探すんです。無かったら次はあの苺味のアイス。あったよと彼の元に行くと、彼は私の1番好きなカフェラテを手に持っていて「相思相愛じゃん」なんて冗談ぽく言って2人で笑うんです。

「アイツさ、うちらのことあんま好きじゃないって千佳に言ってたじゃん」

 半分空いた窓に両手をかけ、髪をなびかせながらナナコが言いました。ナナコを見るように小さく顔を右に向けると前まで開いてなかったはずのピアスが開いているのを見つけました。

 ナナコが言っているのは、彼を2人に会わせた日のことです。

「あー。あったね。こっちから願い下げだわって話よ。普通彼女の友達にケチつけるか?」
「ほんとそれ。ただの知り合いとかならどうでもいいけど、高校からの仲ですわって。会って欲しいってわざわざ千佳が場を設けたのにね」
「あの時はナナコのマシンガントークに疲れちゃったんだと思う」
「はあー?」

 ナナコの声に、カオルさんは口を開けて笑いました。

「酷い、ですね……」

 タカユキさんがそっと呟きました。私は後ろを振り返ることはしませんでした。窓から見える海を見つめていました。水平線が見えます。彼は今、どこにいるんでしょうか。

「ねー、ユッキー。私たちと過ごした時間があっての今の千佳なのにさ。酷いよね」

 酷い……、酷いんでしょうか。彼から2人のことが苦手だと聞かされた時、2人は苦手でも私のことは好きなんだ。そう思って少し嬉しくなってしまったなんて、到底言えません。酷いのは私の方ですよね。彼が好きになれるのは私だけなんだと、盲目的に思っていました。バカみたいですけど、本当にそう信じて疑いませんでした。

 「あ、次左ね」ナナコの指示でカオちゃん号は海の方向に曲がり、こじんまりとしたロッジに着きました。車でしか行けないような場所ですが、私たちの他にも3組程お客さんがいるようです。お店の隣には海に降りられる階段が見えました。車から降りると空気が気持ち良くて、無理やり元気を出さなければいけない雰囲気を感じて少し気が重くなりました。

「ユッキー、コーヒーにするの?」

 ナナコとタカユキさんも降りてきました。

「あ、はい。俺、お腹弱くて冷たいのあんま食べられないんですよ」
「そういうの先に言ってよ」
「ちょっとカオル、ユッキーいじめないで」

 見慣れたカオルさんとナナコの後姿に、見慣れない男の後姿が加わりました。なんとなく3人の隣には行かず、後ろに続くようについていくとナナコが振り向むいて私の隣に移動してきました。

「千佳、ユッキー嫌だった?」

 ナナコが前の2人には聞こえないように小さく聞いてきました。

「えっ、いや、全然。……私は全然だけど、タカユキさんが嫌だったんじゃない? 友達増やせると思ってきたら全員女って、騙されたって思ってるよ」

 最初に会釈された時のタカユキさんを思い返しました。その時私は、「アリ」だな、と反射的に思ってしまったのです。

 いつからか、男性と知り合うと無意識に脳内で「アリ」か「ナシ」かを判別するようになってしまいました。私は態度に出やすいようで、「ナシ」と思った相手にはあまり良い対応をしていないようです。「あからさま過ぎるよ」とナナコに言われたことがあります。そんなつもりはないんですけどね。彼と出会ったあの日以降、私は異性に「アリ」と思ったことはありませんでした。なので、会釈したタカユキさんを見て「アリ」と思ってしまったこと、それは彼に対する裏切りにも思えてしまったのです。私の中から、彼が消えていくような、そんな気持ちになったのです。一度混ざり合ったモノは取り出せないんじゃないんですか?

「なんだ良かった! ユッキーそういうの気にしない人だから! 性別関係なく接するタイプだしある意味女タラシよ。カオルー、ユッキー、私たち下降りてるからさー、おねがーーい」

 ナナコはお店の入り口に向かうカオルさんとタカユキさんに声をかけ、海に降りる階段がある方へ歩く方向を変えました。「綺麗だね」とナナコが水平線を見つめて小さく呟きました。水平線よりもっと遠くを見ているようにも思えます。日差しに反射してキラキラ光る海の景色は、私の視界には勿体無いように思えて「うん、綺麗だね」と、少しだけ目を伏せて返事をしました。

 下に降りてベンチに腰かけているとカオルさんとタカユキさんも降りてきました。冗談ぽくカオルさんが睨みつけてきたので「ごめんごめん」と、ナナコと同時に立ち上がり2人の元へ小走りで近づいて行きました。

「カオル、ユッキーありがとう」

 ナナコはカオルさんからソフトクリームを受け取ったので、私はタカユキさんから受け取りました。タカユキさんの持つコーヒーの匂いが脳内に広がって、思考がモヤがかかる感覚に陥りました。

「コーヒー、ミルクは入れますか?」
「え? あ、一応持ってきました。気分で入れようかなと思って」
「エントロピーって分かります?」 
「え?」
「あはは、なんでもないです」

 ありがとうございます、とお礼を伝えてナナコとカオルさんの方に移動しようとしました。

「わかりますよ」
「え?」
「そこまで詳しくないですけど、講義でちょっと受けました。コーヒーとミルクだからですよね? なんか久しぶりに聞きました」
「あ……、そうなんですね……」
「あれ、突き詰めれば面白そうですよね。専攻じゃなかったので深く学ぶ機会なかったんですけど」

 タカユキさんの言葉が脳内に響き、モヤが濃くなりました。

 文系で、数学なんて全く分からない私がエントロピーを知っていること、それは彼と精神的に繋がっている証拠だったのです。私たちだけの、特別なものだったんです。宇宙規模のエントロピーが、私たちを繋ぎとめているんです。

「そうです、面白そうですよね。わたしも全然詳しくは知らないんですけど、でも何となく知ってて。コーヒーにミルクを入れる度にエントロピーだ、って思っちゃうんです」

 逃げるように早口で伝えて、海が見える方向に並んでいるベンチに座っているナナコとカオルさんの隣に座りました。

 エントロピーって、特別じゃないんだ。誰でも、知ってるんだ。

「千佳? すごい顔してるけど」

 ナナコはソフトクリームを食べ終わっていました。「ユッキー、コーヒー頂戴」と顔を後ろにのけぞりタカユキさんの方向へ両手を伸ばしました。

「ナナコ、私、私さ」
「うん?」
「浮気……浮気されちゃって。あの人が他の女の子と歩いてるの見ちゃって。最初は妹かなって、思って……、思いたくて。でも、腕、組んでて。こう言う時ってすごい頭働くんだね。あ、浮気されてたんだってすぐ理解できた。でも、足が動かなくなっちゃって」

 ナナコはタカユキさんからコーヒーを受け取ると、静かに一口飲みました。カオルさんは何も言いませんでした。タカユキさんは気を使ったのか、3人が座るベンチから少し離れ、海の近くへ移動していました。空気が少しずつ冷え込んできました。

「いや、もはや浮気じゃなかったのかも。結局、もう1年くらい前から私への気持ちなかったんだって。それなら、浮気でもなんでもないよね。ただ好きな人できたってだけだもんね。情で付き合ってたって言われちゃった。酷いよね。普通それ本人に言うかって。次の彼女さ、すごい若くて。足も細くて。華奢で、すっごく可愛かった。多分まだ大学生とかなんじゃないかな。私と全然タイプが違う感じで……、本当に、本当に悲しかった。これは負けるわって。若さもそうだけど、途端に自分が酷く惨めでブサイクな女に思えちゃって。話しかけなんて行けなかった。ぶん殴ってやればよかったのに。おかしいよね。とっさに隠れちゃった。こんなブス、捨てられて当然かって、瞬時に思っちゃってさ。馬鹿みたい。昨日まで彼の隣にいたのは私だったのに、一瞬でスポットライトが外れて、彼との物語のヒロインから村人Aになっちゃって。2人の後姿を見つめて、道端でワンワン泣いちゃった。恥ずかしいよね、もう26だよ。私、私さ、本当にあの人のこと好きだった。でも、このままだとうまくいかないんだろうなってことはなんとなく気づいてた。それでも一緒にいたくて。私も……、情だったのかな。でも、こんな最後ってあんまりだよね。もう絶対会いに来ないでって言われちゃった。家も会社も知ってるんだけどね。合鍵だってまだあるよ。でも、もう……、会えないよ。せめて、せめてさぁ。お互い納得いく形で、またどこかで、なんて言って、笑って終わりたかった。嫌な思い出にしたくなかったよ。大切で、キラキラして、かけがえのない、思い出にしたかった。それくらい大切な3年だった。こんな風に最悪な最後で終わらせても良いって思ってるんだって、思って、本当に辛くて……。私への気持ちが無くなったことより、そのことが一番辛かったかもしれない。初めて出会った時だって、お互いがお互いを『この人だ』って思ったこと、感じ合ったんだよ。運命だって、馬鹿みたいだけどあの時は思ったんだよ。ずっと一緒にいたいって言ってくれた時、本当に幸せだった。本当に、本当に、好きだった……。」

 言い終わると、ナナコが立ち上がりました。私の右手は溶けたソフトクリームで汚れてきました。

「私ちょっと、マジで許せないんだけど。ぶん殴ってやんなきゃ気が済まない。なんでアイツだけ幸せになってんのよ」
「私もだよ。でも、良いんだって。千佳が」
「だって、嫌われたくない……」
「何言ってんのよ千佳……」

 ナナコとカオルさんが深いため息をつきました。こんなこと言って、呆れられることはわかってます。それでも、ほんの少しでも彼の中の私に良い感情を残しておいて欲しいんです。

「日の入りですよ」

 タカユキさんがいつの間にか戻ってきていて、海を見ながら言いました。視線の先を追うと、青からオレンジにグラデーションがかかった空が広がっていました。

「これもある意味そうなんですかね。青とオレンジが混ざり合って、この後全く別の黒になりますから」そう言うと、「使ってください」と、私にお手拭きを渡してきました。この間にお店に取りに行っていたみたいです。確かに、女タラシの匂いがしますね。

「うん……、そうなのかもね」

 手元に残る溶けたソフトクリームの伝った痕がコーヒーのミルクの記憶をフラッシュバックさせました。脳内に渦を巻くように彼との記憶が広がっていきます。

 彼は頭が良くて、カッコよくて、優しくて……。私には勿体ない人でした。何も無い私を補填してくれた。ただただ、彼の能力にだけ惹かれていたのかもしれません。何もない私の唯一の自慢。それが彼だったのかもしれません。彼を失うことは、何も無い私に戻ることを意味していました。あの日二人の後姿を見たとき、私は道端で何もかも失ったのです。精神の拠り所、若さ、自己肯定感。何もかも無くなりました。この先生きてる意味なんて無い。そう心から思いました。それなのに、時間が経てばお腹は空くし、夜になったら眠たいし、お笑い番組を観たら笑ってしまう。私って何なんだろうと中途半端で自己嫌悪に陥りました。食欲無くなって痩せ細って、病気にでもなればいいのに。中途半端に元気で、私って本当に気持ち悪い。悲劇のヒロインにもなれない。本当に中途半端。

「ナナコ、カオルさん、大丈夫だよ。なんか話したらすっきりした。心配かけてごめんね。タカユキさんも、ありがとう。最初から最後までなんかごめんね」

 べたついた右手を触り、ほとんど溶けたソフトクリームをスプーンですくい食べました。ただの甘ったるい液体になっていて、星4の味には思えませんでした。コンビニに売っていたら買わないでしょうね。

「戻ろうか。冷えてきたし」

 カオルさんが立ち上がり、私の背中をポンと叩いてきました。「大丈夫だから」と小さく言い、駐車場の方へ歩いて行きました。カオルさんの言葉に、また少し泣きそうになりました。私はいつだって大事なものに気づくのが遅いんです。カオルさん、ナナコ、蔑ろにしていてごめんなさい。大事にしなければいけないものは、いつだってこんなに傍にあるのに。

「千佳さん、俺の知り合い紹介しましょうか」
「あははっ、ユッキー生意気!」

 「本当に生意気」と冗談ぽく笑い、カオルさんの後を追いました。

 空は藍色に淡く染まっていて、黒が目の前まで迫っていました。月だけが、くっきりと空に浮かんでいました。

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