往復書簡・こんにちは見學くん①飲める食べもの(久喜ようた×見學慶佑)『暇』2023年9月号
久喜ようた(35歳。中野区在住の画家)×見學慶佑(25歳。就職3年目の夏を迎えた箱根のホテルマン)
見學さんへ
初めまして、久喜ようたです。見學さんにはビデオレターを送ったぶりですね。
キテレツ坊主が伸びてきて真夏に毛皮の帽子を被って闊歩するもなおさら暇です。
8月15日に『豚の慟哭』がTRASHBOOKSから刊行に至るぐらい暇です。
『豚の慟哭』では食と文明について書かれていますが、見學さんは食事はお好きですか? うちは少し苦手です。
うちはジョッキで飲める食べものが好きです、ジョッキで飲めるとはうちの「美味しい物に使う例え」であり、本当にジョッキで飲めたら最高なのになぁと思っております。
ジョッキで飲める美味しい食べものとはマッシュポテト、なま肉、ばくらい、焼く前のホットケーキミックスなどです。
基本的に食事が苦手なせいか飲める食べものが好きなんですね、居酒屋の小鉢は大体飲みものとして認識しております、カニ味噌とか飲みたいですね。
幼少の頃に遡りますが、よく冷凍庫から凍った豚肉やエビフライ用のエビとかを母親の目を盗んで食べていました。
食べ物の概念がまだ形成されてない頃のうちは、見た目で美味しそうなものを口に運んでいたのだと思います、動物的な感覚で火の通ってない半解凍された水の滴る生の食材を新鮮で「美味しいもの」と認識していたのでしょう。
この間、昌栄プラザで「ぶり大根」と「ベーコンエッグ」を簡単ながら振る舞いました。
料理自体するのは大変好きですし、誰かが食べたいと言ったものは大抵作れます、そして作るのも苦ではないです。
自分にとって料理は「禅」だと認識しております。爆音で音楽を聴きながら自分と対話し決めた工程を進んでいく。
頭の中の雑音を整理するには料理という「禅」が一番効きます。炒めるより、切る工程の方が精神が研ぎ澄まされます。
さぞかし久喜さんは家でも料理をするのかと思えば全くしません、台所には友人が心配して寄付してくれたが賞味期限切れの調味料がズラッと並んでいます、賞味期限の切れたお菓子や食料を備蓄庫や床から拾っては食べる日々です。
備蓄庫には様々なお菓子が中くらいの段ボール2個分積まれております、食べないくせに見える所に食料がないととても心配になります。
備蓄庫が充実している事が満腹なのかもしれませんね。
今書いてるお手紙の前に賞味期限が6月30日に切れたカップの鴨そばを頂きました、とても美味しかったです。
「料理」は知識欲と禅。「食事」は承認欲求と栄養補給、文明の外で冷凍庫を開けている子どもはいまだに「ジョッキで飲みたい食べもの」とか何とか言っております。
この季節、冷やし中華始めましたを横目で見ながら食事の役割を探しております。
久喜(2023年7月29日)
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久喜さんへ
初めまして、見學慶佑です。このあいだは、素敵なビデオレターありがとうございました。何事かと思いましたが、予期せぬお誘いに感謝いたします。また、『豚の慟哭』の出版おめでとうございます。
箱根も今や暇を極めています。夏にかこつけて増える観光客を横目に自治体は電球の切れた提灯をここらそこらに引っ掛けているくらい暇です。
一方僕も暇です。駐車場に見えた雑草を引き抜いては力一杯に投げて、ふわりと着地する様に「つかった力と飛距離が割に合わない」と腹を立ててるくらい暇です。
食事の話を振られたのに、「苦手」と言う久喜さんに僕はちょっぴり戸惑ってしまいました。きっと苦手意識があるからこそ、ジョッキで飲める食べ物への信頼が厚いのでしょう。そう言われてみると僕は食事に得意不得意という意識がなかったかもしれません。
僕は人並みくらいは料理をしますし、お酒も好きなのでお酒に合うようなおかずを作ることに精を出すことも多々あります。大学生の頃住んでいた学生寮には共有のキッチンがありましたが、ほぼ僕だけしか使っていませんでした。この学生寮を世の中だとするなら、料理をする男子とはこんなもんなんだろうと思っていました。そして、暇があれば唐揚げを揚げて、レモンを絞って食らっては「うん、レモンよりも先ずマヨネーズだな」と、唐揚げのバディヒエラルキーを作っていました。
僕も子どもの頃の話に遡りますが、どうやら食へのこだわりは強い子どもだったと家族は言います。ラーメンと間違えてつけ麺を買ってきた母に「最初から汁に浸かってない麺は食べない」と言ったり、いつもは1.7ミリのパスタを使っているのに0.8ミリ程のそうめんみたいなパスタを買ってきた母に「そんなシャー芯みたいなパスタはパスタではないから食べない」と言ったりして、母を困らせました。
なんてクソガキなのだろうとも思いますが、今でもこの感覚は変わっていません。なんなら「なぜ母は間違ったものばかりを買ってくるのだろう」と疑問が走り続けています。そう考えると、母はそこまで食にこだわりや興味がなかったのかもしれません。でも僕は「これはこう食べた方がおいしい」という確固たる芯みたいなものが形成されていたのでしょう。
小さい頃はよく母の料理しているところに遊びに行っては、出来立てのおかずを爪楊枝に刺してもらっていました。だから僕は「ちっちゃく切って爪楊枝に刺して食べるとうまい」ことや「料理中のつまみ食いは完成してから食べるよりも美味い」ことをなんとなくの肌感で感じていたのです。こだわりが強いのですね。
こだわりが強いということも合わせて、きっと僕は食べることが好きです。得意か不得意かは置いておいてとにかく大好きです。
話は変わって料理が禅だと言う表現はとても面白い表現です。
料理って心を無にしてくれます。それしか考えなくなると言いますか、精神統一です。
詳しくは忘れましたが、学生の時にストレス関連の調査をした論文を読んだ時に、料理をする人としない人だと料理をする人の方がストレス量が少なかったという結果を見た気がします。考えていたこと、困っていたことを料理している間は忘れている。そんな効力があるようです。
今、僕は「食べる」ことを考えてみて新しい感覚を得ています。
食べることに関わると脳みそが激しく動き出します。思い出やこだわり、知識や創造性が同時に踊り出す。「食べる」をただ食べ物を胃に運ぶこととするならばそれ以上の意味合いがありそうです。
料理も含めて食べることに関わるのは「食をする」みたいな表現で表せそうですよね。
今日も僕は食をします。
見學(2023年8月5日)