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【つの版】度量衡比較・貨幣28

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1360年、英仏の戦争は英国有利のうちに休戦協定が結ばれ、アキテーヌ公は英国王を宗主とし、フランス王に属さないと定められます。父を捕縛され若くしてフランス摂政となった王太子シャルル5世は、国政改革を行って荒廃したフランスを建て直し、英国に対抗することになります。

◆REAL◆

◆EYEZ◆

賢明君主

 シャルル5世は「賢明な(ル・サージュ)」と呼ばれ、教養があり文化的で現実主義的な人物でした。彼の母ボンヌは神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の姉であり、フランスと神聖ローマ帝国の仲は比較的良好でした。

 1349年に母ボンヌが黒死病で亡くなると、翌年12歳のシャルルは祖父フィリップが購入したドーフィネ(ドーファン・ド・ヴィエノワ伯領)へ赴きます。ここはローヌ川右岸の都市ヴィエンヌを中心地とし、グルノーブルやヴァランスを含み、北はリヨン、南はアヴィニョンに接していました。北イタリアとアルプス地方、南フランスを結ぶ要衝の地です。

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 もとはブルグント王国の一部で、1032年から神聖ローマ帝国の版図に含まれていましたが、相続人がいないため伯によって競売にかけられ、フランス王フィリップが「王位相続者の所領とする」という条件で購入したのです。その代金は12万フィオリーノ(144億円)で、伯は終身年金として1万リーヴル(12億円)を受け取ったといいます。彼は息子ジャンにこの地を与えるつもりでしたが、1350年にフィリップが崩御しジャンが国王となったため、シャルルが派遣されました。彼はこの地で父の従姉ジャンヌ・ド・ブルボンと結婚し、病弱ながら賢明な領主として統治しました。これ以後、歴代のフランス王太子は「ドーファン」の称号を持つこととなります。

 しかし1356年、父ジャンが英国に敗れて捕虜となり、王太子シャルルは18歳で摂政となります。彼はパリへ戻ると様々な困難な状況を乗り越え、1360年に英国王エドワードと休戦条約を締結しました。そして慢性的な財政難に対処すべく、国王直轄領からの貢納だけでなく、フランス全土からの課税で国庫歳入を賄うことを決定しました。

 英国と違って諸侯が強いフランスでは、言語も文化も法律も地域によって違い、国王は一律に全土へ課税することができませんでした。国王は諸侯の盟主・封建者・宗主として、戦争時にのみ兵を出させたり、兵糧や物資を供出させたりすることが可能でした。シャルルはまず父ジャンの身代金を支払うためと称して、臨時の全国的徴税を開始します。1363年にはこれを「外敵から諸侯の領土を防衛するための費用」として恒久化に成功し、国王の経済力は飛躍的に向上しました。身代金をふっかけた甲斐があります。1364年、ジャンはロンドンで崩御し、シャルルは国王として即位します。

 シャルルは政策顧問としてノルマンディー出身の哲学者ニコル・オレームを重用しました。彼はアリストテレス哲学を学んでフランス語に翻訳し、神学、宇宙論、天文学、数学、政治や経済についても学識の深い人物で、貨幣に関する論文をも著しました。彼は「君主は人々の共同の利益(公益)のために貨幣を扱うべきだ」とし、貨幣を悪鋳せずに純度の高い貨幣を流通させるべしと説いたといいます。詳しくは下の記事を御覧ください。

悪王陰謀

 この頃、アキテーヌの南のナバラ王国はカペー家の分家筋にあたるエヴルー家が治めていましたが、その王カルロス(フランス名シャルル)はノルマンディーなどにも相続によって所領を持っていました。1354年にはノルマンディーの所領を接収しようとしたフランス王ジャンに歯向かい、英国と同盟を結びます。怒ったジャンは彼を幽閉しますが、ジャンの捕縛後にパリの商人頭マルセルらに釈放され、シャルル5世と対立して王位を狙います。結局シャルル派が勝利してマルセルは殺され、カルロスは引き下がったものの、1361年にはブルゴーニュ公位を要求します。シャルルはこれを拒み、カルロスは再び英国と手を結びました。

 1364年5月、カルロスと英国の傭兵たちは、ノルマンディーとブルゴーニュを制圧し、あわよくばフランス王位を奪取せんと進軍を開始します。これに対し、フランス王シャルルはブルターニュ出身の名将ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将として派遣します。兵数ではカルロス側が倍以上であり、英国名物ロングボウ兵も300はおり、例によって丘の上に陣取り、必勝の構えでフランス軍を待ち構えました。しかしゲクランは敵陣を襲撃すると、わざと撤退しておびき寄せ、伏兵によって散々に打ち破ります。やむなくカルロスはブルゴーニュ公位の請求を取り下げ、ノルマンディーの所領を放棄する代わりに、南フランスのモンペリエ等に所領を与えられます。この後もカルロスはフランスに逆らい、「悪人王」とあだ名されました。

 同年9月、ゲクランはブルターニュ継承戦争にフランス側の援軍として駆け付けますが、英国が支援するモンフォール家に敗れます。やむなくシャルルはモンフォール家のジャンをブルターニュ公に封じ、フランス王の宗主権を一応認めさせます。ブルターニュには引き続き英国の軍が駐屯し、フランス側を牽制し続けました。

傭兵横行

 この頃、欧州には傭兵が溢れていました。彼らは国家に所属せぬアウトロー集団で、カネ次第でどちらにもつく危険な連中です。戦争があれば契約主から給与を支払われます(しばしば滞りました)が、休戦になると給与がなくなるため、食い扶持を求めて盗賊となり、略奪によって生計を立て、治安を甚だ悪化させていました。昔のヴァイキングと大して代わりません。

 1355年、フランス王ジャンは3万人の傭兵を1年契約で雇いましたが、その給与総額は540万リーヴルでした。1人あたり年180リーヴルで、1リーヴルを12万円とすれば2160万円、総額6480億円にもなります。随分高額ですが、これは1人平均ですから、実際には上の方ががっぽり取り、下の方にはちょぼちょぼ、というところでしょうか。英国側の傭兵も休戦になって英領アキテーヌから追い出され、フランス領やアヴィニョン近辺にたむろしていました。こうなると、国外の戦場に稼ぎに行ってもらうのが一番です。

 1366年、シャルルはゲクランに命じてこれらの傭兵団をかき集めさせ、イベリア半島のカスティーリャ王国から亡命した王子エンリケを支援して、同国の後継者争いに介入しました。厄介払いついでにアキテーヌの南を脅かす友好国が増えることになり一石二鳥です。フランス王、アラゴン王、教皇庁がエンリケを支援したため、エンリケの異母弟のカスティーリャ王ペドロはナバラを経てガスコーニュへ亡命し、アキテーヌ公であるエドワード黒太子に援助を求めます。

 黒太子はペドロやナバラ王カルロスと同盟してカスティーリャに侵攻します。英仏の代理戦争ですが、戦利品を求めて多数の傭兵団が集まり、諸国の貴族や騎士修道会もやってきて大戦争となります。地の利があるエンリケ側は軽騎兵を用いて有利に戦いを進めたものの、戦下手のエンリケはゲクランの反対を押し切って会戦に応じ、惨敗を喫してしまいました。ゲクランほか多数の騎士・貴族が捕虜となり、エンリケはフランスへ逃げ帰ります。

 しかし、シャルルは莫大な身代金を支払って彼らを釈放させ、エンリケへの支援を続けます。ペドロは英国に戦費を負担し領土を割譲すると約束していましたが、けちって反故にしたため黒太子に見放され、勝利したにも関わらず国際的に孤立していきます。1369年、エンリケはゲクランとともに再度カスティーリャに侵攻してペドロを討ち取り、ついに王位につきました。かくしてフランスはカスティーリャ、アラゴンという大国を味方につけます。

西班貨幣

 この頃イベリア半島には、北のナバラ、東のアラゴン、中央のカスティーリャ=レオン、西のポルトガル、南のグラナダという五王国がありました。歴代のイスラム王朝はディナール金貨を基軸通貨として流通させていましたが、12世紀中頃にはキリスト教諸国でも複製され、1147年にムワッヒド朝に滅ぼされたムラービト朝にちなんでか「マラベディ」と呼ばれました。

 初期には3.8gの金貨でしたが、次第に金の含有量が減少し、13世紀後半には銀貨になり、ビロン(合金)貨を経て銅貨まで落ちます。1258年のマラベディは銀22gに相当しましたが、1271年には11gに半減し、1286年には3g、1303年には1.91gしかありませんでした。銀22gのマラベディは会計単位としてのみ残存し、1マラベディ=6マラベディ貨(銀3.67gを含む6gの貨幣)=15スエルドス(ソリドゥス)=180ディネロ(デナリウス)と計算されています。銀1g=3000円とすれば、1マラベディは6.6万円、1マラベディ貨は1.1万円、1スエルドスは4400円、1ディネロは367円ほどです。その後もマラベディは価値を下げ続けました。

 カスティーリャ王ペドロ1世は貨幣改革を行い、レアル(real)すなわち「王の」と名付けた銀貨を発行しました。その価値は3マラベディ貨に相当するとされ、1カスティーリャ・マルク(銀230g)の66分の1、3.48gとされます。とすると1万円ほどで、この頃のマラベディは銀1.16gほどに縮んでいたようです。レアルはのちポルトガルに伝わり、1380年には120ディニェロに相当する銀貨「リアル」として発行されました。やがてこれらはイベリア諸国の基軸通貨となります。

仏王反撃

 黒太子はカスティーリャ遠征で多額の負債を抱え、アキテーヌに重税を課して賄おうとしますが、諸侯は反発し、フランス王シャルルに黒太子の横暴を訴えます。黒太子の父エドワード3世は「アキテーヌの宗主権は英国にある」として休戦条約違反を指摘、再びフランス王位を要求します。シャルルは黒太子にアキテーヌの没収を宣言し、英仏の直接戦争が再開されます。

 1370年8月、英国の騎兵6000がカレーに上陸し、掠奪を行いながらパリへ迫りました。シャルルは誘いにのらず、英軍は各地へ分散して掠奪を続けました。急ぎ駆け付けたゲクランは王軍司令官に任命され、撤退中の英軍に襲いかかり、これを打ち破ります。1371年には黒太子が病気で英国へ帰還し、弟のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが指揮権を引き継ぎました。

 国政再建、軍備再編、国際的支援を得たフランスは、カスティーリャ王の協力もあって有利に戦を進め、1372年にはアキテーヌの大半を占領します。英国はブルターニュ公と同盟して兵を送りますが、ゲクランに撃破されてブルターニュを制圧される始末でした。ジョンは1374年に英国へ戻り、年老いた父エドワード3世に政治を委ねられ、1375年7月にフランスと2年間の休戦協定を結ぶことになります。

 エドワードは1312年生まれですからすでに60歳を超え、王妃フィリッパを失ってがっくり来ており、妾のアンナを寵愛して贅沢三昧させていました。英国本土は無事でしたが、不利な戦況を打開するため重税が課されるようになり、庶民や貴族の反発を招きます。

 1376年4月、黒太子ら反体制派は英国議会を召集し、国王とランカスター公の悪政を指弾、側近や愛妾アンナを追放することなどを取り決め、国政改革に乗り出します。しかし6月に黒太子が病死するとジョンに全て反故にされます。1377年にエドワード3世が崩御すると、黒太子の子リチャードが即位し、ランカスター公ジョンは摂政として引き続き国政を牛耳りました。

 この頃、アヴィニョンにいた教皇グレゴリウス11世は約70年ぶりにローマへ帰還しています。女神秘家シエナのカタリナによる要請によるものとされますが、フィレンツェや神聖ローマ帝国、ひいては英国の手引きとも考えられます。1378年にグレゴリウスが亡くなると、フランス王シャルルはローマで擁立された教皇ウルバヌスを認めず、アヴィニョンに対立教皇クレメンスを擁立します。ここに東西二人の教皇が立つことになり、英仏の争いは欧州を二分することになるのです。

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【続く】

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