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【つの版】ウマと人類史EX26:奥州六郡

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 河内源氏の祖・源頼信は、坂東で起きた平忠常の乱を平定し、東国にも地盤を広げました。彼の子・頼義は父の武士団と地盤・名声を受け継ぎ、河内源氏をさらに発展させます。

◆鎌◆

◆倉◆


相州鎌倉

 頼信には5人の男子がおり、嫡男の頼義は永延2年(988年)頃の生まれとされます。頼信が安和元年(968年)の生まれとすれば20歳頃の子で、平忠常の乱が鎮圧された長元4年(1031年)には43歳の壮年です。『今昔物語集』には頼信と頼義が逢坂山(滋賀県大津市)で馬盗人を射殺した話がありますが、いつのことかはわかりません。武者として摂関家に仕え、左馬助、兵庫允、左衛門少尉、左近将監、民部少輔などを歴任したといいます。

 忠常の乱の後、頼義は武功によって三条天皇の皇子・敦明あつあきら親王(小一条院)の側近(判官代)に任じられます。三条天皇は藤原道長と対立して退位させられ、敦明親王も抵抗しますが皇太子の位を譲り、「小一条院」の尊号を奉られ、上皇に準じる扱いを受けることとなります。しかし道長派からは侮られており、小一条院は家来に命じて道長派の受領に対し暴行を加えさせるなど、しばしば問題行動を起こしていました。そこで頼義が彼の御目付役となったわけです。気性の荒い者同士でウマがあったのか、二人はともに狩猟を行うなど仲が良かったといいます。

 頼義の弟・頼清は関白・藤原頼通の侍所別当をつとめる傍ら、従四位下・中務少輔、安芸守、肥後守、陸奥守を歴任しています。12世紀の聞書集『中外抄』によると、頼信は息子たちを頼通に推挙するにあたり、頼義を武者(武官)に、頼清を蔵人(文官)として用いるよう勧めたといいます。三男の頼季は推挙されませんでしたが、信濃北部の高井郡井上(現長野県須坂市)に所領を得、信濃源氏・井上氏の祖となりました。

 長元9年(1036年)、48歳の頼義は相模守に任じられて都を離れ、ようやく受領となります。彼はこの地で桓武平氏の平直方の娘を娶り、彼の所領と居館があった鎌倉の地を譲り受けました。彼女は長暦3年(1039年)に嫡男の義家(八幡太郎)を、長久3年(1042年)に次男の義綱(賀茂次郎)を、寛徳2年(1045年)に三男の義光(新羅三郎)を産んでいます。当時としても晩婚ですが、庶長子とされる快誉阿闍梨が長元9年(1036年)生まれといいますから、それまでは男児に恵まれなかったようです。

 鎌倉には相模国鎌倉郡の郡衙(郡役所)が置かれ、三浦半島から海路で下総国へ向かう東海道が通り、古くから栄えた地でした。頼義の子孫は桓武平氏の血を受け継ぎ、鎌倉を坂東における拠点とし、東国や奥羽へ進出していくことになります。

奥州六郡

 頼義が相模守となった長元9年(1036年)、安倍忠好ただよしという者が陸奥権守に任じられたと同時代の日記『範国記』にあります。軍記物語『陸奥話記』では陸奥大掾・安倍忠良と記される人物で、奥州安倍氏の祖です。彼のルーツは定かではありませんが、父は忠頼であるといい、阿倍比羅夫や安倍晴明と同じく孝元天皇の子・大彦命の末裔(阿部氏/安倍氏)と考えられます。9世紀後半には安倍比高が陸奥鎮守府将軍として赴任しており、あるいはその末裔や関係者かも知れません。

 8世紀から9世紀まで続いた日本国と蝦夷の戦争の後、日本国は蝦夷の捕虜(俘囚)を内地に移住させて戦力とする一方、陸奥国北部に新たな郡を設置して統治機構に取り込みます。坂上田村麻呂がアテルイ討伐と前後して築いた胆沢城(現岩手県奥州市)と志波城(盛岡市)を中核に、胆沢・江刺・磐井、和我・稗縫・斯波の六郡(奥六郡)が設置され、鎮守府の支配下に置かれます。10世紀には斯波郡北部が岩手郡として分離しますが、磐井郡が国府多賀城領に編入されたため数は変わりません。

 安倍忠良はこの奥六郡に婚姻などを通じて勢力を広げ、蝦夷の有力者(免税特権を持つ蝦夷/俘囚)を従える「俘囚長」の地位につきました。安倍氏のルーツは蝦夷ではないようですが、婚姻を通じて蝦夷の血も入っていたことでしょう。忠良の生没年は不明ですが、子の頼良(のち頼時)の代には最盛期を迎え、出羽の豪族・清原氏や亘理郡の豪族・藤原経清、伊具郡の豪族・平永衡とも婚姻関係を結び、奥羽全体に強い影響力を持つ半独立勢力となっていました。朝廷は鎮守府将軍を介して奥州の馬や砂金を貢納させていますが、安倍氏のもとには中央政府に不満を持つ者たちも多数逃げ込んでおり、交易品を安く買い叩けなくなって出費も馬鹿になりません。

安倍頼時

 永承5年(1050年)、陸奥守として赴任した藤原登任なりとうは、翌年に「安倍氏は代々朝廷への貢納を怠り、衣川の柵を越えて陸奥国衙の領地に勢力を広げようとしている」として、数千の兵を出して頼良を討伐しようとしました。陸奥国衙軍は秋田城介・平繁茂(重茂)を先鋒として進軍しますが、頼良は諸郡の俘囚を糾合して玉造郡鬼切部(現宮城県大崎市鳴子温泉鬼首おにこうべ)で迎撃し、これを打ち破りました。

 ここは陸奥国と出羽国の境に近く、かつて坂上田村麻呂が岩手山に棲む大武丸という鬼を斬った時、その首が飛来したという伝説があります。陸奥国衙のある多賀城から奥六郡(岩手県側)に行くなら北上して一関を抜ければいいのですが、そうしなかったのは正面突破が難しかったためでしょうか。鎮守府将軍は奥六郡側の胆沢城が任地ですが、この頃には赴任しても胆沢城まで赴かず、陸奥国衙にいることが多かったようです。

 敗走した登任は更迭され、63歳の源頼義が後任の陸奥守となります。しかし永承7年(1052年)、後冷泉天皇の祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のため大赦が行われ、安倍氏も罪を赦されました。父・頼信が平忠常と戦わずして勝利したように、頼義も安倍氏と戦わずに済んだのです。頼良は胆沢城に赴いた頼義を饗応し、彼と名が同音であることを憚り頼と改名しました。同年は末法元年にあたりますが、幸い上東門院の病気も平癒し、翌永承8年(1053年)正月には天喜と改元され、頼義は鎮守府将軍を兼ねることとなります。藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立したのもこの年です。

 以後3年間は平和に過ぎましたが、天喜4年(1056年)に事件が起きます。頼義が鎮守府のある胆沢城から国府多賀城へ帰ろうとした途上、阿久利あくと川(現宮城県栗原市一迫いちさこ川)のほとりで野営した時、家来の藤原光貞・元貞が夜襲を受け、人馬に損害が出ました。頼義が光貞を呼んで犯人の心当たりを訊ねると、光貞は「安倍頼時の子の貞任さだとうかと思われます。彼は以前私の妹を妻にしたいと願いましたが、私は『卑しい俘囚にはやらぬ』と断ったことがあります」と答えました。

 貞任は頼時の次男で、岩手郡厨川くりやがわ柵(現盛岡市)に所領があったことから厨川次郎と名乗り、長兄の良宗(安東太郎)が盲目であったことから事実上の嫡男でした。弟の宗任むねとうは胆沢郡鳥海とのみ柵(現岩手県金ヶ崎町)に住んだことから鳥海三郎と名乗り、他の弟たちもそれぞれ柵を拠点として奥六郡各地に割拠していました。

 怒った頼義は頼時に命じて貞任を出頭させようとしますが、頼時はこれを拒絶し、両者の関係が悪化します。頼義は朝廷から宣旨を賜って衣川の関へ兵を差し向け、頼時らも防戦のため再び挙兵しました。また頼時の娘婿である平永衡と藤原経清は衣川の南におり、国府の将として頼義に仕えていましたが、頼時に通じていると讒言され、永衡は頼義に討たれてしまいます。身の危険を感じた藤原経清は「多賀城が襲撃されている」と偽情報を流布し、頼義らが急いで多賀城へ向かった隙に頼時側に走りました。

 この一連の事件は、光貞らの父で陸奥権守の説貞ときさだ誣告による陰謀と思われます。朝廷や奥州における反安倍氏勢力が権益を拡大するために頼義を焚き付け、頼時・貞任らを暴発させたのでしょう。これに乗ってしまった頼義も同罪ですが、勝てば官軍です。しかしこの戦役は康平5年(1062年)まで9年も続き、赴任からの3年を含めて「奥州十二年合戦」とも、「前九年の役」とも呼ばれる長期戦となりました。

◆炎◆

◆立つ◆

【続く】

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