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【つの版】ウマと人類史EX12:河内馬牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本列島には多くの火山があり、各地に火山性草原が形成されました。また山が急峻で頻繁に台風が襲来するため、河川の周囲などにも氾濫原性の草原が形成されます。古墳時代に朝鮮半島からもたらされたウマはこれらの草原に適応し、倭国/日本で急激に数を増やしていくことになります。

◆なんだ◆

◆これは◆

暗土地帯

黒ボク土の分布(赤)

 国立研究開発法人・農研機構のサイトにある「日本土壌インベントリー」によれば、火山性草原を形成する「黒ボク土(アンドソル)」は日本の国土の31%を占めます。九州の中南部、中部地方の山岳部、関東から東北・北海道にかけて広く分布し、中四国や近畿でも火山性地質の付近に存在します。

 これらの地域は土壌が水田農耕に向かないため、弥生文化はこうした地域を避けて、北部九州や瀬戸内、近畿や東海地方の平野部に広がりました。従って黒ボク土地域や山岳地帯には弥生文化があまり入らず、古来の暮らしを続ける人々が住んでいたことでしょう。倭人と呼ばれる民族集団は両者の混成・混血によって形成され、各地に国が成立し、やがてヤマトを盟主とする連合国となります。そしてヤマト王権に服属しない民は土蜘蛛、鬼、蝦夷、熊襲、隼人などと呼ばれ、討伐し服属させる対象とされていったのです。

 南九州の熊襲・隼人、東国や東北の毛人・蝦夷は、ともに縄文以来の文化と血統を色濃く残した集団です。彼らは倭人からウマを導入して火山性草原で飼育し、軍事力をつけてヤマト王権に逆らいました。ヤマト王権は彼らを討伐して服属させ、中央に仕える軍事力とします。しかしその中から武士が出現して地方で自立し、やがて日本を支配する武士の政権「幕府」を樹立するに至るのです。武士の武力、軍事力の源こそウマでした。

河内馬牧

 ヤマト王権そのものは黒ボク土地帯に乏しい近畿地方に成立しています。ウマが伝来する以前、日本列島における倭人諸国の勢力・経済・外交等の都合によりできたためです。最初のヤマト(邪馬台国)の都と推測される纒向遺跡は奈良盆地南東部の三輪山の麓にあり、市場を中心としていました。

 ヤマト王権の成立には瀬戸内の吉備が関わっていた節がありますが、卑彌呼や臺與の没後もヤマト王権は維持されて発展を続け、日本列島の大部分を支配下に治めます。4世紀中頃には外戚の影響によるものか纏向が放棄され奈良盆地北部の佐紀(奈良市付近)に倭王が遷りますが、百済との軍事同盟が締結されると河内に遷ります。河内王朝/河内王権です。いわゆる「倭の五王」を含むという応神天皇から安閑天皇まで、5世紀から6世紀前半にかけての天皇の陵墓とされる古墳は、ほぼ全て河内に存在します。

 この時代は朝鮮半島に倭国が進出し、ウマや牛が渡来人・帰化人ともども盛んにもたらされた頃です。ウマの牧が河内周辺に作られ、馬飼部・鞍作部といった職能集団が組織されたのもこの頃ですし、当時の古墳からは見事な装飾が施された馬具やウマの骨も出土しています。ウマや牛は倭国の軍事力や情報力を高めたばかりでなく、農地を開墾したり運河を開削したり、墳墓を築造したりといった土木作業にも大きなパワーを発揮したことでしょう。河内に全国最大級の前方後円墳があるのはウマのおかげなのです。

 河内国は現在の大阪府の東部ですが、古くは摂津国(大阪府北部・中部および兵庫県南東部)や和泉国(大阪府南部)も含み、のちに凡(おおし)河内国、すなわち「あまねく河内国」と呼ばれた地域です。摂津と和泉が河内から分離されたのは8世紀以後で、河内王権の拠点貿易港であった上町台地(大阪城付近)の住吉津や難波津は、のちの摂津国の領域に含まれます。

 この河内における古い牧として「讃良さららの牧」があります。現在の大阪府四條畷市の全域、大東市の大部分、寝屋川市の一部を含む地域を讃良郡といいますが、そこに牧があったのです。四條畷市の蔀屋北遺跡、中野遺跡、奈良井遺跡からは古墳時代中期のウマの遺骨や馬具が渡来系土器とともに出土しており、実際に馬牧が存在したことが確かめられています。

 ここは奈良盆地と河内平野を分ける生駒いこま山系の西麓で、谷間から流れ出す複数の川が現在は寝屋川、古代には内陸まで海が入り込んだ河内湖(草香江)に流れ込んでいました。従って山と湖、複数の川が天然の柵となり、淡水も草も塩分も豊富にあったため、ウマを飼育するには比較的向いていました。つまり河内の牧は火山性草原ではなく、氾濫原(河原)を利用したものです。仁徳天皇の治水伝説に象徴されるように、河内湖・河内平野には頻繁に洪水が起きるため樹木は生えにくく、森林は発達しません。人々は平坦部・微高地に集落を築いて住み、船で運んできたウマを標高の高い場所へ放牧したわけです。ウマを各地へ輸出入するにも船で運べばよく、難波津や住吉津もすぐ近くにあります。物資や土砂を運搬するにも船とウマを組み合わせて使うことができ便利です。

 7世紀末に在位した女帝・持統天皇は、諱を鸕野讚良うのの・さららといいます。彼女は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后ですが、『日本書紀』天武天皇12年(683年)条に「娑羅羅さらら馬飼造・菟野うの馬飼造」らがむらじかばねを賜ったとありますから、彼らと関係があるようです。菟野とは讃良郡の鸕鷀野邑うののさと、現四條畷市清瀧にあった正法寺の山号「小野山」にあたるといいます。「やまと馬飼造・川内(河内)馬飼造」は彼らとは別に連姓を賜っており、他にもいくつか牧があったのでしょう。

 生駒山とはいかにもウマと関わりがありそうな名ですが、魏志倭人伝に邪馬台国の四官として「伊支馬」とあるのが生駒のことだとすれば、ウマの伝来以前からある地名ということになります。ただ古くからウマが飼育されていたことからウマと結び付けられてはおり、文永6年(1269年)の仙覚による『万葉集註釈』(仙覚抄)にはこうあります。「むかし百済国よりウマをこの国へ献上し、それを秦氏の先祖がよく乗り回した。帝はこれを『いみじき(すごい)もの』だとし『うま』と呼んだ。そして生駒山に放って飼育させた」。延宝7年(1679年)に三田浄久が記した『河内鑑名所記』にも「唐土より和国へ駒が渡来した時、河内の山に放して繁殖させたので、そこを生駒山と名付けた」とあります。

 しかし前述のように『日本書紀』応神紀によれば百済から来たウマを最初に飼育させたのは「軽坂の上の厩」で、現奈良県橿原市の石川町・大軽町にあたり、河内や生駒山ではありません。最初は奈良盆地で飼育させ、やがて河内が便利がいいというので遷ったのでしょうか。

 やまと馬飼部がいるぐらいですから、ヤマト(奈良盆地)にも牧はあったでしょう。4世紀末から6世紀にかけて、奈良県北葛城郡に馬見古墳群が築かれます。被葬者とされる葛城氏は5世紀に倭王の外戚として勢力を強め、朝鮮半島へも派遣されていますが、5世紀中頃に雄略天皇によって粛清されました。葛城氏の同族とされる蘇我氏や、河内の豪族であった大伴氏・物部氏はこの政変以後に倭王権と結びついて勢力を伸ばしています。さらに奈良盆地から離れた山中の宇陀や吉野にも牧があったといいます。

田辺伯孫

『日本書紀』雄略9年7月条に、河内国からの報告書として次のような伝説が記載されています。「飛鳥戸あすかべ郡(河内国安宿郷田辺、現大阪府柏原市国分町)の人である田辺史伯孫たなべのふひと・はくそんの娘が、古市郡(現羽曳野市)の人である書首加龍ふみのおびと・かりょうの妻となった。伯孫は娘が子を生んだと聞いて婿の家に祝賀に赴いたが、月夜の帰り道で蓬蔂丘いちびこのおか誉田陵ほんだのみささぎ(応神天皇陵)の下を通った時、赤い駿馬に乗った者と出会った。

 その馬は大変立派で、伯孫は自分の乗っていた馬に鞭打って競走させたが勝てなかった。相手は伯孫がこの馬を欲しがっていることを知り、彼の馬と交換して立ち去った。伯孫は喜んで赤い駿馬に乗って帰宅し、厩に繋いで寝たが、翌朝になるとそれは土馬(埴輪の馬)に変わっていた。怪しんで昨夜通った道を戻ると、誉田陵の土馬の間に自分の馬が立っていたので、(厩の)土馬と交換して連れ帰ったという」。

 元ネタと思しき話は『宋書』五行志・牛禍条にあり、桓玄が乗っていた牛を謎めいた老人の乗っていた青牛と交換したところ、牛は長江に入って姿を消したという話です。文中では『文選』の「赭白馬賦」という漢詩からの引用が文飾に用いられており、漢文の素養のある人物が手を加えたようです。田辺史氏や書首氏は百済系の渡来氏族で、文書を司る役人(ふみひと/ふひと)でした。名の伯孫も加龍も音読みですから明らかに渡来人です。

 ただ、伯孫という人物が実在したかは定かでありません。秦の穆公に仕えて名馬を見出す術に長けていたという陽はあざなを楽といいますから、それにちなんで作り出された名でしょうか。しかし応神天皇を始めとする河内の倭王たちと百済系渡来氏族、ウマと古墳を繋げる話としては象徴的ではありますね。

 なお平安時代の『延喜式』によれば、河内国には牧がなく、凡河内国から分かれた摂津国の三箇所(鳥養、豊嶋、為奈野)に牧があります。近都牧では他に近江の甲賀、丹波の胡麻、播磨の垂水に一箇所ずつあります。河内や大和の牧は存続していたにしても小規模で、諸国牧からもたらされるウマをストックしておく場所となったのでしょうか。とはいえ河内は古代の軍事豪族・物部氏や、武家の名門「河内源氏」発祥の地であり、弓馬の道をおさめた武家の聖地ではあります。それらについては後で触れましょう。

 さて古事記や日本書紀によれば、天皇家の始祖は日向国、すなわち南九州に天下り、神武天皇が一族郎党を率いてヤマトへ遷ってきたとされます。いわゆる神武東征ですが、南九州が火山性草原に富み、多くの馬牧が存在したことは確かです。推古天皇も蘇我氏を「馬ならば日向の駒」と評したほど、古代から馬飼の盛んな地だったのです。次回はそれらを見てみましょう。

◆Get◆

◆Wild◆

【続く】

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