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【つの版】度量衡比較・貨幣167

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 アメリカ独立戦争の勃発した1775年は、日本では安永4年にあたり、田沼時代の真っ最中です。宝暦・天明文化が花開く中、多くの天災にも見舞われ、天明2年(1782年)から大飢饉、天明2-3年(1783年)には岩木山・浅間山の大噴火、天明6年(1786年)には大洪水、天明7年(1787年)には全国規模の打ちこわしが発生しました。幕府を転覆させるには至りませんでしたがこれにより田沼派は没落し、松平定信による寛政の改革が始まります。

◆べら◆

◆ぼう◆


松平定信

 松平定信は、宝暦8年末(1759年)に田安徳川家の初代当主・宗武(吉宗の3男)の7男として生まれました。幼名は賢丸まさまる。生母は尾張徳川家家臣として木曽を支配していた山村氏の娘で、京都の近衛家とも縁のある家柄でした。異母兄の治察は5男でしたが正室の子で、長男から4男までが早世したため、明和8年(1771年)6月に父が逝去すると田安家の家督を相続します。12歳の賢丸は田安屋敷にとどまりました。

 安永3年(1774年)3月、賢丸が17歳の時、陸奥白河藩主・松平定邦の養嗣子となり定信と名乗ります。これは定邦が家格上昇を目論み、田沼意次の助力で行ったことでしたが、同年9月に治察が逝去し、子がなかったため田安家の後継者がいなくなります。定信の同母兄・定国は伊予松山藩主の養嗣子となっており、定信は養子縁組を解消して田安家を継ぎたいと申し出ますが受理されず、田安家は以後13年にわたり当主不在(宗武の正室で治察の母である宝蓮院が当主を代行)となりました。これは田沼意次の思惑であったといい、定信はこのことで意次を恨んだといいます。

 天明3年(1783年)10月に定邦より家督を譲られ24歳で白河藩主となった定信は、同年に東北地方を襲った「天明の大飢饉」への対処を迫られます。東北諸藩では裕福な家臣や商人が米を買い占め、米価の高い江戸へ転売(廻米)してカネを稼いでいたため(飢餓輸出)、凶作に対応できず多くの餓死者を出していましたが、白河藩では分領の越後柏崎や会津藩などから米や雑穀を輸入し、一人の餓死者も出しませんでした。また藩内の豪農や庄屋からは寄付を募って領民に配布し、質素倹約や開墾の奨励にもつとめています。

 天明6年(1786年)に将軍・徳川家治が薨去し、翌天明7年(1787年)に一橋家出身の家斉いえなりが15歳で将軍に就任すると、家斉の実父である治済はるさだが実権を握り、田沼意次一派を幕政から一掃します。そして定信は白河藩主としての政治手腕を認められ、御三家の推挙を受けて老中首座・勝手方取締掛(財政担当)に、翌年将軍輔佐に抜擢されました。翌天明9年(1789年)正月には寛政と改元されたため、彼の時代の幕政改革は「寛政の改革」と呼ばれます。

 田沼意次は緊縮増税を旨として幕府財政の再建を行い、明和7年(1770年)には江戸と大坂の幕府の金蔵には300万両(1両≒現代日本の10万円として3000億円)もの備蓄金がありましたが、相次ぐ災害の処置に追われて出費が続き、天明8年(1788年)には81万両しか残っていませんでした。しかも天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀のため、同年には100万両の赤字が予想されています。また農村からは140万人もの農民が飢饉の影響で失われ、大量の農民が都市に流入して秩序を混乱させていました。

 このような諸問題を解決するには、田沼意次と同じく緊縮増税によって幕府財政を再建し、農村を復興していくしかありません。定信政権は名目的には田沼政治を貶め、実際には田沼政治を継承・深化させていくことになります。とはいえ田沼時代に賄賂が横行し、武士が本分を忘れて道楽や商売に耽溺していたのは事実ですから、綱紀粛正も急務となりました。何かと評判の悪い「寛政の改革」ですが、その実情を見てみましょう。

経済政策

 まず天明8年4月には明和9年(1772年)に発行が開始された南鐐二朱の鋳造を中断し、丁銀(元文銀)に改鋳しています。ただ製造を中止しただけで流通は取りやめておらず、寛政2年(1790年)には西日本でも南鐐二朱の使用を強制しています。これは南鐐二朱の過剰発行により秤量銀貨が不足し、銀相場が上昇(天明6年/1786年には金1両=銀50匁に)して物価が高騰したのを是正するためで、南鐐二朱の全国的な普及は定信によるものです。

 また寛政2年には、伊勢山田で発行されていた民間紙幣「山田羽書」を、幕府の役職である山田奉行の管理下に置きます。伊勢山田は伊勢神宮の門前町で、全国各地に営業網を持つ伊勢商人・伊勢御師の拠点であり、商業的信用と宗教的権威を利用して一種の為替手形が江戸時代初期から発行され、流通していました。これは幕府の発行する丁銀や小判との兌換性を認められ、伊勢各地に発行を統括する株仲間が組織されました。

 定信はこの山田羽書に対する山田奉行の権限を強化して自治権を弱め、三方会合所・羽書取締役・羽書年行司に発行を監督させます。また幕府貨幣との兌換に必要な手当金の上納も命じたため、株仲間は羽書の発行利益を失うことになりましたが、事実上の幕府発行の紙幣としたことで偽造や乱発行を防ぎ、貨幣価値と供給量を安定させることに成功しています。

発棄捐令

 寛政元年(1789年)9月には「棄捐令きえんれい」を発布しました。これは旗本や御家人が多額の債務(借金)返済に追われていたため、天明4年(1784年)以前の債務を免除(棄捐)し、それ以後のものは年利18%から6%に利子を下げて長期年賦(永年賦)とし、またこれ以後は法定利率を年利12%にすると定めたものです。旗本や御家人の債権を握っていた「札差」と呼ばれる金融業者は、これによって大損を被ることになりました。

 旗本や御家人は米で俸禄(蔵米)を受け取っていましたが、これを現金に換えて運搬する仲介業者が札差です。彼らは次第に武家に対する高利貸しも行うようになり、蔵米を抵当として現金を融通し、武家は債務返済に苦しめられていったのです。

 この時の借金の棒引きの総額は、札差96人のうち88人から届け出のあった額の合計で金118万7808両3分(1187億8080万円余)と銀14匁6分5厘4毛に達し、幕府の年間支出とほぼ同額でした。また札差救済のため各地の豪商や幕府から資金を出させて貸付会所を設立し、経営困難となった零細札差に対して年利1割の低利で融資を行わせました。札差たちは武家への貸し渋りを行い抗議しましたが、幕府から救済措置を提示されて抗議を引っ込め、最終的に解決を見ることとなります。札差は幕府からの公的支援を受けて健全経営を行えるようになり、豪商が退蔵していた貨幣は幕府に吸い上げられて市場に出回ることとなり、富の再分配が行われて経済が活性化したのです。

農村復興

 寛政2年(1790年)、定信は「旧里帰農令」を発布し、江戸など都市部に流入していた農民に対して元の農村に帰還するよう命じました。しかし長年の飢饉と耕作放棄で荒れ果てた農村に戻って農業を再開することは容易ではなく、様々な支援策が講じられました。農具・種籾や資金の貸付け、助郷(街道沿いの宿場町への労働負担)の軽減や納宿(年貢米納入を代行する札差の一種)の株仲間の廃止、人口増加政策として間引きの禁止や児童手当の支給(2人目の子の養育費として金1両)も行われました。

 定信は田沼時代に引き続いて商人・問屋同士のカルテルである「株仲間」を積極的に公認し、物価統制を行うとともに彼らから冥加金(上納金)を吸い上げて税収を増やしました。また公金を積極的に出動させ、民間より低利の年利1割前後で貸し付け、利子は財政補填や福祉事業、各種公共事業に注ぎ込まれました。荒廃した農村の復興は急務でしたが、そのための資金は田沼時代の重商主義政策の継続によって集められたのです。

 また飢饉に備えて各地に穀物や金銭を備蓄させ(囲米)、江戸の町方でも収入の一部を貯蓄に回して積み立てさせ(七分積金)ました。定信は「国に九年の貯えなくば不足、六年の貯えなくば急、三年の貯えなくば国その国にあらず」と備蓄の必要を説いており、この政策は幕末まで存続しました。さらに幕府領の農村を統治する代官の不正を厳しく取り締まってもいます。

 それでも農村に戻らぬ貧民は数多く、江戸市中には無宿人・浮浪人が溢れていました。寛政元年、火付盗賊改の長谷川平蔵の上申により、彼らを収容して大工等の職業訓練を行わせる施設「人足寄場」の設置が決定されます。これは石川島(東京都中央区佃)に設立され、幕末まで存続し、現在の府中刑務所の前身となっています。

 これら一連の改革は、社会・経済的にみて理にかなっており、近代的な福祉政策にも通じる先進的なものでした。天明年間の混乱は鎮静化し、緊縮財政と倹約により、100万両の赤字から20万両の備蓄が生じるまでになっています。しかし倹約令や風俗統制令を頻発したため景気は冷え込み、幕府要人や江戸の町人たちからも強い批判を浴びることとなりました。

◆鬼◆

◆平◆

【続く】

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