『Ange-loss』番外①天際

「ウレエル」
 限りないと思っていたこの世界の際(きわ)に立って、目には見えない下界を眺めていた私の背後から、聞き馴染んだ声が叫んだ。背に翼がないぶん、後ろからの音が拾いやすくなった気がするなあと感じる。たぶんこの感覚も今のうちだけで、すぐに慣れてしまうのだろう。
 振り向くと、私より濃い空色の瞳をいっぱいに見開いたカツエルが息を切らしていた。息を吸い込むのがついでになっている程度には言葉を発しようとしているのはわかるが、感情が迷子になってしまっているらしく、ついぞなにも出てこないまま俯いてしまう。とても聡明で、いつも私のとりとめのない心配事の相談に乗ってくれていた彼がそんなふうになるのを初めて見た。
「あなたの、追放の話……嘘ですよね?」
 彼がようやく出した答えは、現実を否定することだったようだ。どちらかといえば現実主義でまじめなカツエルの口から出たものとは思えなくて、ちょっと笑いそうになる。たまにはそれくらい芯のぶれたところを見せてくれたほうが、見た目と相応で安心するのだが、職業柄そういうわけにはいかないのだろう。悪魔との戦闘が主な任務である彼ら能天使は、天使の中でも特に強靭な意志が必要だ。心に少しでも迷いがあれば、すぐに惹かれて、堕ちてしまうから。
「いや、ほんとうだよ。見て、もう光輪も翼も没収されてしまった。君が呼んだ名前とももうお別れだ」
 真実を知りながらもそれを認めたくないカツエルの、わがままにも似た問いに返すのには勇気がいった。雑に茶化して見せたけれど、それでも子どもの姿でそんなに悲しそうに歪んだ表情をされると、さすがに罪悪感が募る。
 私はこの処遇に納得いっていないし、あの方のおっしゃった「じきにひどく後悔することになろう」というお言葉にも半信半疑だ。だからまったく罪の意識というものが自覚できないでいるが、カツエルにこんな顔をさせるようなことをしでかしてしまったのだなということだけはたしかに理解できた。
 頭の中であの方のお声がして、刻限を告げられる。いよいよここを出ていくときがやってきた。ろくにカツエルの顔も直視できないまま、じゃあねとひとりごとみたいに言って背を向けた。わざと階段を踏み外すように「外」へ踏み出す。体重に引っ張られて、体が傾く。いつもならなにも意識せずとも勝手に広がってバランスを取ってくれる翼はもうない。そのまま、堕ちてゆく。
「ッずっと、見守ってますから!」
 カツエルが、際に飛びついて縋って叫んでいる。腕組みの形で縛られた腕が、拘束から抜け出そうとするように装束越しにもがいているのが見えた。
 賢いのに、バカな子だなあ。見送りは禁止だってお触れが出ていたのに、場所だってわからなかったろうに、必死に探してここまで飛んできたんだろう。
「例えあなたに僕が見えなくても、いつもそばにいますから!」
 そんなことを言って、ほんとうかなあ。私は罰によって、堕ちてからもなにか手違いが起きない限りは不老不死のままらしい。その点は天使と同じわけだけど、これからいったいどれだけの時間を過ごすことになるかわからない。一方彼は、常に命の危険と隣り合わせの能天使だ。不老不死といえど、戦いで命を落とすことは十分にありうる。おかしな話だが、人間になった私と天使のカツエルでは、彼のほうが先に死んでしまう可能性だってあるのだった。
 だから「ずっと」とか「いつも」とか、守りきれるかわからない約束なんてしなかったらいいのに。それでも私の視界は滲んでいく。普段見られないカツエルの様子を見て浮かんでいた慣れない笑顔も、全部台無しだ。最後まで情けないなあ。
 重力に逆らって宙を流れていく涙は、向こうの空が透けて青色に見えた。いや、ほんとうに青色をしているのかもしれない。なんだか目にすごく違和感があるからだ。自分の瞳の色、けっこう気に入っていたんだけど、これも没収か。残念だ。
 寂しくなってしまってまぶたを閉じる。こんなことをしても無駄だろうが、自分だけの空の色を少しでも長い間、引き留めておきたかった。

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