【つの版】度量衡比較・貨幣159
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1772年、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアの三大国により分割され、領土と人口の1/3を失いながらも緩衝国として存続します。この頃、英国の北米植民地では反課税運動が盛り上がっていました。
◆茶◆
◆会◆
東印制圧
1773年5月10日、フレデリック・ノース首相率いる英国内閣と英国議会は「茶法(the Tea Act、茶条令)」と呼ばれる法令を制定しました。これは英国東インド会社が茶を北米植民地に直接送って独占的に販売することを許可し、その関税を事実上免除すると定めたものです。しかし、なぜこの時期になってそのような法令が定められたのでしょうか。
インドにおけるフランスとの植民地戦争に勝利した英国は、ベンガル太守ミール・ジャアファルを傀儡に据えて莫大な租税をベンガルから徴収していましたが、副太守のミール・カーシムは英国に取り入って実権を握りつつ、軍事力を強化して英国による支配をはねのけようと図りました。1763年にはついに英国との軍事衝突を起こしますが、英国はカーシムの部下を内通させて散々に打ち破り、カーシムはベンガルの北のアワドへ逃れます。
アワド(アヨーディヤー)は現在のウッタル・プラデーシュ州東部、ガンジス川中流域の肥沃な領域で、18世紀にムガル帝国が衰退するとアワド太守(ナワーブ)が地方政権を築き上げました。時のアワド太守シュジャー・ウッダウラは、デリーから逃げてきたムガル皇帝シャー・アーラム2世を戴いて帝国の宰相に任じられており、ミール・カーシムは彼らと連合を組んで英国からベンガルを取り戻そうと図りました。
1764年10月、アワド太守らの連合軍4万はビハールとアワドの境のブクサールで英国軍7000余(うちインド人傭兵6000余)と対峙します。数の上では圧倒的に有利でありながら、例によって内通者が大勢いたため連合軍は散々に打ち破られます。翌年8月、英国東インド会社はムガル皇帝とアラーハーバード条約を締結し、ベンガル・ビハール・オリッサの三州に対する行政権・徴税権(ディーワーニー)などを獲得しました。またアワド太守は賠償金として500万ルピーを支払うよう定められます。
代わりに英国からはムガル皇帝に対し年額260万ルピーの歳幣(年金)が送られ、アワド太守から割譲されたアラーハーバードとコラーの両区域を譲られます。ベンガル太守は租税収入を失う代わり英国から年金が支給され、名目的な統治者の地位を保ちました。ここに英国東インド会社はインド東部に広大な領土を獲得し、2000万人に及ぶインド人を統治することになったのです。当然収入も増えていい事ずくめかと思いきや、そうはなりません。
英国東インド会社の勢力拡大に伴い、その株式は英国では投機の対象となって高騰し始めます。同社の株式配当率は、従来は出資金の7-8%程度でしたが、1771年には12.5%まで引き上げられます。また徴税や行政などの業務は僅かな数の英国人が行うのは物理的に不可能であるため、現地の官僚や徴税請負人が業務を継続しましたが、集まった租税のうち大部分は獲得した領土を防衛する軍事費に注ぎ込まざるを得ず、会社としては思ったほどの利益とはなりません(社員たちは個人貿易でインド成金=「ネイボッブ」になりましたが)。主要な輸出品であったチャイナ産の茶には英本国へ輸出する際に25%もの関税がかけられ、オランダ商人が密貿易を行っていたために売れなくなります。さらに1769年から1773年にかけて、ベンガル地方では旱魃により大飢饉が発生し、東インド会社の経営は破綻寸前となりました。
1773年、英国東インド会社取締役会の決定に基づき、マドラス・ボンベイ・カルカッタの3つのインドにおける英国の植民地が統合され、ベンガル(インド)総督府が置かれました。初代総督に任命されたウォーレン・ヘイズティングズは英国政府のもとで組織改革を進め、現地の代理人に委任されていた行政・徴税・司法権を英国人が直接行使すると定めます。そして同社の財政再建のため、英国議会は「茶法」を制定し、余剰在庫を北米植民地に安く売りつけて処分できるように図ったのです。しかし、これはくすぶっていた北米植民地人の反英感情に油を注ぐことになりました。
茶会事件
1770年のボストン虐殺事件により、英国議会は北米植民地への課税を行う「タウンゼンド諸法」の一部撤廃に応じました。しかし「英本国の議会が北米植民地へ課税する権利」を主張するため茶税などは据え置かれ、茶葉1ポンドあたり3ペンスの税金を徴収すると定めています。この税収は北米植民地の総督や判事の給与になっていたため、廃止すれば総督も判事も植民地に強く出られず、英本国による支配力が低下してしまいます。
ゆえに「茶法」では、英国東インド会社が茶を輸出する時にかかる関税は事実上撤廃したものの、北米植民地で茶が購入する時にかかる税は据え置かれました。しかし法的に正規に輸入される茶の価格自体は密輸される茶よりも安くなるのですから、自然と安い茶を買うようになるはずです。
しかしながら、これは茶の密輸で儲けていた商人たちを激怒させます。またそうでない植民地人も、英国議会が植民地に相談なしに独占的な専売権を東インド会社に与え、かつなし崩し的に「代表なしの課税」を定着させようとしていることに憤激しました。しかもその税は植民地総督と判事の給与となり、英本国による植民地支配を強化するために使われるというのです。かくて各地の港で抗議行動が行われ、茶を積んだ英国船の乗員や現地の荷受人(委託販売業者)たちは身の危険にさらされるようになります。
1773年12月、北米植民地の急進的市民組織「自由の息子達(Sons of Liberty)」はボストン港に集結し、茶を積んだ英国船の関税支払いを妨害しようとしました。総督が事態を収拾しようと図る中、彼らの一部はアメリカ先住民モホーク族の戦士に仮装し、夜に停泊中の船舶3隻に忍び込むと、342箱(9.2万ポンド重≒46t、9659ポンド≒9億6590万円)もの茶を全て海に投げ込んでしまいました。これがいわゆる「ボストン茶会事件」です。
この暴挙に対し、翌1774年4月に英国議会はボストンが属するマサチューセッツ湾植民地に対して懲罰的な諸法を成立させます。すなわち東インド会社へ弁償を行うまでボストン港を閉鎖し(ボストン港法)、同植民地の自治を制限して直接英国政府の支配下に置くよう定める(マサチューセッツ統治法)ものです。また同植民地の役人が告発された場合は他の植民地や英本国で「公正な」裁判が受けられるとする裁判権法、北米全植民地の総督が英国軍の兵士に建物を提供できるとする新宿舎法、ケベック植民地の領土を拡大してフランス系住民に有利な改革を行うケベック法なども制定されました。
これに対して北米植民地は大いに反発し、1774年9月に13植民地のうちジョージアを除く12植民地の代表がペンシルベニアのフィラデルフィアに集合して「大陸会議」を開催しました。急進派は一連の英国による懲罰的諸法を「耐え難き諸法」と呼び、植民地人の自治と主権を侵害するものだと訴えます。これにより12植民地は英国製品のボイコットを行うこと、1年後に「耐え難き諸法」が撤廃されなければ英国への商品輸出も停止すること、マサチューセッツが英国に攻撃されれば支援することで合意します。大西洋を挟んで英国と北米植民地の対立は深まり、翌年には独立戦争が始まります。
◆茶◆
◆会◆
【続く】
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