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【つの版】ユダヤの闇10・金融帝国

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ナポレオン戦争の後、欧州ではナショナリズムが高まり、国民国家が形成され始めます。国家を持たぬユダヤ人には国民としての同化が求められ、ユダヤ教を捨ててキリスト教に改宗する者も多くなりました。しかし反ユダヤ主義は根深く、疑似科学の装いを得てますます激しくなっていきます。

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◆Your Flag◆

諸国民春

フランスでは1830年に保守反動的なブルボン朝の復古王政が倒され、オルレアン家のルイ・フィリップが自由主義者のラファイエットらに擁立されて、ようやく立憲君主制国家となりました。自由主義・資本主義・産業革命が導入されたフランスでは産業が発展し、鉄道が敷かれ、愛国心が煽られ、アルジェリアやチャイナへの海外出兵も行われます。しかし議会は一握りの保守派貴族や上層ブルジョワに独占され(全国民の0.5%)、富も彼らに集中したため、一般市民や下層労働者から非難されました。サン=シモンフーリエらによる初期の社会主義思想が生まれたのもこの頃です。

他の国々でも似たような状況でしたが、1845年から異変が起きます。貧民の主食であったジャガイモを枯らす病気(胴枯病)が欧州全土に蔓延し、各国政府の無策もあってジャガイモを始めとする農作物の価格が暴騰し、大飢饉が発生したのです。貧富格差の拡大と都市への労働力集中によって衛生状態は甚だ悪く、栄養状態が悪化した貧民には疫病が大流行しました。アイルランドでは100万人が死亡し、北米へ多数の移民が発生したことで有名です。さらに恐慌も発生して飢えた失業者は街に溢れ、一触即発となりました。

1848年1月にシチリアで起きた暴動はイタリア、フランス、オーストリアなど欧州全土へ爆発的に燃え広がり、フランスではまたも王政が打倒されて共和政となります。ルイ・フィリップは国外へ亡命し、ブルジョワと社会主義者が政権を争って内ゲバを繰り返した末、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたるルイ・ナポレオンが選挙によって大統領となりました。彼は保守的な国民議会と対立し、1851年にクーデターを起こして独裁体制を樹立、翌年にはついに皇帝に即位しています。この帝政は1870年まで続きました。

オーストリアではメッテルニヒがザーロモン・ロートシルトともども追放され、プロイセンともども憲法を制定することになりました。またドイツ連邦諸国ではフランクフルト国民議会が結成され、イタリア諸国でも半島統一運動が起きます。しかし自由主義者・社会主義者・民族主義者らの反乱は、次第に鎮圧されて下火になっていきます。

この革命騒ぎでウィーンのロートシルト家は打撃を受けますが、パリに亡命したザーロモンの子アンゼルムが立て直し、彼が創設したクレディト・アンシュタルト銀行はのちのオーストリア銀行となっています。ロンドンのネイサンは1836年に逝去しており、アムシェル、ザーロモン、カルマンも1855年に相次いで逝去したため、パリのジェイムスがロチルド財閥の長となりました。ナポレオン3世はフールやペレールら反ロチルド派のユダヤ人金融業者を資金源としましたが、彼らは投機で失敗し、安全堅実な投資を続けていたジェイムスが勝ち残り、1868年まで長生きしました。

この頃、プロイセン生まれのカール・マルクスが活動しています。マルクス家は両親ともユダヤ人で、父方はラビの家系でしたが、父ヒルシェル(ハインリヒ)はヴォルテール主義者で宗教にこだわりを持たず、フリーメーソンに入会したりプロテスタントに改宗したりしています。カールも6歳の時にプロテスタントに改宗させられました。自由主義者で無頼漢の大学生、左派系新聞の編集者を経てエンゲルスと出会い、パリでローレンツ・フォン・シュタインの著作に共鳴して共産主義者になりました。1848年にはドイツで革命運動に参加、1849年からは英国に拠点を遷し、全世界の労働者に団結して革命を起こすよう呼びかけています。
彼はユダヤ系ですが無神論者で、ユダヤ教徒ではありません。社会主義・共産主義も彼がゼロから作り上げたわけではなく、ドイツ人のシュタインの著作のパクリですし、エンゲルスもドイツ人です。マルクス主義は無神論的な千年王国思想の一種とも言われますが、ユダヤ教というよりキリスト教からの影響があるのかも知れません。詳しくは詳しい人におまかせします。

欧州列強やロシア、アメリカは、相次ぐ内紛に動揺しながらも国外へ勢力を広げ、地球規模の植民地獲得戦争を続けていきます。この過程でオスマン帝国は欧州列強によってズタボロにされ、インドは英国に征服され、清朝はアヘン戦争やアロー戦争をふっかけられ、日本は開国を迫られて不平等条約を押し付けられます。ロシアも中央アジアや清朝、朝鮮や日本へ手を伸ばし、欧州ではスラヴ民族主義を煽ってオーストリアを揺るがしました。

1866年、プロイセンはオーストリアを破ってドイツ連邦を解体し、自国を盟主とする北ドイツ連邦を結成します。また1870-71年の普仏戦争でフランスを破り、プロイセン国王ヴィルヘルムはドイツ皇帝に擁立され、オーストリアを除くドイツ諸国が統一されました(ドイツ国)。イタリアではサルデーニャ王国による半島統一がほぼ成し遂げられ、イタリア王国となります。

新たな国民国家の形成にあたり、フランスやドイツの政治家・学者・詩人・小説家・聖職者・マスメディアはこぞってナショナリズムを煽り立て、自国民・自民族を神聖化してロマンチックに神話を謳い上げ、他国・他民族・他人種を貶めます。そして共通の敵としてユダヤ人を設定しました。「世界の歴史はアーリヤ人とセム人の戦いであった」と歴史は単純化され、光と闇、善と悪が戦う神話伝説にすり替わっていったのです。

1868年には英国の首相にベンジャミン・ディズレーリというユダヤ系の人物が就任しています。彼の祖父は1748年にイタリアから英国に移住したユダヤ人で、株式の仲買人として成功し富豪となりました。彼の父アイザックはヴォルテール主義者で、1817年には一家ごと英国国教会に改宗しています。彼はユダヤ教もキリスト教も嫌っていましたが、ユダヤ人は知的で優秀なコーカサス人種で、イエス・キリストもユダヤ人であるとし、欧州のゲルマン人至上主義やユダヤ人陰謀論を揶揄しました。英国では反ユダヤ主義が比較的弱かったものの、彼の吹聴したユダヤ人陰謀論は、かえって反ユダヤ主義者に利用されることとなりました。

金融帝国

ロシアでも反ユダヤ主義は盛んでした。長年の仇敵であったポーランド・リトアニアには多数のユダヤ人がいましたし、ポーランド分割後にロシア国内に組み込まれたユダヤ人も、外国と通じているのではと不信がられました。ナポレオンを撃退した皇帝アレクサンドル1世は啓蒙主義から保守反動に転じ、欧州のウィーン体制を主導して国民主義や自由主義を弾圧しています。しかしユダヤ人はロシアでも勢力を伸ばし、経済的に成功をおさめます。

1853年、バルカン半島を巡る問題からロシアとオスマン帝国の間に戦争が勃発しました。ロシアの南下を食い止めるべく、英国とフランス及びサルデーニャ王国はオスマン帝国側に立って参戦し、地中海から黒海へ入ってクリミア半島を攻撃、激戦の末に勝利します。ロスチャイルド家はユダヤ人を迫害するロシアに敵対的で、このクリミア戦争でも英仏側を支援し、オスマン帝国にも多額の借款を与えました。しかし1877年の露土戦争ではロシアが勝利し、バルカン諸国がオスマン帝国から独立しています。

ベラルーシのユダヤ人ヨシフ・ギンヅブルクはクリミア戦争で巨富をなし、さらに銀行業を営んで大富豪となりました。同じくベラルーシのユダヤ人ポリアコフ兄弟も鉄道や金融業で大儲けし、財閥を築き上げています。ロシアでも遅ればせながら産業革命が起き、近代化が進んだのです。彼らの台頭にロスチャイルド家ら国際ユダヤ人の支援があったことは言うを待ちません。政治家ともしっかり癒着し、ロシアのユダヤ人は彼らの庇護のもと、比較的安定した暮らしを手にしました。

アメリカ合衆国では、ユダヤ系ドイツ人のアブラハム・クーンとソロモン・ローブが1867年に投資銀行「クーン・ローブ」を設立しています。クーン・ローブは鉄道や大企業へ活発に資金を援助し、モルガン財閥と並ぶ米国屈指の大財閥に成長しました。また石油王ロックフェラーに投資してもいます。

フランクフルト出身のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフは1875年にクーン・ローブに入社し、多くの人脈を繋げたことから同年にソロモン・ローブの娘を娶っています。彼は1885年にクーン・ローブの頭取となり、その財力で世界各地のユダヤ人を支援しました。彼らもロスチャイルド家と友好関係にあったのは言うまでもありません。陰謀論を抜きにしても、19世紀に世界的なユダヤ系金融財閥が形成され、現在まで存続しているのは事実なのです。

こうなると「ユダヤ人が世界を支配し、意のままに操っている」という話は説得力を持ってきます。国連もIMFもない時代ですから、ユダヤ系国際金融資本は実際にすごい力を持っており、欧米列強もロシアもオスマン帝国もユダヤ系財閥には頭が上がりませんでした。カネの力は偉大です。カネはカネを生み、富める者はますます富み、貧乏人はますます貧乏になります。

おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。(マタイ伝13:12

ただしユダヤ人が全員大金持ちかというとそうではなく、中産階級もいれば貧乏人も大勢いました。差別と迫害により社会主義思想にかぶれてテロリストになる者も出てきます。1881年にはロシア皇帝アレクサンドル1世が極左テロリスト集団「人民の意志」に暗殺され、メンバーにユダヤ人がいたというのでロシア全土で大規模な集団迫害(ポグロム)が発生しました。

金持ちを襲えばいいと思うのですが、襲われたのは普通のユダヤ人でした。政府が民衆の怒りのはけ口をユダヤ人に向けさせていたのは明らかです。憤慨したシフやロスチャイルド家はロシアに圧力をかけ、1883年にはロシアの公債発行をロスチャイルド家が引き受ける代わりに、バクーのバニト油田を貰い受けています。またバクー油田を開発していた大富豪アルフレッド・ノーベルと協力し、資金援助を行いました。

祖国熱望

1881年から起きたロシアでのポグロムにより、オーストリア帝国領のガリツィアの街ブロディには毎日数千人規模のユダヤ難民が押し寄せました。この地にはユダヤ人の街(シュテットル)が多くあり、庇護を求めたのです。

これに衝撃を受けたオーストリアのユダヤ人ナータン・ビルンバウムは、民族主義的なユダヤ人の大学知識人団体「カディマ」を結成しました。彼は反ユダヤ主義に対抗してユダヤ民族が団結し、聖書に予言された通り聖地エルサレム(シオン)へ帰還し、ユダヤ民族の国家を再建すべきだと唱え、1890年にはこれを「シオニズム」と名付けました。

同様の運動は近世にもいくつかありましたが、おおむねユダヤ教に基づいており、神による救いやメシアの到来を待望するものでした。近代のシオニズムは神やメシアやユダヤ教によらず、近代的な意味での「ユダヤ民族」の手で祖国を再建しようという民族主義運動ですから、正統的・保守的なユダヤ教徒からは「神をないがしろにしている、世俗的だ」と嫌われています。

歴史的に見るなら律法やユダヤ教は、ユダ王国という国家・民族を統合するために作り出されたもののはずです。バビロン捕囚後には神殿共同体を再建し、ヘレニズム時代にはハスモン朝を建国したのですから、もう一度それをやればいいと思うのですが、長い離散と迫害の間に元来の意義が忘れられ、唯一神の律法のもとに生きるべしという教義が定着したのでしょう。

またこれに対して、「東欧・欧州のユダヤ人はパレスチナに出自を持たないハザール人の末裔だ」という話も広まります。最初にそう言い出したのは、ロシアのユダヤ人アブラハム・エリヤ・ハルカヴィという人物で、1869年のことでした。1872年にはカライ派ユダヤ教徒のアブラハム・フィルコヴィッチが「我々の出自はハザールの改宗に遡る」と述べています。こうした論説がオーストリアやドイツ、フランスに伝わり、拡散されていきました。

フランスの宗教史家で思想家のエルネスト・ルナンは、近代合理主義に基づいてキリスト教や国民、人種について論じましたが、ハザールと東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)を明確に結びつけた初期の人物でもあります。1883年、彼はハザール王国の歴史について講演し、軽率にも「これらの領域のユダヤ人は、人類学的にユダヤ人では全くない」と発言しました。彼の知名度にのっかってこの説は人口に膾炙し、広く信じられたのです。

フランスでは1882年の金融恐慌でユダヤ人への反感が強まっており、多くの著名人やマスメディアが反ユダヤ主義を煽りました。1886年にはエドゥアール・ドリュモンが『フランスのユダヤ人』を出版して反ユダヤ主義を唱え、1894年にはユダヤ系フランス人のドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑をかけられるドレフュス事件が起きています。真犯人はハンガリー系のエステルアジでしたが、これを巡って欧州では大論争が起きました。

ドレフュス事件を取材したハンガリー出身のユダヤ人テオドール・ヘルツルは憤慨し、反ユダヤ主義に対抗してシオニズム運動を起こします。1897年にはビルンバウムらの協力を得て、スイスのバーゼルでシオニスト会議を開催しました。会議ではパレスチナにユダヤ人国家を建設することが目標とされ、世界中のユダヤ人は協力し、資金援助を行うことと決定されます。

しかして、これは世界中の反ユダヤ主義の火に油を注ぐことにもなります。ロシアではまもなく悪名高い偽書『シオン賢者の議定書』が捏造され、現代まで続くユダヤ陰謀論の基礎となったのです。

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【続く】

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