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【つの版】ウマと人類史EX43:十三人制

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 源頼朝は武力と政治力により日本の武家を取りまとめ、のちに鎌倉幕府と呼ばれる全国的な武家政権の長となります。しかし天下統一が成ったのち、功臣たちに待っていたのは粛清の嵐でした。北条氏はこの時に台頭します。

◆鎌◆

◆倉◆


建久政変

 建久6年(1195年)2月、頼朝は東大寺再建の落慶供養に出席するため、妻・政子および嫡男の頼家、長女の大姫を伴って5年ぶりに上洛します。大姫は時に17歳で、頼朝は彼女を後鳥羽天皇の妃とする計画を建てていました。清盛は妻の妹(建春門院・滋子)を後白河院に入内させて高倉天皇を産ませ、娘(建礼門院・徳子)を高倉天皇に入内させ安徳天皇を産ませたのですから、うまくすれば頼朝は天皇の舅として政権を盤石にできます。

 しかし大姫は幼い頃に源義仲の子・義高と婚約しており、のち父によって義仲・義高が討たれたため、心に傷を負っていました。摂政・近衛基通や一条高能(頼朝の甥)との縁談もありましたが断ってしまい、数年前から彼女の気持ちを無視して後鳥羽天皇との縁談が進められていたのです。

 ところが、後鳥羽天皇にはすでに文治6年(1190年)より中宮として九条兼実の娘・任子が入内しており、しかもこの頃には妊娠中でした。兼実は天皇と頼朝を後ろ盾として朝政を主導し、弟の慈円を天台座主に任じるなど権勢を振るっていましたが、天皇や貴族・院の近臣からは「門閥や先例故実に厳格すぎる」と評判が悪かったようです。そこで頼朝は兼実への支援を取りやめ、兼実の政敵・源(土御門)通親や後白河院の寵姫であった丹後局(高階栄子)、および彼女の娘・宣陽門院に接近します。

 頼朝は3月に摂津国住吉大社で大規模な流鏑馬を催し、富士の巻狩りに続いて西国の御家人たちにも武家の棟梁としての権威を示します。続いて東大寺の落慶供養に出席し、京都へ戻るとまず宣陽門院に参入し、3月末には丹後局を六波羅に招いて政子・大姫と引き合せ、豪奢な贈り物を進呈します。これに対して兼実への贈り物は「馬二疋」と甚だ少なく、兼実は困惑しています。また宣陽門院が後白河院から相続した広大な荘園「長講堂領」を巡る問題でも頼朝は兼実の決定を取消し、通親や丹後局の要求を通しています。

 頼朝らは7月に鎌倉へ戻りますが、8月に任子が産んだのは女子(昇子内親王)で、兼実を落胆させています。また通親の娘・在子は後鳥羽天皇の寵愛を受けて妊娠しており、12月には男子(為仁親王/のちの土御門天皇)を産みました。これにより兼実は求心力を失い、廷臣の大半は通親につきます。

 翌建久7年(1196年)11月、任子は内裏から退去させられ、兼実は関白を罷免されて、近衛基通が後任となります。朝政の実権は源通親が握り、兼実政権下で不遇だった者たちは次々に昇進しました。大姫は翌年7月に逝去しますが、頼朝は諦めず、次女の三幡を入内させるべく朝廷工作を続けます。

十三人制

 建久9年(1198年)正月、18歳の後鳥羽天皇は3歳の皇太子・為仁親王に譲位して上皇となり、院政を開始します。天皇の祖父となった通親は権勢を極め、頼朝は通親を介して朝廷工作を続け、鎌倉にいる三幡を女御として認める宣旨を受けますが、その矢先に頼朝本人が急死します。

 同年末、相模川の橋供養からの帰路に体調を崩した頼朝は、翌年正月13日に53歳(満51歳)で薨去しました。死因は落馬によるとも病気だともいいます。妻の政子は落飾して尼となりました。嫡男の頼家は18歳で、家督を相続して第二代の「鎌倉殿」となり、朝廷から左近衛中将に任じられます。しかし突然の当主交代、かつ若年ということで、不穏な動きが現れました。

 同年2月、権大納言・源通親に対する襲撃を企てたとして、後藤基清、中原政経、小野義成の3名が逮捕されます。彼らは前年に急逝した一条能保・高能らの家人で、いずれも左衛門尉の官位にあり、特に後藤基清は讃岐守護でもありました。これに加えて左馬頭・源隆保、神護寺の僧侶・文覚らも捕らえられ、隆保は土佐、文覚は佐渡へ流刑とされます。

 同年3月には鎌倉で三幡が高熱を出し、京都より医師の丹波時長が招かれて治療にあたりますが、6月末に14歳で死去しました。

 頼家は側近の宿老である大江広元(公家出身、政所別当)、中原親能(大江広元の兄、京都守護)、梶原景時(頼家の乳母の夫、侍所別当)らの輔佐を受けて政務に当たっていましたが、北条時政・比企能員ら有力御家人がこれに異を唱え、同年4月に「13人の宿老が鎌倉殿への訴訟の取次を行う」という合議制(集団指導体制)が始まります。北条氏の編纂した『吾妻鏡』では「頼家が専権を振るい失政をしたからだ」云々と書き連ねていますが、実態は頼家とその派閥から実権を奪いたい宿老側の思惑でしょう。

 この「13人」には、先の5名に加え時政の子・義時、三浦氏の当主の義澄とその甥の和田義盛、頼朝の乳母・比企尼の娘婿の安達盛長とその甥の足立遠元、頼朝の乳母・寒河尼の弟の八田知家、頼朝の乳母の甥で問注所執事の三善康信、頼朝の母の従弟で政所執事の二階堂行政ら様々な立場の者が含まれていました。北条氏は頼朝の妻・政子の実家で頼家とも血縁関係にありますが、頼家は頼朝の命令により比企氏と梶原景時が養育にあたっており、実の母方である北条氏とは対立していました。特に比企能員の娘・若狭局は頼家の妻となり、この頃に息子・一幡を産んでいます。

 頼家はこれに反発し、小笠原長経(甲斐源氏)、中野能成(信濃出身)、比企三郎および比企時員(ともに能員の子)ら若い側近を指名し、彼らでなければ自分への目通りを許さず、手向かってはならないと宣言します。そこで北条氏は、まず御家人に嫌われていた梶原景時を除くことにしました。

景時粛清

 建久10年改め正治元年(1199年)10月、三浦義村・和田義盛ら御家人66名は景時糾弾の連判状を大江広元に提出します。広元は頼家への提出を躊躇いますが、義盛に強く迫られてやむなく言上し、頼家は景時に弁明を求めました。しかし景時は弁明せず、侍所別当の職を解かれ、謹慎ののち鎌倉追放を命じられます。その所領も没収され、御家人らに分配されました。

 翌正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて京都へ上る道中の駿河国で在地御家人たちに襲撃され、皆殺しにされました。彼は頼家の弟・千幡を将軍にしようとしていたとも、甲斐源氏の武田有義を担ごうとしていたとも記録されていますが、実のところは不明です。有義は嫌疑によって武田家当主の座を追われ、弟の信光が当主となりました。

 景時粛清の張本人と思しき北条時政は、同年4月に遠江守に任じられています。三浦義澄は正治2年正月に、安達盛長は同年4月に老齢のため病死しており、「13人の宿老」は2年のうちに10人に減ってしまいました。

 翌正治3年(1201年)正月、景時を庇護者としていた越後の城長茂が軍勢を率いて上洛し、景時を讒訴し播磨守護を奪ったとして有力御家人・小山朝政の邸宅を襲撃します。しかし朝政が不在だったため、長茂らは上皇と天皇の御所である二条東洞院殿に赴き、四方の門を封鎖して鎌倉追討の宣旨を要求する暴挙に出ます。長茂らは逆に追討の宣旨を出されて斬首されますが、同時期に越後では長茂の甥・資盛が叔母の板額御前らとともに挙兵します。

 しかし城氏の兵は1000に過ぎず、幕命を受けた佐々木盛綱らの軍勢に敗れて5月には滅亡しました。同年2月に正治から建仁と改元されていたため、これを「建仁の乱」といいます。男勝りの剛勇を振るった板額御前も捕らえられ、鎌倉の頼家の前に連行されますが堂々たる態度を崩さず、甲斐源氏の浅利義遠の妻となって生涯を終えました。

比企之変

 翌建仁2年(1202年)7月、20歳の頼家は朝廷より従二位・征夷大将軍の宣下を受けます。父の跡を継いでから4年半の間は征夷大将軍でなかったわけですが、「鎌倉殿」としての権威があれば問題はありません。しかし景時を失った頼家はますます比企氏を頼みとし、北条氏と対立します。頼家の子・一幡の母は比企能員の娘ですから、このままでは比企氏が鎌倉幕府の実権を握り、北条氏が難癖をつけられて滅ぼされかねません。

 頼朝の異母弟、義経の同母兄である全成は、頼朝挙兵ののち鎌倉に来て兄に仕え、御家人として駿河国阿野荘(現静岡県沼津市)を賜っていました。彼は僧形のまま北条政子の妹・阿波局と結婚して子を儲けていますが、妻は北条氏かつ千幡の乳母であったため、時政らと手を組んで頼家を廃し、千幡を新たな鎌倉殿に擁立しようともくろみました。

 これを知った頼家は激怒し、建仁3年(1203年)5月に先手を打って全成を捕縛させ、翌年6月に処刑させます。ところがその祟りなのか、頼家は7月に病気に倒れ、8月末には危篤状態に陥ります。瀕死の頼家の跡継ぎを巡って北条と比企の対立は深まり、ついに爆発しました。

『吾妻鏡』によると8月27日、家督継承の措置がとられ、頼家の弟の千幡は関西38カ国、頼家の嫡男の一幡は関東28カ国の地頭職となり、また諸国総守護職は一幡が継承すると定められます。ところが比企能員はこれに異論を唱え、千幡の後ろ盾である北条氏を滅ぼそうとしました。これを聞いた政子は父時政に伝え、時政は大江広元から比企氏討伐の黙認を取り付けます。

 9月2日、時政は仏事にことよせて比企能員を自邸に招き、これを誅殺します。さらに息子の義時、娘婿の平賀朝雅、および主だった御家人を集めて比企邸を襲撃し、一幡もろとも比企氏を皆殺しにしてしまいました。比企氏の与党は粛清・所領没収され、北条時政が幕府の実権を握ります。事件の3日後、危篤状態だった頼家の病状は回復しますが、時政は彼を出家させて伊豆の修善寺に押し込め、翌年刺客を送って殺してしまいます。

 朝廷は時政からの報告を受け、12歳の千幡を頼朝・頼家の家督を相続する者として承認し、従五位下・征夷大将軍に宣下しました。後鳥羽院は彼に「実朝さねとも」の名を授け、同年10月に鎌倉で元服式が行われます。幼い実朝を神輿に担ぎ、北条氏が幕府を牛耳る時代が始まりました。

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【続く】

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