【つの版】度量衡比較・貨幣143
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は紀州藩から招かれて徳川宗家を継ぎ、大胆な幕政改革(享保の改革)を行って財政を再建し、中興の祖と讃えられました。そして吉宗の没後に頭角をあらわしたのが田沼意次です。
◆田◆
◆沼◆
田沼意次
田沼氏は下野国安蘇郡田沼村(現栃木県佐野市田沼)を所領とした武家であり、鎌倉時代に藤姓足利氏(藤原秀郷の末裔)庶流の佐野氏から分かれたとされます。のち新田義貞や源姓足利氏の鎌倉公方に仕え、新田氏庶流から養子を迎えて源姓に変わり、戦国時代には佐野氏等に仕えました。慶長19年(1614年)に佐野氏が改易され信州松本に流されると、家臣の田沼吉次は浪人となりますが、翌年紀州藩主の浅野長晟に招かれ仕官しています。吉次は鉄砲の妙手として知られ、大阪の陣の前に戦力として招かれたのでしょう。
浅野氏は元和5年(1619年)に安芸国へ転封となり(広島藩)、代わって家康の10男・頼宣が紀州藩主となります。吉次は引き続き鉄砲足軽として紀州藩に仕え、子の吉重、孫の義房(意房とも)、曾孫の意行と続きました。義房が病で辞職すると、意行は叔父・田代高近の娘婿となり、2歳年上の徳川吉宗に小姓として仕えます。吉宗が紀州藩主になると奥小姓に、将軍に就任すると将軍小姓・旗本に列し、300俵の禄を受けました。
享保4年(1719年)7月、意行の妻・辰は念願の男子を儲けました。意行は息子を授かるため日蓮宗総本山・身延山久遠寺を守護する龍神「七面天女」に祈願しており、これにちなんで息子の幼名を龍助としました。彼こそのちの意次です。次いで享保6年(1721年)には次男の専助(意誠)、さらに三男の文助(意満)が生まれます。
享保9年(1724年)11月、意行は従五位下・主殿頭に叙任され、小姓上位者の通例として諸大夫に任官されます。享保18年(1733年)には300石を加増されて相模国高座郡と大住郡に600石を賜り、翌年には小納戸頭取となりますが、同年末に49歳で病没しました。15歳の嫡男龍助は元服して意次と名乗り、家督と家禄・官位を継承し、吉宗の嫡男・家重に仕えます。
徳川家重
吉宗の正室(御簾中)であった真宮理子女王は宝永7年(1710年)に産褥死しており、複数の側室の産んだ男子のうち、長男の家重、三男の宗武、五男の宗尹が健在でした。しかし家重は生来病弱かつ脳性麻痺のため言語不明瞭で、猿楽を好み文武を怠ったため、老中・松平乗邑は宗武を次期将軍に推します。ただ家重の子・家治(1737年生まれ)は聡明で吉宗に可愛がられており、吉宗は延享2年(1745年)に家重に将軍職を譲って隠居し、乗邑を罷免しました。
将軍職は継げませんでしたが、宗武は江戸城田安門内、宗尹は一橋門内に屋敷を賜り、田安徳川家と一橋徳川家の祖となります。彼らとその子孫は一種の「部屋住み」で、藩領は持たず賄料(生活費)を賜って江戸城内の屋敷で生活する代わり、家重・家治の直系が絶えた時に後継者となる資格を有しました。吉宗は紀州藩から来て徳川宗家を継いだため、自らの血筋を後継者候補として遺したのです。ただ田安家は宗武の子が早世し、一橋家から養子をもらい存続しました。一橋家もしばしば跡継ぎが絶え、田安家や尾張藩・水戸藩から養子をもらっています。のち家重の次男が同様に清水家を立て、田安・一橋とあわせて「御三卿」と呼ばれる家柄となりました。田沼意次の弟・意誠は同い年の宗尹の家臣となり、子孫は代々一橋家に仕えています。
吉宗は大御所として6年間実権を握り続け、寛延4年(1751年)6月に脳卒中で薨去します。同年10月に宝暦と改元され、家重は側近の大岡忠光(忠相の遠縁)を輔佐として幕政を取り仕切ります。忠光は家重に幼少から仕え、家重の言語を唯一理解できたためといいますが、政治を壟断することなく善政を行い、庶民からも慕われました。また勘定吟味役を充実させて会計検査院に相当する制度を確立し、幕府各部局の財政に予算制度を導入するなど経済政策にも力を入れています。宝暦4年(1754年)には豊作による米価下落を防ぐため、酒造免許(酒株)を持たない者でも代官や奉行に届け出を行えば自由に酒を造れるとする「勝手造り令」を発布しました。
郡上一揆
しかし同年、美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で、増税に対する農民たちの反対運動「郡上一揆(宝暦騒動)」が勃発します。これは幕府をも巻き込んで長期化し、田沼意次が解決に乗り出し、吉宗以来幕府財政を支えてきた高い年貢率が見直される契機ともなる重要な事件でした。
郡上藩は美濃国郡上郡等2万3800石余、越前国大野郡内1万4900石余、合計3万8900石を領する山間内陸の小藩です。鎌倉時代後期に桓武平氏千葉氏庶流の東氏が下総国から移り、戦国時代には家来の遠藤氏が下剋上で家督を相続、郡上八幡城を築いて領主となりました。遠藤氏は美濃斎藤氏や織田信長に仕え、のち秀吉に逆らったため改易され稲葉貞通が入りますが、関ヶ原の戦い後に遠藤氏が復帰し、元禄5年(1692年)まで続きました。次いで井上氏が4年間入り、元禄10年(1697年)に金森氏が藩主となります。
金森氏は土岐源氏の庶流と称し、戦国時代に金森長近が織田信秀・信長および豊臣秀吉に仕えて功績を建て、飛騨国(高山藩)を授かりました。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、功績により美濃国武儀郡等を賜り、養子の可重が跡を継いで玄孫の頼旹に至ります。しかし元禄5年に藩領を取り上げられて幕領とされ、出羽国上山に転封となりました。これは幕府が飛騨の山林や鉱山を欲しがったためで、以後幕末まで幕領のままとなります。そして元禄10年、父祖の領地に隣接する郡上藩に転封されたのです。
相次ぐ転封で金森家の財政は火の車となりましたが、新たな領地からの収入は寒冷な内陸の山間部ゆえ期待できません。また郡上藩の領民は前藩主・井上氏が定めた検見法(その年の作物の収穫に応じて年貢率を定める)では年貢率が高すぎると江戸藩邸に訴えため増税もできず、定免法(数年間は一定の年貢率に固定する)に変更して年貢率を下げます。頼旹は支出削減のため家臣の召し放ち(リストラ)を断行しますが財政難はおさまらず、江戸藩邸が焼失した際も再建できませんでしたが、領民の一揆は避けられました。
享保21年(1736年)に頼旹が逝去すると、嫡男可寛は早世していたため、その子の頼錦が23歳で跡を継ぎます。彼は詩歌や書画、天文を好む文人で、将軍吉宗に気に入られ、延享4年(1747年)に奏者番(将軍と諸大名の間の取次などを行う職)に取り立てられます。これは出世コースでしたが、職務の都合上出費がかさみ、藩財政が悪化します。
やむなく頼錦は藩士の俸禄切り下げを行い、領民に御用金2500両を拠出させて江戸藩邸を再建する費用とし、毎年重税や賦役を課して領民を苦しめました。さらには定免法を検見法に改め、年貢の増徴を図ったため、負担に耐えきれなくなった領民は一揆を組んで藩に強訴を行ったのです。これが功を奏して年貢増徴は頓挫しますが、頼錦らは幕府の美濃郡代代官の青木次郎九郎を抱き込み、幕府の命令という形で検見法を領内に施行しようとします。
宝暦5年(1755年)7月、青木は郡上郡内の庄屋を笠松陣屋に呼び、検見法を採用するよう勧告します。また「これを受け入れれば各種負担の軽減を検討する」と告げたため、庄屋たちはやむなく同意しました。しかしこれを知った農民たちは激しく反発し、検見法採用に同意した庄屋たちを郡内から締め出し、70余名の代表を江戸へ派遣して江戸藩邸へ直訴を行います。しかし藩側は彼らを監禁し、一揆勢力を分断して弾圧を加えました。
宝暦8年(1758年)、郡上一揆と石徹白騒動に関する投書がようやく将軍家重のもとに届きます。家重は「寺社奉行や勘定奉行ら幕府要人の関与があるのではないか」との疑いをかけ、評定所での詮議に掛けて詳しく吟味するよう命じました。吟味には勝手掛老中首座の堀田正亮、老中の酒井忠寄、御用取次の田沼意次(39歳)があたり、一揆勢には秩序紊乱の罪ありとして獄門を含む厳しい判決を下す一方、郡上藩・金森氏にも改易が命じられます。
幕府側では、美濃郡代代官の青木次郎九郎はもとより、老中の本多正珍、西丸若年寄の本多忠央、大目付の曲淵英元、勘定奉行の大橋親義ら多くの幕閣が罷免されて失脚します。江戸時代を通じて百姓一揆により幕閣が罷免されたことは他にありません。そして同年9月、田沼意次は一連の事件に対する功績で加増を受け、本多忠央の領地であった遠江国榛原郡相良(現静岡県牧之原市相良)1万石を代わって賜り、大名に列することになります。
◆一揆◆
◆打毀◆
【続く】
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