【つの版】ウマと人類史:中世編04・拓跋天子
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
西暦589年、隋の文帝楊堅は陳朝を滅ぼし、永嘉の乱以来270数年ぶりにチャイナの天下を再統一しました。突厥は建国から40年近くを経て東西に分裂しており、隋はその隙を突いて国力を高め、突厥を分断していきます。
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啓民可汗
陳が滅んだ後、楊堅は陳の宮中にあった屏風を突厥の大義公主に贈りました。彼女は北周の皇族(宇文氏)で、580年に突厥の沙鉢略可汗に嫁がされた後、587年に夫が死ぬとレビラト婚で都藍可汗と再婚しています。楊堅は主筋の彼女を煙たがり、隋を建国すると彼女を楊氏と改姓させて大義公主と呼びましたが、突厥からすると楊堅は妻の実家から帝位を奪った男です。
大義公主は楊堅から贈られた屏風に不満をあらわにした詩を書き付け、西突厥の泥利可汗と意を通じて隋を攻撃しようともくろみます。楊堅はこれを聞いて恐れ、都藍可汗に告げて彼女を廃位させようとしますが、可汗は従いませんでした。時に沙鉢略可汗の子の染干は突利(東面)可汗と称して北方におり、隋に使者を派遣して求婚したので、楊堅は「大義公主を殺せば嫁を送る」と約束します。そこで染干は大義公主を誹り、都藍可汗に彼女を殺すよう唆したので、ついに大義公主は殺されました。
597年、隋が染干に対して公主を送ると、都藍可汗は「勝手に隋と手を組んで、わしに大義公主を殺させたな」と怒り、染干や隋と断交します。また西突厥の達頭可汗とも対立するなど孤立を深めました。当然楊堅による離間策です。秦漢以来チャイナには遊牧民対策のノウハウが脈々と受け継がれていますし、北魏・北周・隋も鮮卑系で、相手の気心は知れています。598年と599年、隋は遠征軍を派遣して都藍可汗を攻撃しました。しかし都藍可汗は達頭可汗と手を組んで染干を攻撃し、染干は一族郎党を殺されて僅かな手勢とともに隋へ亡命します。隋は彼を意利珍豆啓民可汗に冊立し、匈奴の呼韓邪単于や南単于のように扱って、突厥の正統な可汗であるとしました。
先に娶らせた隋の公主は死去していたので、楊堅は改めて宗室の娘・義成公主を彼に娶らせ、娘婿扱いとします。都藍可汗は怒って啓民可汗を攻撃しますが、599年12月に部下に暗殺されました。達頭可汗は自ら步迦可汗と号して東西突厥を再統一せんとし、隋と啓民可汗を激しく攻撃しますが、結局撃ち破られて敗走し、まもなく死去したようです。泥利可汗も鉄勒諸族の反乱に遭って殺され、子の達漫が泥厥処羅可汗となって西突厥をまとめようとしますが、隋は諸部族へ根回しして反乱を頻発させます。かくして東突厥はほぼ啓民可汗に従い、隋の属国となりました。
拓跋天子
これに先立つ598年、達頭可汗は東ローマ皇帝マウリキウスに手紙を送っています。それによると、テュルクの最初のカガンはエフタルを駆逐・征服した後、イステミ・カガンと同盟してアヴァール人を隷属させたといいます。これを630年頃に記録したテオフィラクトス・シモカテスは、アヴァール人の起源についてこう記しています。
テュルクがアヴァール人の先祖を撃ち破った時、いくつかはタウガストの住む土地に逃げ込んだ。これは有名な国であり、テュルクから1500マイル離れている。その他のアヴァールは、タウガストに隣接するムクリのもとへ逃れた。
タウガストの君主はタイシャンと呼ばれる。「神の子」に当たる語である。偶像崇拝者であるが法律は公正で、その生活は思慮あふれるものである。その領土は河によって両分されている。この河は過去に於いて、交戦中の二大国の境界線をなした。二大国は、その着衣の色によって区別され、一方は黒、一方は赤である。我々の時代、すなわちマウリキウス帝が君臨せられた時代(582-602)に、黒衣の国はこの河を越えて赤衣の国を攻め滅ぼし、その手に領土を統一した。
タウガストとは、突厥や周辺諸族が北魏や北周・北斉・隋唐を指して呼んだもので、北魏のもとである鮮卑拓跋部の「拓跋」のことです。北周・隋唐の首都である長安(西安市)から、突厥が興ったトルファン北部のボグダ山までは、確かに2400kmは離れています。ムクリとは満洲の勿吉(靺鞨)のこととも高句麗のこととも推測されます。とすると神の子を意味するタイシャンとは「天子」のことでしょうか。
マウリキウス帝の時代に二つの国が統一されたというのは、589年に隋が陳を征服したことを言うのに違いなく、国を両分する河とは長江のことに違いありません。チャイナの情勢は、この時代にはテュルクやソグドを通じて東ローマまで伝わっていたのです。
テュルクのカガンはさらに全てのオグル人を征服した。彼らは巨大な人口と戦闘訓練を積んだ軍勢によって最強の部族であった。その東にはティル(イティル=ヴォルガ)という川があり、テュルク人はメラスと呼んでいる。この種族の最初の指導者がウアルとフンであり、それらの部族のいくつかもそう呼ばれた。ユスティニアヌス帝の時代、これらの部族は逃げ出してヨーロッパに移住した。彼らは自分たちにアヴァールと名付け、君主をカガンと呼んだ。おそらくウアルとフンはオノグルやサビルらフン族と混交し、新しい名をつけたのであろう。
ウアルとはエフタル、フンとはキオニタエのことと思われます。柔然はどちらかと言えば東のモンゴル高原に寄っており、西から突厥が攻め込んでくれば東へ逃げるでしょうから、ヨーロッパへ移動したアヴァールは突厥の西にいたであろうことは想像がつきます。
東戦西乱
この頃、東ローマ皇帝マウリキウスはアヴァール人と激しく戦い、ドナウ川の北まで彼らを追い返しています。アヴァールのバヤン・カガンはこの頃に逝去し、二人のカガンがブレダとアッティラのように並立しました。東方ではペルシア皇帝ホスロー2世と停戦し、西方ではイタリアや北アフリカに総督府を設け、帝国を建て直した彼でしたが、602年にドナウ沿岸の反乱兵を率いたフォカスに殺されます。ホスロー2世はこれを機に東ローマとの戦争を再開し、628年まで続く大戦争が勃発することになります。
一方、タウガストことチャイナでは隋の文帝楊堅が604年に崩御し、子の楊広が即位しました。いわゆる煬帝です。彼は啓民可汗と仲が良く、高句麗の使節に蜜月ぶりを見せつけて威圧したりしていますが、611年から高句麗への大遠征を行って失敗し、隋はたちまち崩壊して行きます。609年に啓民可汗が逝去し、その子・咄吉世が始畢可汗として即位していましたが、隋の崩壊に乗じて615年8月には雁門へ侵入し、一時煬帝を包囲したほどです。
隋末の動乱において、始畢可汗は各地の群盗・群雄へ軍事支援を行い、勝手に称号を授けて服属させています。山西省の軍閥である唐の高祖李淵すらその一人でした。かつて王莽の時やその後の動乱において、匈奴の単于が各地の群盗・群雄を支援したのと全く同じ構図です。柔然も北魏の華北統一を阻むため後秦や夏や南朝を支援しましたし、北魏が分裂した時は柔然や突厥がのしかかって分断統治したほどですから、隋が突厥にしたことをやり返したと言えるでしょう。お互い様です。
唐は突厥の支援や妨害を受けつつも必死で天下統一を進め、突厥へは分断工作や暗殺を仕掛けていきます。619年に始畢可汗が逝去すると、弟が即位して処羅可汗となりますが620年に死去し、弟の咄苾が即位して頡利可汗となります。彼らは啓民可汗の子らですから、隋の皇族や残党を招いて天子とし、唐に圧力をかけます。北斉や北周が滅んだ時も同じようなことをしていますね。
この頃、西突厥では統葉護可汗が即位していました。西突厥は泥利可汗ののち泥撅処羅可汗が即位し、鉄勒諸部族の反乱に手を焼いていましたが、隋の煬帝に招かれて612年に入朝し、曷薩那可汗の称号を賜ったものの本国に戻って来ませんでした(619年に東突厥に殺されています)。国人は達頭可汗の孫の射匱を擁立して可汗とし、619年に彼が死去すると弟の統葉護が立ったわけです。射匱は混乱が続いた西突厥を建て直し、亀茲の北の三弥山に可汗庭を建て、東は金山から西は海(アラル海・カスピ海)に至る西域諸国を服属させていました。
統葉護可汗は武勇と智謀があり、北は鉄勒を併合し、西は波斯を拒み、南は罽賓と境を接し、西域に覇を唱えました。西域諸国の王は突厥の官位を授かり、吐屯に統括されて租税を納めています。彼はまた可汗庭を西へ遷し、もとの烏孫の地、石国の北の千泉に置きました。東突厥と敵対していたため唐とは友好関係を結び、しばしば朝貢しています。
拂突同盟
さらにアルメニアの記録によると、西暦619年にテュルクは30年ぶりにペルシアへ攻め込み、ホラーサーン地方の都市トゥースを攻め落としました。その軍勢はイラン高原を蹂躙し、イスファハーンまで進軍して撤退したといいます。ペルシアとアヴァールの挟み撃ちで弱りきっていた東ローマ皇帝ヘラクレイオスはこれに勇気づけられ、西突厥と結んでペルシアと戦うことを決意したのです。
625年、ヘラクレイオスは使節アンデレを西突厥(あるいはその従属部族であるハザール)に遣わし、カフカース地方への出兵を要請します。カガンのジエベルは了承し、カガンと皇帝はジョージアのトビリシで会見します。皇帝は彼の頭に王冠を載せ、皇女を妃にしようと約束したといいます。627年にはハザールの騎兵4万がカスピ海南西の関門デルベントを攻撃し、アゼルバイジャン北部に攻め込みました。
東ローマ・ハザール連合軍はさらに進撃し、12月にはティグリス川を渡ってニネヴェ近郊でペルシア軍を撃ち破ります。628年1月には帝都クテシフォンを包囲し、ペルシアの大貴族らはホスロー2世を処刑して彼の息子カワードを帝位に擁立すると、東ローマと講和条約を結んだのです。ヘラクレイオスは勝利をおさめ、コンスタンティノポリスへ帰還しました。
しかし同年、西突厥ではクーデターが発生し、統葉護可汗は殺されて叔父に位を奪われます。また混乱に乗じて鉄勒の諸部族が突厥から離反し、唐と結んで可汗をいただき、突厥を大いに悩ませることになるのです。
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【続く】
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