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ことばの隙間


《「がんばって」は言わない方がいい?》というテーマで対話会をした。


対話というのは、一つの問いをきっかけに自分の気持ちや考えに気づきながら、そこに居合わせた人と深い話で繋がっていくこと。


はじめにアイスブレイク。
「がんばって」にまつわるエピソードをひとりひとり話す。


マラソンの途中に背中を押された「がんばって」、
子どもの運動会で思わず出た「がんばって」、
初恋の人からの声援に力が湧いた「がんばって」、
言わないようにしていたのについ言ってしまった「がんばって」、
ふと周りに仲間がいることに気づかされた「がんばって」。



私にとっての「がんばって」のエピソードは、「がんばって」と言われなかったこと。

「がんばりすぎないでね!」と書かれた寄せ書き、
受験の朝の「いってらっしゃい」、
「楽しんでね!」とステージに見送ってくれた仲間。

それまで育んだ関係性から、「がんばって」が重荷にならないようにかけてくれた「がんばって」に変わる言葉が嬉しかった。




それぞれのエピソードを共有しながら、「がんばって」を言ったときの気持ちと言われたときの気持ち、私たちが言葉を通して送り合っているものを眺めてみる。



「がんばって」は何をどうがんばるのか抽象的で、相手の背中を押す時もあれば、突き放すように聞こえるときもある。


「もう頑張ってる人に、頑張ってなんて言えない」
「頑張れと言う側の満足でもあるかもしれない」
「闘病してる人に、かける言葉すら見つからなかった」



そんな声も出てくるなかで、大切にしたいと思ったことが2つ。


一つは、言葉に繊細になりすぎないこと。
「がんばって」以外にも、相手を慮って言葉を選ぶことがたくさんある中で、私たちは言葉に繊細になりすぎる時があるんじゃないかと思う。



勝手に「私たち」と書いてしまったけれど、言葉に傷ついた記憶も、言葉で傷つけないようにしなければという意識も、思いのほか共通して感じられた。

私も、言葉の意味を素直に受け取れなかったときを経て、人と関係性を育む中で言葉に温度を感じたり、その言葉の中身を感じられるようになって、受け取り方が変わったように思う。



だから今は、
伝える時は「がんばって」の中身の言葉を発して、受け取る時は「がんばって」の中身を感じるようにしている。




もう一つは、言葉にすることをあきらめないこと。

闘病している人にかける言葉がないとき、なんと言ったらいいだろう?という問いかけの中で、私だったら「また○○しようね」と言いたいなと思った。


自分は無力だと思うとき、唯一できる寄り添いは、過去に共有したものを未来にも願うことじゃないかと思う。
過去の思い出と未来の約束がいま生きる希望になる。



私には何もしてあげられない。でもここで待ってるよ、ずっといるからね。
それが伝わる「またね」に、私自身が一番救われた記憶がある。



「がんばって」に変わる言葉がないように、たぶん言葉はすべてを包括できない。


だから人は歌うし絵を描くしハグをする(あんまり日本にはハグする文化がないよねなんて言葉も気になった)。


「がんばって」を伝えることはせめてものできること。


言葉にはしきれないことと、でもだからこそ言葉を紡ごうとすることとの矛盾をときどき美しいと思う。




対話会を振り返りながら、そんなことを考えた。





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