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盛夏

この物語はフィクションです。実在の人物その他もろもろには一切関係ございません。

夏盛。空が青いから人を殺した人間がいたように、暑いから人を刺すような人間がいてもいい。
つけっぱなしのテレビが、昼のニュースを伝えていた。気温、エンタメ、政治。そして話題の事件。若いニュースキャスターが、まるで世界の終わりのような声で言う。
『先日からお伝えしております通り魔事件ですが……』
「……だってよ、キューさんも気をつけた方がいいぞ」
「え?あぁ……まぁ最近は恨みも買ってないし……平気だろ」
キュービック・ジルコニアは立ち上がる。クーラーの効いた涼しい部屋から一歩廊下に出ると途端に暑く、シャツの袖口を捲る。
「出んのか?」
「……あぁ」
「じゃ、くれぐれも気を付けて」
別に予定があるわけではなかった。特に火急の仕事もない昼下がりが退屈で、だから出かけただけだ。
孤児院の横を通り、歩き慣れた坂道を下る。ジリジリと肌を焼く真夏の日差しの下でも東区の大通りはいつも通り賑わっていて、人の往来が途切れることはない。時々すれ違う知り合いに片手を上げて挨拶をし、いつものドーナツ屋に辿り着く。小さく目立たない店構えのせいか、今日も今ひとつ混んでいる様子はない。
「いらっしゃいませー!あ、こんにちは!」
薄いグリーンのエプロンを着た愛想のいい店員とも知り合いだった。シフトの時間とキュービックが店に行く時間はたいてい被っていて、いつもの、で通じるようになっていた。
「いつもありがとうございます、いつものでいいですか?」
「あー、いや……これ新作?」
「そうです、今月の……上にかかってる白いのは蜂蜜のグレーズで……ドーナツ部分にはレモンピール混ぜてあるんですけど、あー、そんなに甘くないですよ?味見しますか?」
「俺そんなに甘党だと思われてたのか……?味見はもらおうかな、いいなら」
「お得意様ですからねー、味見くらいならオーナーも許してくれますよ!……残りは私のオヤツになるので、言わないでくださいね」
屈託のない笑顔で店員は言い、一口大に切られたドーナツを差し出す。
「ありがとう……あ、美味いな、これもらう」
しっとりした生地に少し苦味のあるレモンピールと甘い蜂蜜が合う。いい感じに馴染んで、丸くまとまっていた。
「後はいつものやつも頼む。あとカフェラテを……アイスで」
「はーい!かしこまりましたー」
「ここ美味いのになんで目立たないんだ?」
「うーん……店構えのせいですかね?派手に看板とか出してる訳でもないですし……」
「もっとこう……流行りのカワイイ店にすればいいのに」
「えー……忙しくなるのはな……それに、いつも来てくれるお客さんいますからいいんだと思いますよ、オーナー的には」
ポニーテールにまとめられた赤毛がぴょんぴょんと揺れて、いつものドーナツを手際よく袋に詰めていく。どうせ近くの噴水広場で食べるのを知っているからか、いつも多めに紙ナプキンを入れてくれるあたり、覚えられているのだなぁとキュービックは思う。素っ気ない茶色の紙袋を受け取り、金を払う。
「ありがとうございましたー!」
ぺこりと頭を下げて見送ってくれる店員にも挨拶を返し、キュービックは店を出る。カランカラン、と心地よい音を鳴らすドアベルの音を背に、とりあえず大抵ドーナツを買った後に座るベンチ方面に向かった。
「……あっついな」
日陰のベンチに座り、紙袋からドーナツを取り出す。ふわふわと軽い食感にシナモンシュガーがかかったいつもの味。カフェラテで喉を潤して、件の新作を手に取る。実はあと一つ残っているがこれは持ち帰ってからのオヤツにしよう、とキュービックは考えていた。どうせ夕方になれば処理しなきゃいけない案件が降って湧くし、大抵悪いことをするような奴らは夜に動き出すのだ。
「ん、うま……これいいな」
2つ目のドーナツを平らげ、ベンチを立つ。キュービックはすぐそこの通りで恒例のマーケットが開かれていた事を思い出し、そちらに足を向ける。特に欲しいものがあるわけでもないが、雑多なものが売られているマーケットは見ているだけでも楽しい。誰が着るのかもわからないような古着やら、ボロいぬいぐるみ達。いかにも価値がありそうな花瓶や家具。いつ作られたのかも定かではない食器の類まで、なんでも揃いそうな気配すらあった。

喧噪。値切る声、呼び込み。マーケット会場には音と人が溢れ返っている。昼下がりの休憩時間に足を運んでいる人間も多いのだろう。人混みの中を縫うようにしてブラブラと歩いていると、女性の甲高い叫び声が聞こえた。それから男の怒声。
「そこの人!!危ない!!!避けてッ!!!!」
まさか、その声が自分にあてられたものだとは思わなかった。言ってしまえばキュービックは完全に油断していて、無防備だった。ドン、と背中に衝撃が走る。金属がもたらした一瞬の冷たさ、その後すぐに襲ってくる痛みと熱。昼のニュースを伝えたキャスターの声がリフレインした。『連続通り魔事件ですが……』これが、それか、?
「……は?」
キュービックがじわじわと自分のベストに真っ赤な血が滲むのを知覚するのと、視界が地面が近付くのは同時だった。大量出血による手足の冷えと相反するように、真夏のアスファルトは熱い。まるで鉄板のように。
「っグ……いっ……て……ッ!なん、なんだよ……っ」
飲み切っていなかったカフェラテが地面に落ちて無残に零れる。買ったばかりのドーナツも紙袋ごとどこか遠くに転がって行った。誰かが踏みつけて、食べられるような物ではなくなっただろう。段々狭まって薄れていく意識の中で、犯人らしき男が走り去るのを見る。中肉中背の、なんの特徴もない男だ。音が遠い。手足と頭が冷えて、真夏だというのに嫌な冷汗が吹き出る。遠くの方で聞こえる「救急車!」「病院に……!」そんな声を最後に、キュービックの意識はそこでぶつん、と途切れた。

…………

「……いってぇ……」
意識が浮上したとき、太陽の下ではなく切れかけの蛍光灯の下にいた。さらさらしたシーツの手触りとツンと鼻につく消毒液の臭い。クーラーの効いた一室。うつ伏せから無理矢理上体を起こすと、一応着せてくれたのであろうシャツの下、刺された背中には包帯が巻かれていた。動かしづらいと思ったら手にも同じように包帯が巻かれている。
「あ、起きたぁ?おはよー。気分はどうかな?キュービックさん」
島を預かるマフィアのボスにかけるにはあまりにも気の抜けた声がする。白いベッドの傍らにあるパイプ椅子には、この島にいるマフィアの為の医者、ユーリ・アルヴェーンが座っていた。
「タバコ吸っていい?だめ?」
「……患者の前だぞ……」
一応苦言を呈すと、ユーリはケラケラと楽しげに笑う。取り出しかけたタバコを再びポケットにしまい、今度はカルテを持つ。
「えっとねー、刺したのは多分ただの包丁。刃渡りは17センチぐらいかな……内蔵は運良く傷ついてません!よかったねー」
「いいわけあるか」
キュービックのもっともな言葉を無視して、ユーリは続ける。
「後は火傷だね。夏場のアスファルトの温度って知ってる?」
「知らねーよ……」
「65度以上になるって言われてるんだよー。火傷しちゃうのも当たり前だよね!えっと……しばらくは痛いと思うけど我慢すること、痕は多少残るかもしれないけど気にするような事じゃないよね?マフィアなんだしさ」
「まぁ……それもそうか。傷ぐらい」
はァ、と溜息を吐く。一応まだ麻酔が効いているのか、痛みは思ったよりも我慢出来る範囲だった。
「ルイくんに連絡しといた。暫くしたら迎えに来ると思うよ」
「入院させてはくれないのかよ」
「うちのベッドは高いよ」
「あっそ……なら遠慮しとくか。にしても誰に刺されたんだ……最近は恨みも買ってない筈なんだがなぁ」
ボソリとキュービックが呟いた言葉に反応して、ユーリは些か真面目な声色で答える。
「さぁ?人を刺すのに理由なんていらないよ、恨みなんてなくても、人は人を刺せるんだから」
空が青ければ人を殺せる。ならこんなに暑ければ人を刺す人間が現れても仕方がない。
「……ホントに医者かよお前は……」
「はー?お医者さんですけど!うちの家系は一族郎党みーんなそうなの!」
「はいはい、優秀優秀……」
ゴンゴン、と重い音がした。
「出なくていいのか?」
「ルイくんでしょ。キルトもいるし大丈夫。アンタの容態が急変する方がヤバい」
遠くの方からコツコツと革靴がフローリングを叩く音がする。ルイ・ロレスカは部屋に入ってくるなり言った。
「おいおいキューさん、刺されたってマジだったんだな。だから気を付けろって言ったのに」
「ゲッ……」
「げってなんだよ、態々仕事の合間ぬって迎えに来てやったんだぜ?感謝しろよなぁ」
「感謝はしてるよ……今何時だ?」
問いにはユーリが答えた。
「22時回ったところだよ、15時過ぎぐらいに運ばれてきたから……7時間弱かな」
「随分寝てたんだな、労わってやろうか」
「労るぐらいはしてくれ。ったァ……」
「軽口叩けんなら歩けるよな?帰んぞ」

「ご歓談中失礼します……ルイさん」
ルイをこの部屋に案内したきり立ち去っていたキルトが静かに戻ってくる。手には処方箋と薬が入ったビニール袋を下げていた。ビニール袋ごとルイに手渡し、中身の説明を始める。
「これ、痛み止めその他諸々です。ガーゼとか包帯とかはあると思いますけど一応入ってます。無くなっちゃったらウチに来てください」
「ありがとな。代金はどうすりゃいい?」
「……それはユーリさんに聞いてください」
俺はこれ渡しに来ただけなのでこれで。キルトはそう付け足し、足早に部屋を出ていく。
「お気持ち程度貰えればそれで!別に金には困ってないしねー。慈善事業でもないけど」
「あー……じゃあ後で振り込んどくから。キューさんの口座からな」
「俺の?えぇ……経費で落ちねぇ?」
「自業自得の怪我には落とさねぇよ。ほら……行くぞ。肩ぐらいは貸してやるから」
「もう出んの?お大事に。なんかあったらいつでも来ていいからさ」
「あー……迷惑かけたな。ユーリ」
ベッドから降りて歩こうとすると、焼けるような痛みが背中から襲った。それでもなんとか病院から出て、ルイが乗ってきた車に乗り込む。後部座席を占領しても今日ばかりは何も言われなかった。
「あの病院……なんで裏口側が車道なんだろうな……」
「水路が通ってるからだろ」
車に乗り込むとすぐにエンジンがかかる。いつもは気にならない程度の振動だが、やはり背中に響いた。
「……そういえば、犯人は」
キュービックは聞く。一応自分を刺した奴がどうなったのかは気になるし、捕まっていないようなら対処しなければいけない。
「とっくに捕まった。アンタの他に2人刺して逃げてたんだけどな」
夜になれば、東区はすっかり大人しくなる。元々居住区としての側面が強く、夜は帰って寝る、という人間も多いからだ。それでもまだ営業中のパブもあるし、明かりがついている飲食店ももちろんあった。昼間のあのドーナツ屋はもう閉店しているだろう。とキュービックは思った。
「……そうか……なんで俺だったんだか……まだ普通に痛ぇし」
「普段の行いが悪すぎんだろ、天罰だよ天罰。イエスサマが全部見てるんだ。ママに習わなかったか?」
片手でハンドルを握り、前を向いたままルイは笑って答えた。ルームミラー越しに目が合う。
「俺はまずキリスト教徒じゃねぇし……お前に言われたかないな」
「ハハッ、それもそうだな」
窓の外を流れていく景色を眺めていると、ジルコニアファミリーの事務所に到着する。23時を周り、流石に周辺も静かだ。昼間の茹だるような暑さも消え、夜になれば涼しいと感じられる程度まで気温が下がっていた。なんだかんだとモンクを言っても律儀にキュービックの自室までルイは着いてきていた。穴が開いたシャツと汚れたベストはゴミ箱に叩き込み、そういえば他の奴らを見ていない事に気が付く。
「シグルスは?」
「パトロール中」
「……ウルズは」
「アイツは走りにでも行ってんだろ」
「呉羽は……」
「夜更かしは肌に悪い〜とか言って部屋戻ってた」
「なるほどな……」
「置いとくぞ。痛み止めはこれな」
ルイはベッドサイドのテーブルに痛み止めとペットボトルの水を置く。錠剤のシートをまとめている輪ゴムに、メモが挟まれていた。ルイはそれを開き、すぐに笑う。
「“ユーリ印の痛み止め”“冗談じゃないくらい効く!”だってよ!よかったなぁキューさん、よく効くってお墨付きだぜこれ」
「それホントかよ、なんかヤバいもんじゃないだろうな」
「さぁな……ユーリさんが身体に悪いもん寄越すことはないと思うけど。今日はもう寝ろよ、おやすみ」
「あぁ……また、明日」
ルイはさっさと出て行ってしまい、キュービックは一人になる。今日の反省も何もかももう明日に回してしまおう、と着替えてベッドに潜り込み、明かりを落とす。それだけの動作も、今は面倒だしいつもよりずっと身体が重たかった。俯せになると、昼間の出来事が反芻される。熱されたアスファルトの温度、身体を通り抜けた金属の冷たさと痛み。落としたドーナツの味と行方。
「はァ……明日何て言われっかな……」
ジグジグと背中の傷が痛むに任せて、キュービックの瞼もまた、緩やかに落ちていった。

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