【つの版】ウマと人類史EX23:兵武士侍
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
天慶3年(940年)、新皇を称した平将門は平貞盛・藤原秀郷らの活躍によって討ち取られました。彼らは朝廷から官位を授かり、子弟を京都に送り込んで貴人の護衛をさせ、権益を維持拡大します。彼らの家門は「兵の家」と呼ばれ、軍事貴族たる武門・武家の名門とされました。
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兵武士侍
平安時代には、戦闘を家業とする者を「つはもの/つわもの(兵)」といい、武力をもって公(大宅/朝廷や国府)に奉仕する者を「もののふ(武士/武者/武人)」といい、貴人に仕えて家政や警固をあずかる者を「さぶらひ(侍)」といいました。各々は別々の起源を持ちますが、次第に混ざり合って行きます。
「つはもの/つわもの」とは「強いもの(物/者)」を意味し、元来は「武器・兵器」を指します(漢語の「兵」も「斧を両手で持つさま」を意味し、元来は武器・兵器のことです)。「もののふ」は古代には物部といい、兵器をもって倭王権に仕え、軍事や刑罰を司る職能集団(部)のことでした。そして「さぶらひ」は動詞「さもらふ」が転じたものです。
監視・防衛することを倭語で「もる」といい、もる役目の者を「もり」と言います。3世紀の魏志倭人伝に「ひなもり(夷守)」の官名が既にあります。「まもる」は「もる」に「目(ま)」を冠したもので、さらに強調して「みまもる(見目守る)」となりました。
「さもらふ」は「もる」から派生した語で「じっと待って様子を伺い続ける」ことを言い、斥候や天候の候を「そうろう」と読むのはその訛りです。そして貴人の傍らに侍って命令を待つ者を「さもらひ」、転じて「さぶらひ(敬っては御侍)」と呼んだのです。鎌倉時代や室町時代に「さぶらい」、戦国時代以後に「さむらい」となりました。
従って「さぶらひ」はもともと武人(だけ)を指す語ではなく、貴人の私的な侍従となっている下級貴族を指します。文人でも「さぶらひ」と呼ばれ得ますが、貴人の傍らに侍って警固するのは武芸に秀でた者ですから、自然と「つはもの」「もののふ」が選ばれたのです。平将門は藤原忠文を私君として仕え、かつ滝口武者として内裏の清涼殿を警固していたため、その時は「もののふ」の「さぶらひ」です。しかし坂東では地方豪族で官位もなく、国府に仕えてもいませんから「つはもの」です。
9世紀以降、清涼殿の南廂にある「殿上の間」に昇れるか否かという身分体系「昇殿制」が設定されます。公卿(位階三位以上と参議)は原則全員、四位以下でも参議と蔵人(秘書官)および勅許を得た者は昇殿でき、これらを「殿上人」「雲上人」と呼びました。これに対し、四位以上や以下でも勅許を得られない者は昇殿できず、「地下人」と呼ばれました。このうち四位や五位の地下人は「諸大夫」といい、中級・下級貴族官人として殿上人に仕え、国司(受領)として派遣され、地方や中央の実務行政にあたりました。本来の「さぶらひ」はこの身分の者やその子弟です。
馬を飼育し弓(武芸)を習い、甲冑を纏って戦うほどの武者は、そこらの農民がおいそれとなれるものではありません。それなりの資本が必要です。ゆえに兵/武者となれたのは代々の土豪やその傍系、あるいは中央から受領として派遣された傍系皇族や貴族の子孫に限られます。彼らは婚姻によって結びつき、私兵(家来・郎党/郎等から成る武士団)を率いて合戦を行い、私的な領土を広げました。そして中央との結びつきによって自らの権益を保証してもらい、見返りに貢納や納税・領地経営を請け負い、武力をもって治安維持活動や護衛(さぶらひ)を行ったのです。
秀郷家門
将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は従四位下・下野守の官位を賜り、ついで武蔵守、鎮守府将軍を歴任しましたが寄る年波には勝てず、『田原族譜』によれば正暦2年[991年]に101歳で、『系図纂要』によれば天徳2年(958年)に(推定67歳で)逝去しました。その子は千時・千晴・千常・千国・千種といい、千常は侍従・源通の娘を母としますが、その他の子らは生母不明です。
千晴は朝廷で登用され、醍醐天皇の皇子・源高明に家人として仕え、相模介まで昇っています。源高明は天慶2年(939年)には26歳で参議に任ぜられ、公卿に列していました。また藤原忠平の子・師輔の娘を娶り、妻の姉は村上天皇の中宮として三人の皇子(憲平・為平・守平)を儲け、高明は中宮大夫となっています。
師輔は960年に、妻安子は964年に相次いで没しますが、高明は康保3年(967年)には右大臣兼左近衛大将に昇り、娘を為平親王に嫁がせました。同年5月に村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)の憲平親王が即位(冷泉天皇)すると左大臣となりますが、師輔の兄・実頼は関白太政大臣、弟・師尹は右大臣に就任して高明を牽制し、東宮には守平親王が立てられます。
安和2年(969年)3月、左馬助・源満仲(経基の子)と前武蔵介・藤原善時らが橘繁延・源連らによる謀反を密告し、右大臣師尹は検非違使を派遣して関係者を逮捕させます。その中に藤原千晴とその子もおり、彼の主君たる源高明も謀反の容疑をかけられ、大宰権帥に左遷されました(安和の変)。千晴は満仲の弟・満季に捕縛されて隠岐に流され、以後の消息は不明です。のち奥州藤原氏は秀郷・千晴の末裔を名乗っています。
千常は父の地盤を継いで坂東に残り、安和3年(970年)には鎮守府将軍に任じられ、のち武蔵介・左衛門尉・美濃守なども務めました。秀郷の年齢を考慮すると、千晴・千常らは将門と同年代かもう少し若く、920年代頃の生まれでしょうか。千常の子・文脩は永延2年(988年)に鎮守府将軍に補任されています。その子孫は坂東や奥羽に広まって佐藤氏・伊藤氏・結城氏などとなり、鎌倉幕府の御家人として栄えました。
貞盛家門
『日本紀略』等によると、平貞盛は天慶4年(941年)に上洛して従五位下・常陸大掾を賜ったのち(『扶桑略記』では従五位上・右馬助)、天暦元年(947年)に鎮守府将軍に任じられ、陸奥国へ赴きました。この地では蝦夷(狄・俘囚)の乱が続いており、貞盛は官符を受けて狄の賊徒・坂丸らを討伐し、同年に陸奥の馬を朱雀上皇に献上しています。9年後の天暦10年(956年)8月には京都で「駒牽」に参加しました。
これは宮中行事の一つで、毎年8月に東国の勅旨牧から献上された馬を内裏南殿で天皇の御前に披露し、公卿らに一部を下賜したのち残りを馬寮や近衛府に分配するものです。一種の軍事パレードで、若い時から馬寮の武官だった貞盛にふさわしい任務と言えるでしょう。
法令集『類聚符宣抄』によると、16年後の天禄3年(972年)に丹波守となり、天延2年(974年)には陸奥守に転任し、貞元元年(976年)には天皇に馬32疋等を献じています。最終的には秀郷と同じ従四位下まで昇り、『系図纂要』によれば永祚元年(989年)に没したといいます。従兄弟の将門と同年代なら80歳過ぎの高齢ですが、系図類には享年60とも69ともあり、とすると天慶3年(940年)には10代前半か20歳の若造です。没年を10年繰り上げて979年とし、享年69歳に合わせると延喜11年(911年)頃の生まれで、将門より8歳年下、天慶の乱の時は30歳前後、956年には45歳前後となります。
貞盛には養子を含めて多数の子がいました。長男の維叙は養子で、藤原忠平の孫・済時の子(庶子?)とされます。済時は天慶4年(941年)に生まれていますから、その子なら960年ぐらいの生まれで、貞盛の孫ほどの年齢です。彼は藤原実資の家人となり、永観元年(983年)に肥前守、のち陸奥守に任じられています。
次男の維将は貞盛の弟・繁盛の子とも言い、天延元年(973年)に右衛門尉から左衛門尉に転じ、のち相模介となり、正暦6年(995年)に肥後守となっています。維将の子・維時は貞盛の養子となり、検非違使・左衛門尉を経て常陸介・上総介まで登りました。三男の維敏はやはり実資の家人となり、天元5年(982年)に衛門尉、正暦4年(993年)に肥前守となりますが、翌年没しました。四男維衡は伊勢平氏の祖で、平清盛は彼の子孫です。
他に繁盛の子で常陸国多気郡を拠点とした維幹、繁盛の孫で鎮守府将軍となった維茂らも貞盛の養子です。特に維茂は貞盛の(養子を含めた)15人目の子であったため「余五将軍」と呼ばれました。彼は陸奥国や下総国などで騒動を引き起こしたものの、藤原道長を後ろ盾として罪を免れ、1014年頃に鎮守府将軍となり、道長にウマや砂金を贈っています。
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将門が藤原忠平を私君としたように、秀郷や貞盛の家門も摂関家など朝廷の有力者を後ろ盾としていました。彼らと並び武門として権勢を誇ったのが源経基の家門、すなわち清和源氏の経基流です。
【続く】
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