『Ange-loss』番外②天淵
浴衣の柄に合わせて淡いラベンダーのカラコンを入れて、いつものメイクにプラスでバイオレットのマスカラやアイライナーをアクセントに使う。普段使いには派手だけど、今日くらいはいいよね。どうせ、あいつは褒めてくれないんだろうけど……と落とした肩をすくめるようにしてむりやり持ち上げた。なんてね。そんなのいつものことだし、気にしない。仕上げにニコッと笑ってみせた鏡の中のわたしがやっぱりちょっと寂しそうだったのを見ないふりして、洗面所を後にする。
部屋に戻ると、出発時刻にセットしておいたスマホのアラームが鳴っていた。アラームを止めたついでにLINEを開く。今朝わたしが送った集合場所と集合時間のメッセージにはいつの間にか既読がついていて、ほっとする。いやいや、スタンプでいいからなにか返しなよ。不安になるじゃん、と思わないでもないけど、あいつのそういうところにもとっくに慣れてしまった。悲しいことに。少しでもこれから楽しい時間を過ごすために、ほんとは言いたいお小言も我慢。わたしってば偉い、優しい、かわいい、とあいつの分まで自分をうんと褒めて、家を出る。靴箱に置かれた写真立ての中では、ちょうど五年前のわたしたちが泥臭く笑っていた。
「翔! お待たせ」
「あ、耀」
声をかけると、それまで所在なげにキョロキョロしていた翔がこっちを向いた。こいつはあんまりこういう場所が得意じゃないから、知らない人ばかりの人混みを前に怯んだような表情を浮かべていた顔が、わたしを見つけた瞬間一気に柔らかくなったのが不覚にもかわいいと思ってしまった。なんでわたしのほうがそんんなことを思わなくちゃいけないのか腹立つけど。
今日は、地元の夏祭り。小中学生の頃は毎年行っていたけど、ここ数年は忙しかったり、病気の流行で中止されていたりで行けていなかったのだ。だから実質、翔と……付き合ってからは初めて一緒に行くことになる。
翔は、わたしがおそろいにしたいと言って買った、濃い藤色の浴衣をちゃんと着てきてくれていたのですぐにわかった。はたちになっても相変わらず薄っぺらくて細い体格をしているから、浴衣がとても似合っていた。
予想どおり「かわいいね」の「か」の字もなければ彼女の浴衣姿に顔を赤らめるそぶりもなく、じゃあ行こっか、と歩き出そうとするので、仕方なく左手を差し出して「ん!」と催促。翔はしばらくきょとんとわたしの手と顔を交互に見ていたけど、ようやくハッとして手を取ってくれた。それにしても、翔の辞書には恋人つなぎって載ってないんだろうか。まったく幼稚園児の遠足のペアじゃないんだから。まあ、察してくれただけ及第点としよう。
屋台が並ぶ商店街を歩きながら、気になった食べ物を買い食いしたり遊びを楽しんだりして、それなりに夏祭りを楽しんだ。わたしたちが小さいときはカキ氷といったらいちご、レモン、メロン、たまにブルーハワイがあるとラッキーという具合だったのに、最近はいろんな味があるんだねって話をした。僕らも歳とったねえと翔がしみじみ言うので、おじさん臭いよと笑った。
露店の折り返し地点になる神社のあたりまで来たところで、ふと疑問が浮かんだ。
「あれ? そういえば翔、浴衣の着付け自分でできたんだっけ」
「あー……ええと」
尋ねると、明らかにうろたえた声がしたので左隣を見上げる。翔は言葉を考える時間を作るように、さっき買ったわたあめをもふっと一口食べてから、わたしから目を逸らして言う。
「知り合いのひとに教えてもらった。同じマンションの」
「そう、なんだ」
出た。同じマンションの、知り合いのひと。こうやって、本人に関わる話題じゃなければ翔は自分から口にしないけど、たまに存在がちらつくひと。たぶん、何回か聞いたのと同一人物なんだろう。
じりっと胸の底がちりついて、意図せず足が止まる。詮索とかしたくない。でも、人見知りなこいつがけっこう仲良くしているらしい、わたしの知らない誰かが気になるのは事実。翔を縛りたいわけじゃない。だけど、わたしの目を見て言えないことなんだ、とか思っちゃう自分がきらい。
「……今日のお祭りも、翔はそのひとと行きたかったんじゃないの?」
ああ、やっちゃった。なんでこんなにいやな子なんだろう。そんなこと聞いたらこいつが困る。その答え次第で自分が傷つくかもしれないのに、わたしっていつもこうだ。わかってる。翔がわたしのことを彼女として見れてないって。理想の彼氏像を勝手に押しつけて、諦めたり怒ったり、自分勝手にも程があるよね。そう理解はしているのに、ついこうやって悪魔みたいなわたしが顔を出す。
自分で言ったくせに泣きそうになる。そうだよって言われるのが怖い。いい加減、面倒くさいわたしに痺れを切らして怒るかもしれない。心の中がぐちゃぐちゃして、翔のわたあめを大きくむしり取って口いっぱい頬張った。わたしの口が、もう余計なこと言わないように。
「いや、それはないよ」
でも、予想と違って、驚いたような声音がわたしの言葉を否定した。反射みたいな即答だった。こんなにあっさり嘘がつけるほど器用なやつじゃないって知ってる。だからたぶん、ほんとのことだ。
「ち、違うの……?」
「うん。あのひとお祭りとか行きたがらないタイプだし、まず僕から誘う勇気なんてないし」
誘うのに勇気がいるってどういうことだろ、と考える暇もなく、翔は続けた。
「それに、ここには耀と一緒に来たかったから」
「え」
まさかそんなことを言われるとは思ってなくて、どっ、と心臓の音が聞こえた。夏の蒸し暑さとは関係なく、顔が熱い。さっき逸らされた視線がこっちを向いている。翔のもともと茶色っぽい瞳に祭り提灯の光が映り込んで、明るい金色に見えた。無理のない涼しい微笑みが、一瞬翔じゃないみたいだと思った。
「最後に来たのって中三だったっけ? 部活帰りにみんなで行くのが決まりになってたからさ、耀と一緒じゃないとなんか落ち着かなくて」
たしかに当時から翔とわたしはとびきり仲が良くて、みんなから冷やかされることもあったけど、まだわたしたちは友達だった。でも、今はあの頃の部活仲間はここにいない。ふたりきりで来たことなんてなかった。それでも、翔の中でこのお祭りとわたしが結びついてたってことが、この上なく嬉しい。
「あのときは毎年ジャージで来てたけど、耀、ずいぶん変わったよね。浴衣、よく似合ってる」
そりゃそうだよ。翔のために変わりたくて、変わったんだから。
翔はやっぱり、わたしのほしい言葉をくれなかった。らしくない発言の割に、照れも気まずそうな様子もないから、なんの他意もないただの感想。わたしは未だに、こいつの彼女になれていない。きっと出会ったときからこれから先も、翔の中でわたしはずっと、「仲良しな女友達」のままなんだろうな。
「ありがと。あんたは……変わんないね」
「え、そうかな」
「そうだよ」
ああでもひとつだけあったかも。こいつが変わったこと。翔さ、最近「俺」って言わなくなったよね。ちょうど、あのひとが話に出てくるようになったあたりから。
無駄に察しのいい思考に蓋をして、ぎゅっと翔の手を引いて走り出す。
「ね、鳥居のとこで写真撮ろ!」
「いいよ。たしか前もあそこで撮ったね、懐かしい」
「前のと並べて飾りたいの。ほら早く!」
ごめんね、翔。変わっちゃうわたしを許してね。せめて写真の中だけでも、五年前と同じ笑顔でいるから。
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