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【つの版】ウマと人類史:近世編08・利沃紛争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 モスクワ・ロシアのツァーリ・イヴァン4世は、1552年にカザン・ハン国を、1556年にアストラハン・ハン国を征服し、ヴォルガ川流域を平定してカスピ海北岸まで勢力を広げました。次いでイヴァンは西方に目を向け、バルト海沿岸のリヴォニア地方を巡って大戦争を開始します。

◆愛索◆

◆尼亜◆

利沃紛争

 リヴォニアとは、現在のバルト三国のうちラトビア北東部からエストニア南部にかけての地域で、フィン・ウゴル系のリーヴ人が先住民として暮らしていたことからそう呼ばれます。この地域の歴史を見てみましょう。

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 バルト海の奥にあたるこの地域は、古くからデンマークやスカンディナヴィア、ポーランドやドイツの侵略を受けていました。ヴァイキング/ルーシたちはこの地で交易や掠奪を行い、琥珀や毛皮、奴隷などを獲得し、9世紀頃にはフィンランド湾の奥にラドガやノヴゴロドなどの港町を築いて支配を行っています。河川を通じて交易路は広がり、遠くコンスタンティノポリスやバグダードまで届いています。12世紀中頃、リューベックなどバルト海沿岸の諸都市は「ハンザ同盟」を結成し、この地域への進出を強めました。

 これに対し、土着のバルト諸族やフィン・ウゴル系諸族は従ったり抵抗したりしながら勢力を強めます。最も西に位置したバルト諸族のプルーセン人はキリスト教を受容したポーランドと戦い、古来の神々を戴いてキリスト教化を拒みますし、他の土着民も同様でした。西方から送り込まれる聖職者らは軍事力やカネを背景に改宗を強要しますが、しばしば殺害されています。

 もともとバルト地方はベラルーシ北部にあるルーシ系ポロツク公国のシマでした。キエフ・ルーシやノヴゴロドとは対立しており、992年に東ローマから正教の洗礼を受け、主教座がポロツクに置かれています。しかしキエフ大公やルーシ諸侯との争いで12世紀には衰退し、ポーランドやドイツのカトリック勢力はこれに乗じてバルト地方へ布教の手を伸ばしてきたのです。ポロツク公は援軍を求めてカトリックと手を組み、布教を許可しました。

 1193年、ローマ教皇はバルト海沿岸の異教徒らに対する十字軍の派遣(キリスト教徒による聖戦)を布告し、ドイツ(神聖ローマ帝国)の騎士や聖職者による遠征軍が送り込まれます。地中海で行われた聖地奪還と防衛のための十字軍に対し、これを北方十字軍と呼びます。

 1198年、司教ベルホルト率いる十字軍がリヴォニアに上陸し、ドイツ人の入植者らとともにリーヴ人と戦いますが、激戦の末に追い払われます。翌年司教アルベルトは兵士を募り、1200年にダウガウァ川の河口にある港町リーガ(リガ、「円形」の意)に上陸しました。現在のラトビアの首都です。アルベルトはそれまでリヴォニアの司教座があったイクスキュルという街からリーガに司教座を遷し、十字軍に従った兵士らを修道騎士として「リヴォニア帯剣騎士団」を結成しました。

 彼らはリーガを拠点とする常備軍となり、異教徒たちを征服して勢力を広げ、経済力を強めました。ローマ教皇はこの地を「テッラ・マリアナ(聖母マリアの国)」と名付けて入植者を募り、教皇に従う地域としますが、北部にはスウェーデン王も介入して争いとなります。ポロツク公国はすっかり衰退し、スモレンスクやリトアニアに服属していきました。

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騎士団領

 1236年、リヴォニア帯剣騎士団はリトアニア人に大敗を喫し、翌年ドイツ騎士団に併合されます。彼らは12世紀にパレスチナのアッコンで結成されたドイツ系の騎士修道会で、1230年にポーランド王によりプロイセン地方に呼び寄せられ、この地を領有して異教徒と戦う役目を与えられていました。

 1241年にモンゴル帝国がポーランドへ侵攻した際、ドイツ騎士団はポーランドとともに戦いますが散々に撃破されます。これに乗じてノヴゴロド、プスコフ、リトアニアが勢力を伸ばし、ドイツ騎士団と戦いました。またスウェーデンやデンマークもフィンランド南部やエストニアに勢力を広げ、この地は様々な勢力による争奪の的となります。

 モンゴル軍は遠すぎてここまで来ませんでしたが、ノヴゴロドはモンゴルの後ろ盾を得、かつはハンザ同盟にも加入し、交易によって栄えています。当時のノヴゴロドでは公(クニャージ)の権力が制限されており、大商人らによる議会が国政を担う共和国でした。

 14世紀中頃になると、ポーランドとリトアニアはルテニア(西ウクライナ)を巡って激しく争いますが、14世紀末に同君連合を組んで東欧における最大国となります。またリトアニアの君主はポーランドと同じローマ・カトリックに改宗したため、長年バルト地域を巡ってリトアニアと争っていたドイツ騎士団は「リトアニアの改宗は見せかけだけだ」と言いがかりをつけて戦いを継続しようとします。

 1410年、ポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団と戦い、これを散々に撃破しました。ドイツ騎士団領では支配下の住民による反乱が相次ぎ、ポーランドはこれを支援します。1466年にはドイツ騎士団とポーランドとの間で和約が結ばれ、プロイセンの大部分がポーランド王領や属国となります。

「テッラ・マリアナ」は、この頃多くの封建領地や司教領、都市国家に分かれていましたが、ドイツ騎士団の衰退に伴って自衛のために連帯し、「リヴォニア連盟」を形成しました。これにはリーガ、ドルパト(現エストニアのタルトゥ)、レヴァル(現エストニアのタリン)などの諸都市が加わり、リヴォニア帯剣騎士団の後継組織「リヴォニア騎士団」が軍事を担いました。ほぼ現在のラトビアとエストニアに相当します。

 この頃、ノヴゴロド共和国は東に勃興したモスクワ大公国に圧迫されていました。1456年にはノヴゴロドの自主外交権を放棄するなどの条件を含んだ和平条約を結ばされ、1471年にはポーランド・リトアニアを頼るもシェロン河畔の戦いでモスクワ軍に大敗を喫し、1478年にはついにモスクワによって征服されてしまいます。また1514年、モスクワはリトアニア領の都市スモレンスクを奪い、西方への進出を強めました。

宗教改革

 この頃、ドイツではルターを発端とする宗教改革が起きました。1510年からドイツ騎士団総長(ホーフマイスター、元首)の座にあったアルブレヒトは、1523年にルター派に改宗し、1525年にはドイツ騎士団総長を辞任して、もとの領国を「プロイセン公国」と改めました。そして自ら初代プロイセン公に就任し、世俗諸侯としてポーランド王を名目的な宗主としたのです。

 神聖ローマ帝国領内にあったドイツ騎士団の領土は「ドイッチュマイスター(ドイツ総長)」のヴァルター・フォン・クローンベルクが統治していましたが、神聖ローマ皇帝は彼を新たなドイツ騎士団総長に任命し、騎士団そのものは現代まで存続しています。

 名目的とはいえ、これまでカトリックの騎士修道会だったドイツ騎士団の総長がルター派に改宗し、世俗諸侯となったのですから、国内ではカトリックの聖職者らを中心に混乱が巻き起こります。リヴォニア連盟でもルター派に反対する者、賛同する者が対立し、内紛状態となりました。ポーランド・リトアニア連合もカトリックですが、国内に正教徒やムスリムなどを多く抱えている事情もあり、従うというルター派勢力を排除はできません。

 このような混乱に乗じて、スウェーデン王グスタフがバルト海沿岸に手を伸ばして来ました。デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧三国は、1397年から「カルマル同盟」を結び、デンマークを盟主とする連邦となっていましたが、次第にスウェーデンが独立の動きを強め、1520年にデンマーク王によるスウェーデン独立派の粛清が行われます。この事件で父を殺されたヴァーサ家のグスタフは独立運動の指揮をとり、1523年にスウェーデン国王に選出されてヴァーサ朝を開きました。

 彼は1527年にルター派に改宗し、カトリック教会の土地や財産を没収して国王の権力を強めます。また1537年にはモスクワ大公国との間に平和条約を結びます。しかし1554年に国境を巡る小競り合いからスウェーデン・モスクワ間の戦争が始まり、1557年に和平条約が締結されました。

 この頃、リヴォニア連盟ではルター派とカトリックの対立が深まっていましたが、ポーランド・リトアニア連合はモスクワやスウェーデン、デンマークやドイツなどの介入を防ぐべくリヴォニアに圧力をかけ、リヴォニアとの間に和平条約・軍事同盟を締結します。モスクワは「リヴォニアは1554年の条約で15年間の停戦に同意し、その間はポーランド・リトアニアと同盟しないと誓っている。これは条約違反だ」とし、リヴォニアに対し宣戦を布告しました。長きに渡るリヴォニア戦争の始まりです。

◆瑞◆

◆典◆

【続く】

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