20代前半で鬱病になった話#4
死にたくなっても良いじゃないか(闘病生活中盤)
鬱病の中期を反芻してみても、一番の大事件だったのは突然原因不明の痙攣に見舞われて立つことも叶わなくなったあの日の出来事だろう。映画鑑賞をしている父の傍でそれとなく流れている映画へ視線を投げていた。鬱病の時は恐ろしいまでに集中力が続かないものである。映画一本鑑賞するだけでもどうしちまったんだって程に脳が疲弊するし、どういうジャンルであれ、内容についていくのも精一杯なのだ。だから正直あの日観ていた映画の内容はほぼ憶えていないので説明できない。
エンドロールが流れ出し、徐に立ち上がった刹那、膝に力が入らなくなって数歩進んだだけで崩れ落ちた。何が起こったのかまるで理解できなかった。自分の身体なのに。現場に居合わせた父も私の異変に吃驚してすぐに駆け寄ってくれた。だが、そんな事よりも身体が酷い寒さの中にいるみたいに震え始めている事に私の意識は向けられていた。両腕がピクピクと意思とは無関係に動いて止まらない。寒くもないのに震えている。もしかすると、今まで鬱病と思ってたけどもっと違う稀有な病に冒されていたとか?それとも、鬱病の他に新たなる病の爆誕か?思考を巡らせては見るが、医者でもないから無論診断結果なんぞは出やしない。
「なんか震えてる」その説明しか父親にできなかった。父親に抱えられ椅子に移動し何とか腰かけたが、依然として身体の痙攣が止まらない。止まらないのはロマンティックだけにしてくれ。今だからこそこんなつまらない冗談も吐けるが、当時はギリギリゾンビになってない人間という感じだったので、冗談を思いつく元気は当たり前になかった。父親が少し私を観察してから開口した。「これは可笑しいから救急車を呼ぼう」携帯を父が手に取ったタイミングで、寝ていた母が目覚めて寝室から現れた。寝起きの悪い母の眠気を一瞬で消し飛ばす程に私の身体の痙攣のインパクトが大きかったらしい。母もすぐに「これは救急車だね」そう漏らした。こうして私は人生で初めて救急車に乗り、病院へ運ばれることになる。
痙攣は止まらないが、脳味噌はしっかりしているせいでかなり冷静に痙攣が始まってからの時間経過や身体の変化を救急隊員に伝えた記憶があるが、救急隊員も原因が不明だと困惑していた。近所にある大きな病院に運ばれそのまま検査。震えが止まらない腕から採血をしなくてはならなくなった看護師の自信なさげな言動に、余計に不安を煽られつつも、様々な検査を終えた。短時間で体温が約三度も上昇した為、何かしらのウイルスや菌に感染しているかもしれないと医師に告げられた。だがしかし、結論から言うとそれもこれも全て心因性だった。心の病が作り出した症状だった訳である。
搬送先の医師は「信じられない。こんな症状見たことない」と言っていたが、心療内科の担当医は「心因性だろうね」と頷いていた。検査全てに異常はなく、朝方には痙攣も熱も治まり、帰宅が許可されたが、この日以来痙攣という症状も時折顔を覗かせる様になった。
自殺未遂とまではいかないが、途端に死にたくなって手首を傷つけたこともある。でも死ななかった。母親はそんな私を見て大泣きしながら憤っていた。しかしながら、母のそんな姿を見ても生きててごめんなさいとしか思えなかった。鬱病というのは厄介極まりない。そんな真っ暗闇なエブリデイな私だったが、友達が外に誘い出してくれる様になった。SNS等ほぼ放置に等しい生活をしていたが、音沙汰のないそんな私を心配して友人から「大丈夫か?」「お前今何してるの?」「元気してる?」などといったメッセージが届くことが多くなった。元気を装う気力もとうに失っていた私は、一度も人に弱味を見せたことがなかったが、包み隠さず心の調子を崩していて引き篭もっていると言うようになった。これで引かれてももうどうでも良いや、なんて考えていたのだが、私の最低な予想を裏切り、友人達は皆心配して遊びに誘ってくれるようになった。車で家まで迎えに来てくれて、ドライブだけでもと言ってくれたり、会えなくても良いからと私の好きな食べ物を持って尋ねて来てくれたりと、自分が思っていた以上に友達が私の事を大切にしてくれた。一番ありがたかったのは、誰一人として私を病人扱いしなかったことである。みんな、今までと変わらず接してくれたのだ。それが酷く嬉しくて、心が温かくなった。嗚呼、自分は素敵な友達に恵まれていたんだなと気づく事ができた。
一度父に誘われて外出したけれど、すぐに吐き気を催してしまい外に出る事すら怖くなっていたのに、友達が「大丈夫だよ、何かあっても傍で守るから気遣うな。頼れ」と言ってくれたおかげで、少しずつ少しずつ外に出られる様になっていった。外出している間も「少し休もうか」「疲れたよね」とどの友達も定期的に私の身体を気にしてくれたおかげで、苦痛な外出なんて本当に一度もなかった。
友達と連絡を取るようになってから、徐々に外との繋がりができた喜びで鬱病にほんの少しだけ回復の兆しが見えた。遊ぶ事で疲れて睡眠が多く取れるようになってきたり(それでも良くて五時間程度)、友達と食べる事で食事の量も徐々に増えていった。友達と遊んだ翌日は反動で一日動けなくなる現象が当たり前になってしまったが、それでも前を向いて歩けているという感覚を抱けるようになっていった。そんな日を何度も何度も重ね、小さな一歩一歩で歩き続けた。そうして気づけば二年半の月日が過ぎていた。因みに会社は、休職して半年でこれ以上在籍してても悪化すると思い退職していたのだが、忌まわしい会社とえんがちょしたのも心が軽くなるきっかけになった。鬱病中期の頃くらいに出会ったのがミルタザピンという薬なのだが、これが私には合っていた様で、その助けもあって精神の乱れる幅が小さくなっていたのだと推測している。
自分のペースで良い。毎時間死にたくなっていたのが、一日おきになった。二日おきになった。三日おきになった。一週間おきになった。一ヶ月おきになった…―。死にたいとはまだまだ思うけれど、頻度は確実に少なくなった。その事実だけでも、心の底から嬉しかった。鬱病で苦しんでシクシク泣いてばかりの私に、ある日妹が言ってくれた言葉がある。「お前さ、めっちゃ燃費良い高級車じゃん。クッソ長い人生、このたかだか数年こうして療養して休めば後は何十年も動き続けられるんだぜ?軽い故障みたいなもんなんだから、修理終わるまで休めば良いんだよ。嫌でも働く時なんて来るんだから」二歳下で私とは性格が似ても似つかない破天荒な妹のその発言が、今でも私の心の支えになっている。成人を迎えたばかりなのに、既にその思考ができあがっていて、鬱病で変わり果てた姉を相手に言葉を投げかけて私の精神が落ち着くまで傍にいてくれた妹の存在は大きかった。私の部屋に来て学校にいる嫌な人間の話や、バイト先にいる曲者エピソードを披露したり、新しく購入した服を着てファッションショーを開催し始めたりする自由な弟にもいっぱい救われた。数え切れない程の人間のおかげで、私は鬱病のどん底からよいしょと数センチだけ這い上がる事ができた。そして数センチ這い上がる事ができれば、そこからは新幹線はやぶさも驚く速さで落ちて来た崖を登る事ができた。
さて、ここで傷病手当金の受給が満了を迎えることになる。再び訪れるお金の問題。失業保険は週に20時間以上働けないと受給できないので、私は早めに失業保険の受給開始の延長申請をしておいた。失業保険を受給するには、週20時間働ける証明を担当医に書いて貰わなくてはならない。という事で私は、アルバイトを始めてみようという決断に至るのであった。まだまだ鬱病の症状は山の如し!そんな人間が、果たしてアルバイトに就くことは可能なのか。そして本当に鬱病は完治できるのか。その話は、後半で。
#4 【完】
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