【つの版】ウマと人類史:中世編11・大契丹国
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
9世紀中頃、ウイグルとチベットは相次いで崩壊します。唐は各地の藩鎮と折り合いをつけながら、どうにか統一を保っていました。しかし9世紀後半には全土を揺るがす反乱が起き、群雄割拠の時代がやってきます。
◆変◆
◆乱◆
黄巣之乱
845年、唐の武宗は道教を庇護して仏教など外来の諸宗教を弾圧し、荘園の没収や僧尼の還俗、仏像・仏具の破壊熔融を行いました。これは唐がウイグルやチベットなどから圧迫されていたためもありますが、増えすぎた僧尼を削減して租税を納める民を増やし、国家財政を健全化するという現実的な意図もありました。しかし846年に武宗が崩御し、叔父の李忱(宣宗)が即位すると廃仏令は撤廃されます。彼の治世では官僚同士の党争もおさまり、宦官の専横も抑制され、裴休を宰相として国政を立て直したため、小太宗と呼ばれました。彼は859年に崩御し、子の李温(懿宗)が即位します。
懿宗の即位直後、南方の浙江省で裘甫の乱が発生します。868年には江蘇省で龐勛の乱が発生し、いずれも発生の翌年には鎮圧されたものの、盗賊や難民が多数発生し、藩鎮が割拠して天下は乱れます。雲南では南詔国が唐や吐蕃の衰退に乗じて自立し、国王は皇帝を称して東南アジア諸国を荒らし回りました。懿宗は宦官に政治を委ねて贅沢に耽り、873年に崩御します。子の李儇(僖宗)が即位しますがまだ12歳で、宦官が国政を牛耳りました。
僖宗即位の翌年、濮州(山東省菏沢市付近)の王仙芝が数千人の徒党を集めて反乱し、翌年には曹州(菏沢市)の黄巣も呼応します。彼らは塩賊、つまり塩の密売業者でした。古来塩は国家が専売制を敷いており、重要な財源でしたが、財政が悪化すると塩の値段が引き上げられ、民を苦しめました。そこで古くから民間では塩の密造・密売が横行し、相当の勢力となっていたのです。かの関羽も河東郡の解池という塩湖の近くの出身であるため、塩の密売人だったのではないかという伝説もあるぐらいです。
山東・河南一帯を荒らし回った王仙芝と黄巣でしたが、王仙芝はしばしば唐から官位をもらって節度使に収まろうとしたため、黄巣と仲違いします。878年に王仙芝が黄梅(湖北省黄岡市黄梅県)で戦死すると、黄巣はその残党を集めて浙江省・福建省を転戦します。879年には広州(広東省広州市)を落として勢力を回復し、北上して湖南・湖北・江西・浙江・江蘇を蹂躙、880年11月には洛陽を陥落させました。宦官たちは僖宗を担いで朝廷ごと蜀へ逃亡し、黄巣は長安へ入城して大斉皇帝を号します。
しかし斉軍に参加していた朱温は、山西省を統治する河中節度使の王重栄の反撃を受けて不利となり、882年に投降します。喜んだ僖宗は彼に全忠の名を賜い、河南省開封市一帯を統治する宣武軍節度使に任命しました。また李克用を雁門節度使・京師東北面行営都統に任命し、反乱軍の鎮圧にあたらせます。彼はたちまち長安を奪還し、東へ逃走した黄巣を追撃、884年には山東省でこれを討ち取って、天下を揺るがした大乱を鎮圧したのです。
沙陀突厥
李克用の父は李国昌といい、もとの姓名は朱邪赤心と言って、突厥の一部族であった沙陀部の出身でした。『新唐書』に沙陀列伝があります。
それによると沙陀は西突厥の別部の処月種で、烏孫の故地に雑居していました。彼らは金娑山の南、蒲類海の東に居住し、大磧があったので名を沙陀としました。唐が西突厥を討伐して服属させると、処月部の地に金満州と沙陀州を置き、族長を都督に任命して羈縻支配を行いました。彼らはのちに東の庭州へ遷り、唐の称号を維持します。安史の乱の時、金満州都督・張掖郡公の朱邪骨咄支が唐に味方し、驍衛上将軍に任じられました。
その後はウイグルとチベットの争いに巻き込まれ、789年に沙陀はチベットに服属して河西地方に移住させられ、ウイグルと戦うことになります。809年、骨咄支の子の尽忠は部族3万人を率いて唐へ亡命しますが、チベットの追撃に遭って戦死し、子の執宜が残党を率いて唐の霊州(寧夏回族自治区の呉忠市)までたどり着きます。唐は彼を東へ遷して陰山都督府兵馬使に任命し、部族をまとめさせ、オルドス地方の防備を担わせました。
彼が逝去すると、子の赤心が跡を継ぎます。彼の時代にウイグルや吐蕃が崩壊し、残党が押し寄せて来ました。赤心は彼らを撃ち破って服属させ、勢力を強めます。唐は彼を朔州(山西省北部)の刺史とし、蔚州(河北省北部)刺史、雲州(大同市)守捉使を兼任させました。そして868年に龐勛の乱が起きるとこれを平定し、国姓の李氏と国昌の名を授かったのです。
李克用は彼の三男で、生来片目が眇だったことから「独眼龍」の異名を持ち、騎射に巧みで勇猛果敢だったことから「飛虎子」と呼ばれました。唐から沙陀副兵馬使に任命されましたが、878年に領内で飢饉が起こり、大同防禦使の段文楚は沙陀の兵糧を徴発したため、恨みを買って殺されます。李克用は880年には河東節度使の康伝圭を殺して太原を占領し、唐に反旗を翻しました。しかし唐軍に敗れて父とともに北方へ逃げ、韃靼の部落に身を寄せています。ところが黄巣が長安に入ったため、唐は彼らの罪を許して黄巣を討伐するよう命じたわけです。李克用は沙陀軍を率いて南下し、たちまち長安を奪還、河東節度使に任命されて山西省を統括します。さらに黄巣を追い詰め、884年にこれを討ち取ったのです。
唐朝滅亡
蜀に避難していた僖宗は885年に長安へ帰還しますが、10年も続いた大乱により唐の統治機構は破壊され、長安付近にしか支配権を及ぼせない状態でした。また朝廷を牛耳る宦官の田令孜は王重栄と対立し、両者は周辺の節度使を呼び寄せて戦う有様でした。李克用は軍を率いて長安へ迫り、僖宗らはまたも長安を棄てて鳳翔へと逃亡します。邠州(咸陽市彬州)節度使の朱玫は混乱に乗じて皇族の李熅を皇帝に擁立しますが、僖宗らは帝位簒奪と非難し、王重栄・李克用と和解して朱玫を討伐させます。僖宗は888年2月にようやく長安へ戻りますが、翌月に崩御しました。
弟の李曄(昭宗)が擁立されて即位しますが、宦官と藩鎮の対立、藩鎮同士の対立は続きます。891年には鳳翔節度使の李茂貞が漢中の反乱を鎮圧したのち、部下を派遣して支配下におさめ、唐の派遣した節度使を拒みます。894年に唐は李茂貞討伐軍を起こしますが藩鎮たちが従わず、900年には宦官のクーデターで一時皇太子李裕が帝位につけられる有様でした。
901年、李茂貞は岐王に封じられ、昭宗を鳳翔に招いて遷都を宣言、帝位禅譲をもくろみます。これに対して各地の藩鎮が反発し、朱全忠は李克用を太原にとどまらせて蜀の王建とともに李茂貞を攻め、903年に李茂貞を屈服させて昭宗を手中におさめました。904年には自らの本拠地である開封に近い洛陽へ遷都し、昭宗を弑殺、子の李柷(哀帝)を擁立します。905年には唐の朝臣を粛清し、907年に禅譲を受けて名を晃と改め、国号を「梁」としました。これを南朝の梁に対して後梁、あるいは朱梁といいます。
梁の支配権は河南・河北・山東・陝西ほどにしか及ばず、各地に割拠する藩鎮の主は王や皇帝を名乗って自立しました。楚王馬殷、呉越王銭鏐、燕王劉守光のように梁から冊立された王もいますが、蜀・南漢・呉・呉越では唐の天祐の年号を使用しました。李克用は895年には晋王に封じられており、当然梁を認めず、唐を復興するため梁と戦います。
耶律阿保機
この頃、契丹では遙輦氏の欽徳が痕徳菫可汗・契丹王と称し、勢力を広げていました。奚・室韋は契丹の支配下に入り、唐の衰退に乗じて幽州・薊州(北京周辺)を劫略しましたが、范陽節度使の劉仁恭に防がれています。901年、契丹では耶律阿保機が夷離堇と于越を兼任して実権を握り、906年末に可汗が逝去すると、翌年自ら可汗に即位します。また諸臣の勧めを受ける形で「天皇帝」と号し、皇后を尊んで「地皇后」としました。かつて唐の天子に奉られた「天可汗」の称号を真似たもので、唐の天命が契丹に遷ったことを宣言したのです。
もともと契丹は可汗の権力が弱く、諸部族が遙輦氏の有力者から選挙して推戴するもので、任期も3年と決まっていました。耶律阿保機はまずこれを9年に延長し、軍事力や功績を背景として慣例を撤廃し、終身の可汗を目指して天皇帝と称し、権威を高めようとしたわけです。
劉仁恭は同年に息子の劉守光に背かれて節度使の位を簒奪され、梁は守光を燕王に冊立して契丹や晋に対抗させました。李克用は激怒しましたが、耶律阿保機が大軍を率いて雲州(大同市)に侵攻したため、梁を滅ぼすには互いに争っている場合ではないと和睦を結び、ともに梁を討伐することを誓っています。しかし耶律阿保機は帰国するや梁と手を組みました。
908年、李克用は子の李存勗に後事を託して世を去ります。彼は臨終の床で三本の矢を子に授け、燕・契丹・梁に対して用いよと命じたといいます。梁は喪中を狙って晋へ攻め寄せますが撃退され、912年に朱晃が息子に殺されると、晋の反撃が始まります。まず913年には燕を滅ぼし、国内で反乱が相次ぐ契丹とは和睦しておいて、梁を攻撃します。これにより黄河以北の土地をほぼ奪い取り、923年には梁を滅ぼすことに成功しました。
同年、晋王李存勗は洛陽へ入城して皇帝に即位し(荘宗)、国号を「唐」としました。唐の高祖李淵も山西の軍閥から興りましたし、賜姓とはいえ李氏であることから、唐を復興することを宣言したわけです。これを後唐といいます。924年には岐王李茂貞を降伏させ、南方の諸国も続々と帰伏しましたが、蜀主の王衍が従わなかったので平定し、後唐の版図は華北全土と四川に及びました。しかし926年に李存勗は反乱に遭って殺され、李克用の養子である李嗣源(明宗)が擁立されて帝位につきます。
この間、耶律阿保機は国内の反乱を平定すると、916年に9年の任期を延長して再度即位します。また自らを大聖大明天皇帝、皇后を応天大明地皇后と称し、国号を大契丹国、元号を神冊としました。918年には赤峰市に皇都(上京臨潢府)を築き、920年には漢字をもとにして契丹文字(契丹大字)を作らせ、碑文や墓誌に刻ませました。当時の契丹には遊牧民以外にも多くの漢人や定住民がいたため、彼らの住まうための都市を建設し、遊牧民とは別の統治機構を整備してもいます。
契丹の版図は西へ大きく広がり、漠南・漠北の大部分は平定されました。925年には満洲の大国であった渤海国を征服し、長男の耶律突欲を封じて人皇王と呼び、東丹国を統治させます。しかし926年、耶律阿保機は帰国途中に崩御し、述律皇后(月里朶)が称制したのち927年に次男の耶律堯骨(太宗)が帝位につきました。
こうしてウイグル・唐朝崩壊後の混乱はいったんおさまり、後唐と契丹が南北で皇帝を称することとなります。南方諸国もおおむね後唐に従いましたから、両国は対等と言えるでしょう。しかし後唐も936年に崩壊し、天下の天秤は一挙に契丹へ傾くことになるのです。
◆飛び出せ◆
◆契丹◆
【続く】
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