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【つの版】日本刀備忘録15:大太刀伝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。またこの時代には、戦い方や武具にも大きな変化が生じました。

◆刀剣◆

◆乱舞◆


武具変遷

 古来戦場の主役である騎馬武者は、長弓を馬上から射る「弓馬の道(騎射術)」に習熟した弓騎兵で、太刀を振るっての近接戦闘も行ったものの、主力武器はあくまで弓矢でした。ところが『太平記』に描かれる南北朝時代の戦では、打物うちものと呼ばれる近接戦用の武器(太刀・薙刀・槍など)が騎馬武者の主力武器となります。また騎射術が廃れ、武者は馬から降りて矢を射掛ける(歩射)ようになり、多数の歩兵が動員されて戦争の規模が大きくなります。

 これには様々な要因がありますが、鎌倉時代中期以降に御家人が没落していったこと、飢饉や疫病で流民が増加し盗賊化したこと、騎馬武者が戦いにくい市街地や山岳地帯、湿地帯での戦も頻発したことなどがあげられます。馬は維持費がかかりますし、騎馬武者がいかに強くとも、多数の歩兵が囲んで矢を射たり棒で叩いたりすれば倒せます。また没落した御家人や盗賊は徒党を組んで「悪党」となりましたが、彼らは無法者アウトローゆえルールを無視して馬を積極的に攻撃するなど臨機応変に立ち回り、既存の武家を悩ませました。そのため騎馬武者に従うかち武者(歩兵)の数は鎌倉時代よりも大幅に増え、彼らの方が戦場の主役になっていったのです。

 また南北朝時代には打物の大型化が進みました。太刀の長さは通常は3尺(90cm)ほどで、これを超えると大太刀(野太刀)とされましたが、『源平盛衰記』によると武蔵国秩父郡の猛将・畠山重忠は身幅4寸(12cm)、長さ3尺9寸(約120cm)の異様な大太刀「秩父がかう平」を用いたといい、これは備前国の刀工高平の作と推測されます。武蔵国都筑郡の武士団の大将らは長さ4尺6寸(140cm)の大太刀を振るったと記されます。さらに『太平記』では、長さ5尺(150cm)を超える大太刀が続々と現れます。

 高師直の父の従兄弟・大高重成は代々足利家に仕え、5尺6寸(170cm)の大太刀を振るって戦った猛将でした。美濃源氏の長山遠江守(土岐頼元)は長さ5尺の大太刀2振りと刃渡り8寸(24cm)のまさかりを馬上で振るう猛者でしたが、赤松氏範との一騎打ちでは接近戦に持ち込まれて太刀や鉞を活用できず、鉞の柄を斬られて逃げ出しています。大力の剛の者として知られた信濃の武者・禰津(根津)小次郎行貞は6尺3寸(191cm)もの大太刀を用い、伯耆国の山名氏の郎党・福間三郎の太刀は7尺3寸(221cm)に及んだといい、最大で9尺3寸(282cm)の大太刀があったともいいます。

 かくも長大な大太刀が流行したのは、騎馬武者や徒武者を馬で蹴散らしながら薙ぎ払うためでした。重量軽減のため厚みは減っていますが、強度を高めるため身幅(平)が広くなり、大段平おおだんびらと呼ばれました。馬の速度で迫る大太刀の威力は高く、槍や薙刀や鉞の柄を断ち切って無力化できましたが、長過ぎるため鞘から引き抜くのも一苦労で、普段は従者に担がせ、馬上から柄を握って引き抜いたといいます。このため従者がやられると使えず、鞘を捨てて抜身のまま肩に背負っておくしかありません。扱うにも常人離れした膂力を求められるため、大太刀の流行は南北朝時代の間に下火となり、磨上げられて通常の太刀や打刀になるか長巻に加工されました。しかし室町時代や戦国時代にも大太刀を用いた者が確認されています。

大太刀伝

 現存する南北朝時代の大太刀には、戦国時代の越前朝倉家に仕えた真柄直隆が振るったという「太郎太刀」があります。これは熱田神宮に奉納されており、全長10尺=1丈(303cm)、刃長7尺3寸(221cm)、重量は1貫206匁(4.5kg)に達し、追銘に「末之青江」とあることから、備中国の刀工集団「青江派」が南北朝時代後期から室町時代にかけて作成したものと推測されます。刀身には樋を入れて比較的軽量化されており、傷や刃こぼれもあるため実戦で使用されたものですが、常人の膂力では扱えず、用いた真柄直隆は身長7尺(210cm)の巨漢であったといいます。

 直隆の弟の直澄、子の隆基も剛力の巨漢で、同じく大太刀を振るう猛将でした。太郎太刀と同じく熱田神宮に伝わる「次郎太刀」は彼らのどちらかが使用したとされ、長さ8尺余(244.6cm)、刃長5尺5寸(166.6cm)、重量は5kgに達します。柄と刃の比率は1:2で太郎太刀より柄が長く、扱いやすい形となっています。こちらは無銘ですが、後世の鑑定によれば青江派ではなく来派の門人・千代鶴国安の作とされます。江戸時代の『明智軍記』では太郎太刀ともども千代鶴の作とし、太郎太刀は7尺8寸、次郎太刀は6尺5寸で、従僕4名が担いで運ぶものを直隆らは軽々と持ち運んだと記します。

 元亀元年(1570年)、朝倉義景は浅井長政と組んで織田信長・徳川家康の連合軍と姉川で戦いましたが敗走し、直隆らはしんがりをつとめて奮戦するも討ち取られます。直隆を討ち取ったのは家康に仕えていた美濃の武将・青木一重とされ、彼が用いた関の孫六兼元の打刀(16世紀の作)は「真柄切」として知られるようになりました。のち太郎太刀と次郎太刀は熱田神宮に奉納され、現在に至っています。なお加賀国(石川県)白山比咩神社には、行光(相州新藤五国光の弟子)の銘を持つ長さ6尺(186.5cm)の大太刀が伝来しており、これも「真柄大太刀」と呼ばれています。

 また下野国(栃木県)の日光二荒山神社には「祢々切丸ねねきりまる」と呼ばれる無銘の大太刀が伝来しています。これは刀身1丈6寸9分(324.1cm)、刃長7尺1寸2分(216.7cm)、重量24kgにも達し、現存では最大・最重量級の日本刀です。作風からして南北朝時代に備前系の刀工が作ったと推測されますが定かでなく、日光山中の沢に棲む「祢々」という怪物(河童)をひとりでに動いて退治したという伝説からそう呼ばれます。

 江戸時代の伝説では、利根川流域には「禰々子ねねこ」という女の河童が棲んでおり、関八州の河童を支配して暴れまわっていたといいます。妖怪退治の伝説は刀にはつきものですから、何か関係があるのでしょう。

長巻金棒

 長巻ながまきは大太刀から発展した武器で、もとは「中巻なかまき」といい、大太刀の柄を長くし、刀身の中程に太糸や革紐を巻いて扱いやすくしたものです。これなら手元からすっぽ抜けることも少なく、徒武者でも振る・薙ぐ・突くと幅広く使えます。やがて最初からある程度の長さ(3尺程)をもった刀身に、刀身と同じかやや長い柄をつけたものが作られるようになり、「長巻拵えの野太刀」すなわち長巻となったのです。薙刀に似ていますが柄はより短く、雑兵が装備しても馬の脚を薙ぎ払うなどして役に立ったため、室町時代から戦国時代にかけて普及しました。

 またこの時代には「金砕棒かなさいぼう」と呼ばれる打撃武器も用いられました。もとは「撮棒さいぼう」という硬い木の棒で、鎌倉時代に僧侶が用いた杖でしたが、14世紀初頭には播磨など西国の悪党が用いる武器となりました。さらに四角錐形の鋲が埋め込まれたり、鉄のたがや板金で補強されたりした末、完全な鉄製の棒も出現しています。殴れば甲冑の上からでも相当なダメージを与えることができますが、振り回すには相当な膂力が必要で、実戦で使用された例は少ないようです。のち鬼が振るう武器とされ、15世紀末には『鴉鷺合戦物語』という軍記物語に「鬼に金撮棒」というコトワザが記載されています(「鬼に金棒」は江戸時代から)。

 武器の大型化に伴い、武者が補助武器として帯びていた短刀(刺刀さすがも大型化していきます。鎌倉時代には1尺程度の短刀を腰に刺し(腰刀)、これに鍔をつけて打ち合えるようにしたものを打刀うちがたなと呼びましたが、南北朝時代には打刀の寸法が伸び2尺を超えるものも現れ、短刀も1尺2寸前後に伸びました。永禄年間(1558-70年)以後には武家は太刀に代わって打刀と短刀(脇差)の両刀を帯びるようになりますが、それ以前にはまだ一刀であったようです。

◆大◆

◆剣◆

【続く】

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