キャラに生かされ、また殺される

中高と大学、男子校と共学、部活動とサークル。
多くを異にする環境下で、僕たちは同じような会話を続けている。

僕は、中学・高校と主に軟式野球部に属していた。いくつかの仲が良いグループがある中で、部活動で行動を共にするという事象は、その友達との仲の良さにも自身の人格形成にも多大な影響を及ぼす。現に、そのうちの二人は大学でもサークルが同じだし。もし、僕がずっと将棋部にいたとしたらこうはなっていないだろう。

グループがあれば、その中で独自の文化圏が生まれてくる。内部では当たり前だと思っていたことが、外側では意外と当たり前じゃない、なんてことが普通に起こる。
大人数で旅行して、夜に隣の友達同士がキスし始めても、別に気に留める様子もなくみんなで桃鉄を続ける、というのはどうやら異端らしい。大学に入ってからそう気付いた。

また、会話するにあたって『面白い』ことが最優先になる。これは異性の目を気にしない男子校・女子校出身者からよく聞くあるあるだ。もれなく僕たち軟式野球部員も当てはまる。
では、僕たちの『面白い』とは何ぞや、と考えてみると、「会話にキャラクターを持ち込む」ことではないかと考えついた。
雑談をしていく上で、トピックごとにイジる・イジられるという役割分担が成される。これは毎回特定の人に集中するわけではなく、話題ごとにイジられる人は止めどなく変わっていく。僕たちはその時時のキャラクターを忠実に守りながら、ちょっと気の利いたことを言ったり、少しズラしたりしながらワイワイ騒ぐのだ。場をハネさせるためには、話の虚実よりも盛り上がりをとる。相手の技をいかに受け切るかに重点を置く、「受け」の美学とでも言えようか。

「自分」というキャラクターを演じるのは、慣れればそれほど難しいことではない。毎日そんな環境で揉まれれば、もはや「自分」が僕の中に浸透していく。そのキャラクターこそ自分を構成する一大要素になっていくのだ。

大学に入るにあたって、ひとつ気付いたことがあった。その特有のノリが通用しないのだ。『面白い』至上主義が否定されるのも衝撃だったが、また別の問題が浮上した。
いわゆる大学デビュー組に過剰に嫌悪感を覚えてしまうのだ。
大学デビューというのは、ある種、本来の自分とは別のキャラクターを演じるということだ。それまでキャラの置換について計らずも鍛えられてきた僕は、下手な大学デビュー組から透けて見える軽薄さを嫌と言うほど感じてしまうのだ。
僕は早々に彼らと打ち解けることを諦めた。

時を同じくして、中高の同級生ふたりと一緒に、僕はあるサークルに入った。
二つ上の代のノリに近いものを感じた、というのもあったが、サークルに入った主要因は、僕たちの話し合いの結果、いずれこのサークルを乗っ取れる、いや乗っ取るしかない、という結論に辿り着いたからだった。
まず、サークルとして中規模であること、そして、サークルの説明会に登壇していたひとつ上の代がつまらなさすぎたこと。この二点から、僕たちは、それまで培ってきたノウハウを駆使して、このサークルを乗っ取れると確信した。

二年になった頃には、僕たちは中高時代と同じ会話のスタイルが成立するシステムを構築していた。
そんな中で、僕自身が試行錯誤した話は以前書いたのでそちらを参照されたい。
ひとつ上の学年を完全に制圧し、僕たちはまたキャラクターを媒材に言葉を交わすようになった。男女比半々くらいのこのサークルにおいて、男子校である中高時代と同じような環境を作れたことは奇跡的だと思う。それはひとえに先述の同級生ふたりのおかげだ。

また、ひとつ上の学年が『面白い』と感じることは、「俺たちがいかに“ヤバい“かを誇示する」ことだった。酒をどれだけ飲めるか競い、コールを振り、煙草をくゆらせる。それがリアルなら見ていても楽しいのだが、見ていて彼らが無理をしているフェイク感が強くて、どうしても心から打ち解けることはできなかったし、その知性の無さを軽蔑した。
彼らも、ある種の「大学デビュー」をしようと試行錯誤していたのかもしれない。僕たちにはその空気感が合わなかった。

しかし、男子校由来の独特なコミュニティが発展していくと、ガラパゴス化が進み、結果として排他的になる。年を重ね、後輩が増えるにつれてそれを痛感した。
先輩である我々が特殊な会話スタイルをとっていれば、後輩は必然的にそれに迎合せざるを得なくなる。また、どうしても僕たちに合わない後輩はサークルに疎遠になってしまう。
思い返してみれば、中高時代も排他的ではあった。僕たち軟式野球部周辺のグループはバスケ部とは比較的近い位置にいたものの、硬式野球部とサッカー部その他諸々のグループとは仲良くなかった。「俺らと合わねえから別に仲良くしなくてもいいし、擦り寄ろうとも思わない」という中華思想は、同級生相手なればこそ成り立つものだ。大学の後輩に対してそれをやってしまっては、形は違えどひとつ上の代とやっていることは何ら変わらない。ここに、中高時代に先輩後輩付き合いをしてこなかったツケが回ってきた。

特に酔っ払って制御不能になった時にそれが散見されがちだ。
僕たちには、「今このキャラクターを演じているんだから、それに沿ってロールプレイングしろよ?」という暗黙の了解がある。いや、別にそんなアンリトゥンルールは明文化はされていない。でも、大量得点差で盗塁したら報復死球をぶつけられるように、誰かがそのルールを破ると「いや、それは違うじゃん」という空気が蔓延する。
同期でやり合っているうちはまだいい。破ったそいつが悪い。ただ、偶然はち合わせた三個下の後輩にその文脈を押し付けていたのを見たときは、さすがにいかがなものかと思った。
その絡み方しかできずに、他の数多の可能性を潰してしまっている時点で、僕たちはキャラクターに殺されている。

ただ、確かにキャラクターは便利だ。生かされている面ももちろんある。
便利だし、頭を使うのは楽しいし、なにより面白い。ただ、会話そのものを記号化して文脈に当てはめさせようとするのは悪手かもしれない。
でも、意図せずに会話をしていると、僕たちは、キャラクターありきで話をする身体に染まりきっている。もう、僕たちはキャラクターに生殺与奪を握られているのだ。

来年以降、社会に出ていくと、全く新しい世界に飛び込むことになる。中高一貫校から内部進学で大学に進んだ僕からすれば、保険が利かない新しい世界に飛び込むのは中学入学以来になる(サークルには複数所属していたが、結局、先述のサークルという自分の母艦がある時点で、未知のサークルに飛び込むことついては保険はあると言える)。
ただ、『面白い』と思えることをおいそれと捨てられるほど僕は大人ではない。僕は、面倒なことに、素のままありのままの自分をさらけ出しながら『面白い』と思えることを探し始めないといけないのかもしれない。

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