遠野遥『教育』にみる学校というディストピア
遠野遥『教育』は、「1日3回のオーガズムに達することで成績が上がる」とされている学園において、自身の煩悶を無意識に抑え込む青年の姿を描いた作品である。舞台となる学園は寮制であり、成績の優秀さに応じて部屋のランクや学校からの待遇が変化する。そのうえ、その成績を決定するのは一般的な国語や数学の試験ではない。裏返して置かれている4枚のカードの中から、表が特定の動物の写真であるものを選ぶ、という試験である。その学期ごとの正答率に応じて成績が決まる。
物語は主人公の女友達、真夏に恋人ができるところから始まる。主人公は先述の「1日3回のオーガズム」のため真夏と協力関係を結び、頻繁にセックスをしていた。心の底では真夏に好意を抱いていた主人公はしかし、学園の極端な監視体制に染まり、極端な合理主義者となっているため、嫉妬心であると意識しないままに嫉妬心を抱く。真夏の動向は主人公の心に揺らぎをもたらし、主人公は無意識な煩悶を抱えながら成績の向上と上位クラスへの進級を目指していく。
この作品にみられるディストピア思想として、まずその舞台設定がある。管理体制が敷かれ、極端な上下関係が成り立っている学園において、最も強大な力をもつのは教師である。その下に最上級クラスの生徒、その下のクラスの生徒、と続いていく。学園では下級生は上級生および教師に絶対服従を強いられ、廊下ですれ違うときですら、頭を下げて挨拶をしなければならない。上級生に従わなければ殴られ、教師に従わなかったり、成績が落ちたりという要因から非行生徒であるとみなされれば「補習」が待っている。主人公は「補習」を受けないため、「補習」は作品を通して、「実態はわからないが恐ろしいもの」として扱われる。ひょんなことから主人公と知り合った女子・未来はレズビアンであり、別れた恋人に焦がれ続けて「1日3回のオーガズム」をこなさず、成績も落ちていたが、それを恋人への愛であると信じており、問題にもしていなかった。しかし彼女の成績の低下が問題視され、「補習」を受けることになってしまう。帰ってきた未来の信条は捻じ曲げられており、恋人を思い続けていた彼女はどこへやら、主人公をセックスに誘うようになる。このことから、「補習」は生徒のジェンダーや恋愛感情すらも変えてしまうほどの、学園の思想に従わせるための「洗脳」であると考えられる。
学園の授業形式も極めて特殊である。教師が教壇に立つことはなく、スピーカーで教科書を読む音声が垂れ流されて行われる。かつその内容がカードめくりの試験に関わるわけではないのだから、この学園内では教師が教師の役割を果たしていないといえる。にも関わらず教師は学園において絶対の権力を持ち、理不尽に生徒たちを服従させている。肩書と暴力があれば実体はなくとも人を支配できるということのメタファーであると考えられる。その最たる例として、体育の授業をするための外部講師であり、屈強な体を持つ通称「スポーツ・マン」が、"生徒に告白をしてはならない"というルールを破ったとして教師に罰せられる場面がある。スポーツ・マンは教師から暴力を受け、沈黙によって抵抗するものの、暴力で抵抗することはない。スポーツ・マンの方が圧倒的に肉体的な強さを持っているのに、である。「教師は自分よりも権力が上である」という権力図の刷り込みが、本来の力すらも抑えている象徴的な描写であるといえる。
次に、主人公が真夏へ寄せる感情にみられるディストピア的要素を考えていく。主人公は真夏に恋人がいるために以前のように真夏と会話をすることやセックスができなくなったことを不満に思い寂しさを感じるのだが、その根底にある自分の本音、すなわち真夏に恋愛感情を抱いているのかどうかについて答えを出すことはない。例えば、真夏が頻繁に利用しているジムのランニングマシンに彼女がいなかった際には、「真夏がいてくれたらよかったのに」と思うが、そのすぐ後に「しかし考えてみれば、真夏に伝えたいことや聞きたいことがあるわけではない」と思い直す。誰かに会いたい、話したいと思うときには何か理由があるはずであり、理由がないのならそのような感情は持つ必要がない、というきわめて合理的な考えのもと動いているのだ。これは「一日3回のオーガズムに達することが成績を上げる」といった不条理な価値観を刷り込まれ、成績を上げるという目的を過度に妄信している結果である。
真夏は学園というディストピア社会をどうとらえているのか。『一九八四年』など多くのディストピア小説では、ディストピア社会へ反抗するのは主人公の役割であるが、『教育』では真夏がその役割を担う。真夏の恋人は演劇部の部長・樋口なのだが、樋口は真夏とのセックスのために台本を書き、それを真夏に覚えさせて、一言一句その通りにセックスをするように強いた。どこでどんな声を出し、どんな風に愛撫をするのかを事細かに指示されるために、真夏はそれをこなすことに必死になってしまい、セックスの本来の目的であるオーガズムに達することができなくなってしまう。どんなに理不尽で非合理的なことでも、それを正しいこととされ、自分を支配する者から「やれ」と指示されれば、それに従わざるを得ない。しかし、結果としてその行為の本質からは遠ざかっていく、というこの樋口のセックスにみられる構造は、学園のシステムと非常に似通っている。
樋口のおかしさに気づいた真夏は次第に学園の構造にも反対の立場をとるようになる。「生徒に告白したスポーツ・マンは罰せられて、生徒にセクハラをしているスポーツ・マンは罰せられないのは何故か」「裏返しのカードの絵柄を当てることが将来何の役に立つのか」「学生時代、この学園から出ることはできないが、社会に出てどうしていけばいいのか」と、至極当然の疑問を主人公へ吐露するようになる。主人公は真夏と樋口のセックスの件については真夏に同情するものの、真夏が学園の奇妙さを指摘すると、「真夏はオーガズムに達せていないためにナーバスになっているのだろう」と決めつけ、真夏の意見に耳を貸すこともない。強く刷り込まれた価値観によって、「樋口のセックス」という類似の事例をおかしいと感じても、自分が正しいと信じている「学園のシステム」のおかしさには気づくことができないのだ。
ラストシーン、真夏はこれらの行動や成績の低迷を理由に補習に連れていかれることになる。その際、真夏は酷くおびえながら主人公の名前を呼んで助けを求めるものの、主人公は「駄目じゃないか、補習はちゃんと受けなきゃ。受けないわけにいかないんだから、早く受けたほうがいいと思うな」と突き放す。真夏が補習を受ける妥当性について吟味することはなく、教師がそう言っているから、真夏は補習を受けなければならない、という理由のみで真夏を助けようともしない。学園への服従心が、真夏への好意を上回っていることの象徴的なシーンである。
『教育』で描かれる学園生活は誰が見てもディストピアそのものだが、例えば「意味があるかないかわからないことで価値判断をされる」ことや「刷り込まれた価値観ゆえに正しさの価値判断ができない」ということは、日常生活で一般的に起こっているように思われる。そもそも、国語や数学で成績を判断するのが当然だから、カードの絵柄を当てて成績が決まるのがおかしい、という考え方自体、価値判断の基準を無意識に内面化していることのあらわれであるだろう。『教育』における構造をおかしいと批判しつつ、日常生活にみられる同様の構造を当たり前に受け入れてしまっている時点で、自らもその批判した構造の中に組み込まれているのだ、という作者の世の中へのアンチテーゼが見てとれる。学園に抵抗する真夏ではなく、学園への服従心を最後まで持ち続ける生徒を主人公にすることで、思考停止で構造に組み込まれることがどれほど奇妙で恐ろしいかを示し、日常生活というディストピアからの脱却をめざすのが、『教育』の主題であると考える。
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