見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣63

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 16世紀前半、スペインはアステカ帝国・インカ帝国を征服し、新大陸に勢力を広げます。この頃、欧州はどうなっていたのでしょうか。

◆傭兵◆

◆戦争◆

皇帝借金

 スペイン国王カルロスことハプスブルク家のカールは、西暦1500年にフランドルで生まれ、6歳で父フィリップを失い、ネーデルラントおよびブルゴーニュ公位等を継承します。母フアナは1508年に幽閉されますが、1516年にフアナの父フェルナンドが没したため、カールは16歳にして母とともにカスティーリャ王に即位し、アラゴン、ナバラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、アメリカを含む広大な領土を継承します。うちカスティーリャとアラゴンを合わせてヒスパニア(エスパーニャ/スペイン)と総称していたため、両国の王位を兼ねたカールは「スペイン国王カルロス」と呼ばれることとなります(ブルゴーニュ等ではシャルル、ナポリ等ではカルロ)。

 1517年にスペインに入ったカルロスは母フアナと再会し、摂政を解任して親政を開始します。1519年1月に父方の祖父で神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世が崩御すると、彼はさらにオーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承し、次の神聖ローマ皇帝を決める選挙に立候補します。当然彼が継承するはずですが、フランス王フランソワは教皇レオ10世に働きかけて皇帝選挙に立候補し、対立候補となりました。

 皇帝マクシミリアンはカールに帝位を継がせるため、選帝侯たちに生前「諸君に50万フローリン(グルデン、ドゥカート≒600億円)を支払うからカールに投票せよ」と約束していましたが、フランソワは「余は5倍の300万フローリン(3600億円)を出そう」と選帝侯たちに告げて買収工作を行いました。カルロスはやむなくドイツの財閥フッガー家から60万グルデン(720億円)を融資してもらい、他に25万グルデン(300億円)を費やして選挙工作を行います。軍事力での脅しもあり、結局フランクフルトでの選帝侯会議では全員がカルロスに投票し、彼はローマ王(ドイツ王)に選出されます。ついでアーヘンにおいて戴冠式を行い、祖父の例にならって教皇からの戴冠を受けることなく「神聖ローマ皇帝カール5世」として即位しました。

画像1

 欧州において並ぶものなき広大な領土を有し、大西洋の彼方にも植民地を持つ神聖ローマ皇帝カールは、しかし莫大な負債を背負ってしまうことになります。合計85万グルデン(1020億円)もの選挙工作資金は当時のスペイン王国の国家予算5年分に相当したといいます(とすると年17万グルデン≒204億円)。カルロスはこれを返済するため、1520年にスペイン王国の身分制議会(コルテス)を招集して増税を宣言し、3年毎に40万ドゥカート(480億円)を上納すること、商品の売上に新たな税を課すことを決定しました。これには多くの都市や貴族が反発します。

 トレドを始めスペイン各地の都市は「コムニダ(コミュニティ、自治共同体)」を宣言し、代表者会議を開催して同盟し、国王に都市特権の承認、官僚による都市行政の廃止を求めました。彼らにとってカルロスはブルゴーニュ公領で生まれ育った「外国人」で、彼が連れてきた家臣団や官僚もスペインの慣習に従わず、反発を買っていたのです。カルロスは彼らの要求を拒否し、内戦が勃発しました。この「コムネーロス(自治都市民)の反乱」は1年近く続いたのち、1521年4月に鎮圧され、以後スペインはカルロスの専制君主制のもとに置かれることとなります。

 しかし広大な帝国を一人で統治するのは不可能で、カールは弟フェルディナントを1521年にオーストリア大公とし、東方のオスマン帝国などを防がせました。彼はカールと異なりスペインで生まれ育ちましたが、カールがスペインへ行く代わりにオーストリアへ行っていたのです。祖父マクシミリアンは彼にボヘミア・ハンガリー王女アンナを娶らせ、カールとフェルディナントの妹マリアをアンナの弟ラヨシュに娶らせています。

対仏戦争

 カールが無理な借金をし、内戦が勃発した原因を辿れば、フランス王フランソワです。彼は人文主義ユマニズムの教育を受け、レオナルド・ダ・ヴィンチらのパトロンとなった英邁なルネサンス君主でしたが、中央集権体制(絶対王政)を強め、カールと事あるごとに対立しました。

 彼は軍事費を捻出するため様々な改革を行い、国王の直轄財産と徴税権を担保とする年金型長期国債を発行し、議会に拠らずしてカネをかき集めることを可能とします。またミラノ公国で発行され、先代のフランス王ルイ12世が発行していたテストーネ(「頭の」、フランス名テストン)銀貨を基軸通貨としましたが、これは重量9.57g(ただし銀純度は89.9%ほど)で、半リーヴル=10スー=120ドゥニエの価値があると定められます。

 つまり、1リーヴル=2テストン=20スー=240ドゥニエです。1テストンに含まれる銀が8.6gとして、1g3000円で換算すれば2.58万円にあたります。目減り分や年々の純度低下も鑑みて2.5万円とすれば、1リーヴル5万円、1スー2500円、1ドゥニエ208円となります。1グルデンは2.4リーヴルです。

 また、この頃ドイツではルターによる宗教改革が勃発します。前に書いたように、メディチ家出身の教皇レオ10世とドイツの財閥フッガー家が手を組んで売り出した贖宥状に対し、宗教的にどうなのかと論争を起こしたところ大炎上したアレです。東からはオスマン帝国が迫る中、教皇は諸侯が一致団結せねばとフランソワからカールに乗り換え、この問題に対処しつつキリスト教世界を守るよう求めました。そしてフランソワとカールの和解を、欧州有数の大国ではある英国(イングランド王国)に依頼します。

 この頃、英国王ヘンリー8世は宿敵フランスと珍しく和解していました。また宰相である枢機卿トマス・ウルジーの尽力により、1518年にはロンドンに欧州諸国の大使によるサミットを開催、対オスマン帝国同盟を締結させることにも成功していました。1520年、ヘンリーはカールと会見したのち英領カレーにフランソワを招き、絢爛豪華な宴席を儲けてもてなしましたが、政治的効果は乏しく、フランソワとカールの和解は成りませんでした。

 フランソワからすれば、西も東もハプスブルク家になり、英国もイタリア諸国も反フランス派が強く、これ以上勢力を伸ばせません。そこで彼は前ナバラ王など反カール派の諸侯を支援して代理戦争を行わせますが、撃退されて国際的孤立を深めただけでした。ドイツではルターを庇護するザクセン選帝侯が皇帝や教皇と対立しており、フランソワもこれを支援しますが、皇帝と教皇は1521年5月にヴォルムス勅令を発布し、ルターを破門します。またフランスに占領されていたパルマとピアチェンツァをメディチ家に、ミラノをスフォルツァ家に返還することが約束されます。ヴェネツィアだけはフランスとの同盟を維持しましたが、もはや待ったなしの状況です。

 1521年6月、ついに皇帝軍はフランス北部に侵攻します。フランス軍は抵抗しますが打ち破られ、皇帝カール、教皇レオ、英国王ヘンリーは11月末に対仏同盟を締結しました。同じ頃にはミラノからフランス軍が追い出されています。12月に教皇レオが亡くなるとコンクラーヴェが行われ、カールの家庭教師であった人物がハドリアヌス6世として選出されました。

 フランソワはますます追い込まれ、1522年4月にはフランス軍が北イタリアで大敗を喫し、追い出されます。ジェノヴァも翌月陥落し、同盟国ヴェネツィアも1523年に元首ドージェが代替わりしたことで単独講和します。英国もフランス本土に侵攻を開始し、王族のブルボン公シャルルもフランソワを見限って寝返る始末で、カールは彼にドイツ・スペイン混成軍を率いさせて南仏(プロヴァンス地方)に侵攻させました。まさに袋叩きです。

 1523年9月、教皇ハドリアヌスが亡くなり、レオ10世の従弟ジュリオ・デ・メディチが即位してクレメンス7世となりますが、フランスの不利は変わりませんでした。1524年10月、フランソワは兵4万を率いて南下するとミラノを奪還し、皇帝軍が守備する北イタリアの街パヴィアへ進軍、包囲します。籠城する敵に手こずったものの、フランソワはジェノヴァに兵を送ってスペイン軍を撃退し、教皇と密約を結んで皇帝から離反させます。またカールの領国であるナポリ王国に兵を送って侵略しますが、これにより手持ちの兵は減少しました。スイス傭兵らも本国をドイツの傭兵(ランツクネヒト)たちに荒らされ、祖国防衛のために帰国してしまいます。

 1525年2月、皇帝軍とフランス軍はパヴィア郊外で激突します。皇帝軍は長槍(パイク)を装備したドイツ傭兵と火縄銃部隊でフランス軍を散々に撃破し、多くの王侯貴族が戦死するか捕虜となります。フランソワ自身も捕虜となり、残ったフランス軍は本国へ撤退しました。こうしてフランスは敗北し、フランソワの野望は潰えた……かに見えました。

仏王反撃

 国王が捕虜となったため、フランスではフランソワの母ルイーズが摂政となり、国防と外交に尽力します。彼女は英国の侵略を防ぎつつ、オスマン帝国に使節団を派遣し、同盟してカールを打倒しようと持ちかけます。オスマン皇帝スレイマンはこれに乗り、東方から欧州を脅かし始めました。

 一方カールはフランソワをスペインに連れ帰りますが、教皇や英国がカールと対立し始めたのとオスマン帝国の動きを察知し、マドリードでフランソワと「ブルゴーニュ、ミラノ、ナポリ、フランドル、アルトワなどを放棄する」との条約を結ばせて釈放しました。無論人質はとりましたが、帰国するやフランソワは「この条約は脅迫によるもので無効である」と宣言し、英国や教皇、オスマン皇帝と対ハプスブルク同盟を締結します。

 1526年8月末、オスマン帝国軍はハンガリー軍をモハーチの戦いで破り、国王ラヨシュを戦死させました。カールは弟でオーストリア大公のフェルディナントにラヨシュの跡を継がせ、オスマン帝国を防がせます。しかし相次ぐ戦争でハプスブルク家の財政は火の車となっており、新大陸からの金銀では追いつきません。そこでカールはアフリカ・インド交易で莫大な富を得ていたポルトガルと同盟し、財政支援を受けることとなりました。

◆残◆

◆金◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。