【つの版】度量衡比較・貨幣133
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
17世紀から18世紀にかけて、欧州諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。では同時代のアジアはどうなっていたでしょうか。まずトルコ、イラン、インドの3つの帝国を見ていきましょう。
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近東幣制
オスマン帝国について振り返ってみましょう。この帝国の最盛期の支配領域は、古代ローマ帝国の東半分とアフリカ側で、おおよそ東ローマ帝国に相当します。西暦565年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス崩御時の推定歳入は850万ノミスマ(1ノミスマ=ソリドゥス金貨≒15万円として1兆2750億円)に及びました。西暦1025年、皇帝バシレイオス2世崩御時の東ローマ帝国の推定歳入は590万ノミスマ(8850億円)でしたが、彼はバルカンとアナトリア、南イタリアの一部を支配しただけで、エジプトなどは支配の外です。
1453年に東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の推定歳入は、西暦1496年には330万ドゥカート(1ドゥカート金貨≒10万円として3300億円)ともされますが、1517年にエジプトのマムルーク朝を滅ぼしたことで倍増し、およそ700万-800万ドゥカート(7000億-8000億円)には達したと推定されます。これでも500年前のバシレイオス2世崩御時にさえ及びませんから、実際はもっとあったかも知れません。
16世紀中頃、オスマン帝国の労賃や物価
1アクチェ≒1200円として 1ドゥカート≒84アクチェ≒10万円
日当
徒弟:4-10アクチェ(4800円-1.2万円)
労働者:8-10アクチェ(9600円-1.2万円)
親方:10-12アクチェ(1.2万-1.4万円)
年間労働日数300日として年収3000アクチェ≒360万円ほど
非イスラム教徒の庇護民からの人頭税:年60アクチェ(7.2万円)
1アクチェで買えるもの
小麦粉1kg=羊肉1kg=パン2.5kg=卵10個=チーズ500g=牛乳2kg
靴:10アクチェ(1.2万円)
なめし革のブーツ:32アクチェ(3.84万円)
ガウン:20-50アクチェ(2.4万-6万円)
馬:400アクチェ(48万円)
しかし16世紀末以後は「価格革命」を受け、ドゥカート金貨の価値は10万円相当から2.5万円相当と1/4に下落し、銀の価値も1/3に下落しました。1660年時点の推定歳入は1200万ドゥカートですが、1ドゥカート≒2.5万円とすれば3000億円に過ぎません。同時代のスペインの歳入はこの3倍の3600万ドゥカート(9000億円)にも及びましたが、1.3億ドゥカート(3.25兆円)もの借金を抱えており、ちょくちょく財政破綻に追い込まれています。
平和外交
オスマン帝国は1688年に幣制改革を行い、西欧のターレル/エキュ銀貨、ドゥカート金貨に相当するクルシュ銀貨を発行しました。これはアクチェ銀貨の120倍、パラ銀貨の40倍に相当すると定められます。1クルシュが現代日本円の2.5万円相当なら、パラは625円、アクチェは208円となります。
1683年に第二次ウィーン遠征が失敗してから、オスマン帝国はオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなど欧州諸国連合(神聖同盟)による激しい反撃を受けており、フランスを味方につけて対抗したものの、ハンガリーなど多くの領土を失います。ポーランドはスウェーデン、ついでロシアの属国となりましたが、オーストリアは大きく東へ版図を広げました。オスマン帝国はやむなく欧州諸国と講和し、平和外交の時代に入ります。
1718年に大宰相となったイブラヒム・パシャの時代には、長年の友好国であるフランスの宮廷と盛んに交流して西欧文化を導入し、華麗な宮廷文化が花開きます。西欧からチューリップ栽培が逆輸入されて盛んになったことから、この時期を「チューリップ時代」と呼びますが、1730年の反乱で大宰相が殺され終焉しました。
東洋戦乱
オスマン帝国の東方における宿敵・ペルシア/イランのサファヴィー朝は、この頃滅亡の危機に瀕しています。英国やオランダとペルシア湾岸の港町を介して交易を行い、北方のカスピ海から攻め込んでくるロシアのコサックやオスマン帝国に対抗していましたが、君主は堕落して享楽に耽り、宮廷・役人は腐敗して賄賂が横行していました。
17世紀後半にペルシアを旅行した宝石商ジャン・シャルダンの旅行記によると、サファヴィー朝の主軸銀貨はシャーヒー(王の)といい、4シャーヒーがアッバーシーで、フランスの1リーヴル銀貨に相当します。当時の1リーヴルは銀5gほど、現代日本円に換算して5000円ほどです。1リーヴル=20スー=240ドゥニエですから、1シャーヒーは5スー≒1250円ほどです。そして50アッバーシー=200シャーヒーをトマーンといい、25万円相当です。またシャーヒーの1/5をビースティー、1/10をハスベギー、1/50をディナールといい、ハスベギー以下は銅貨です。従って、こうなります。
1トマーン=50アッバーシー=200シャーヒー=1000ビースティー
=2000ハスベギー=1万ディナール≒25万円(銀250g)
1アッバーシー=4シャーヒー=20ビースティー
=40ハスベギー=200ディナール≒5000円=1リーヴル(銀5g)
1シャーヒー=5ビースティー=10ハスベギー=50ディナール≒1250円(銀1g)
1ビースティー=2ハスベギー=10ディナール≒250円
1ハスベギー=5ディナール≒125円
1ディナール≒25円
1000年前は月給相当の金貨であったディナールが、その数千分の1の銅貨にまで落ちたのです。トマーンとはテュルク諸語で「万」の意味ですから、1万ディナールを意味するわけです。銀換算で250gですが、金に換算してもドゥカート金貨10枚(33g)に相当しますから計数単位でしょう。そして、王の歳入は70万トマーン(1750億円)に及んだといいます。同時代のオスマン帝国に比べると少ないですが、当時のサファヴィー朝はイラクを奪われてほぼイラン高原に縮小していますからこんなもんでしょう。
重税にあえぐ民衆は各地で反乱を起こし、特に18世紀初めに東方のカンダハールで勃発したパシュトゥーン人の反乱は大規模なものとなります。彼らは1722年には首都イスファハーンを攻め落としますが、王子タフマースブは北方に逃れて徹底抗戦の構えを見せます。これに乗じてロシアとオスマン帝国がペルシア領内に侵攻し、タフマースブは彼らと講和して反乱軍に対抗しました。しかしオスマン帝国は反乱軍とも講和条約を結んだため、追い詰められたタフマースブは東方の騎馬遊牧民を率いるナーディルを頼りました。ナーディルはタフマースブを奉じてイスファハーンを奪還し、摂政を経て王位に登り、インドまで遠征してムガル帝国を屈服させることになります。
印度帝国
ムガル帝国は、モンゴル帝国の後継国家ティムール帝国の後裔です。建国の祖バーブルは中央アジアのフェルガナに生まれ、16世紀前半に勢力争いに敗れて南下し、北インドを征服しますが1531年に崩御しました。その将軍シェール・シャーはバーブルの子らを駆逐して北インドを征服し、ルピー銀貨(11.53g)を制定しました。1545年に彼が崩御すると、1555年にバーブルの子フマーユーンが北インドを奪還します。彼は翌年事故死しますが、以後アクバル(-1605年)、ジャハーンギール(-1627年)、シャー・ジャハーン(-1657年)、アウラングゼーブ(-1707年)が帝位を引き継ぎ、ムガル帝国は最盛期を迎えました。
第5代ムガル皇帝シャー・ジャハーンは、1631年に38歳で産褥死した寵妃ムムターズ・マハルを弔うため、帝都アーグラ郊外に1632年から53年まで20年あまりの歳月をかけて巨大な霊廟「タージ・マハル」を建立しました。この大事業には常時2万人の人員と1000頭の象が投入され、人夫には月1.5ルピー、熟練工は月5-6ルピーが支払われました。また世界中から優れた技師が呼び集められ、彼らには月700-1000ルピーが支払われたといいます。
建設費用がどれほどかかったかは明らかでありませんが、宮廷史家アブダール・ハミード・ラホーリーは500万ルピーと記しています。当時は1ルピーで小麦80kgが購入できたといいますが、貨幣価値はどれほどでしょうか。17世紀末のフランス人フランソワ・ベルニエの旅行記では「1ルピーはフランスの30スーにあたる」といい、1リーヴル=20スー=銀5g≒5000円として、1ルピーは1.5リーヴル=銀7.5g≒7500円です。また歩兵の月給は10-20ルピーとされ、平均15ルピーとすると年180ルピーとなります。
しかし、だとすると小麦1kgは100円にも満たず、人夫の月給は1.5ルピー≒1.125万円で、食糧込みとしても日当程度でしかありません。仮に下層階級では貨幣価値が10倍だとしても月11.25万円、12ヶ月で135万円です。熟練工の月給は3.75万-4.5万円、歩兵の月給は7.5万-15万円でしかありませんが、お雇い技師の月給は525万-750万円と桁違いです。12ヶ月で年収6300万-9000万円、もし10倍とすれば6.3億-9億円にもなります。
建設費用500万ルピーは375億円で、20で割れば年18.75億円ですから、技師への支払いは10倍しなくてもよさそうですね。他にも980万ルピー(735億円)、1850万ルピー(1387.5億円)、4000万ルピー(3000億円)とする説もありますが、ベルニエによれば17世紀後半の帝国の歳入は21億5846万ルピー(16兆1884.5億円)にも及んだといいますから、皇帝からすればはした金だったようです。なんたる格差社会でしょうか。
誇張もあるかと思われますが、ムガル皇帝がかくも桁違いのカネモチであるのは、イラン高原やオスマン帝国領に比べれば遥かに肥沃で人口が多く、金銀や宝石、香辛料にも恵まれたインドを掌握していたからにほかなりません。サファヴィー朝にカンダハールを奪われたものの、南のデカン高原に向かって進出を続け、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルの子であるアウラングゼーブの代にはその大部分を征服します。また彼は1657年から4年の歳月と60万ルピーの費用をかけ、妃のために霊廟を築いています。
帝国崩壊
しかし、半世紀にわたるアウラングゼーブの治世において、ムガル帝国は衰退への道をたどり始めます。彼はアクバル以来の多宗教融和路線を変更してイスラム教スンニ派による統治を推し進め、マラーター王国など土着の非イスラム系諸国から激しい抵抗を受けました。長年にわたる征服戦争は領民に重税となってのしかかり、彼らは反乱を起こして群盗となります。皇帝が長らくデカン高原に滞在したことから北インドの統治もおろそかになり、役人や貴族は腐敗して、広大な帝国は分裂状態に陥り始めました。
1707年にアウラングゼーブが崩御すると短命の皇帝が続き、帝位と権力を巡って有力者が争います。マラーター同盟の盟主バージー・ラーオは各地に割拠した群雄を平定し、1737年3月には帝都デリー近郊でムガル帝国軍を撃破、翌年デカン高原北端のマールワー地方を条約により割譲させました。
こうした状況下の1739年、イランからナーディル・シャーが北インドに攻め込んで来ます。ムガル皇帝ムハンマド・シャーは有力諸侯に担がれて抗戦しますが撃ち破られ、デリーは占領されて掠奪されます。シャー・ジャハーンが作らせた「孔雀の玉座」やクーへ・ヌール、ダルヤーイェ・ヌールなどの宝石、金銀財宝のことごとくが奪われ、貢納や身代金を含めて7億ルピー(5.25兆円)にものぼる莫大な戦利品が獲得されました。イラン軍の兵士は未払いの給料を全額支払われたうえ、半年分の給料に相当するボーナスを授かり、イラン本国では3年間もの間税金が免除されたとすらいいます。
ナーディルは満足して帰国し、ムガル帝国はその後も存続しますが、北インド諸侯の盟主としての権威しかなく、帝国は事実上崩壊しました。これに乗じてフランスや英国はインド内陸部への進出を強め、互いに争いつつ植民地化と統治に乗り出すことになるのです。
◆印◆
◆度◆
【続く】
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