【つの版】倭の五王への道19・興と武
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
讚(履中天皇)、珍(反正天皇)に続き倭国王となった濟(允恭天皇)は、劉宋から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」の称号を獲得し、臣下の23人にも将軍号や郡太守号などを与えられました。だいぶ前進しましたが、都督号に百済は含まれず、官位も百済王や高句麗王より下で、対高句麗同盟の盟主としてはいまいちです。劉宋も北魏に押されてジリ貧ですし、どうしたものでしょうか。
◆武◆
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北魏と劉宋
まずはチャイナの状況を見ます。450年から翌年にかけて劉宋を攻め、河南と山東を奪った北魏の太武帝ですが、国内はなお不安定でした。451年6月、皇太子の晃が24歳で病死します。宦官の宗愛が皇太子と仲が悪く、盛んに誹謗中傷を行ったせいですが、処罰を恐れた宗愛は452年2月に太武帝を弑殺してしまいます。彼は太武帝の末子・余を擁立して傀儡とし専権を振るいますが、同年10月に余が逆らうとこれも弑します。
見かねた群臣はついに宗愛を殺し、晃の子で太武帝の孫である濬を擁立しました(高宗・文成帝)。13歳の文成帝は外征をやめ、国内安定に力を尽くします。また道教を重んじ仏教を弾圧した太武帝の路線を変更し、仏教を奨励して皇帝の求心力を高め、山西省大同市に雲崗石窟寺院を開かせています。
文成帝の皇后は、北燕最後の君主・馮弘の孫娘です。465年に文成帝が崩御し皇太子の弘(顕祖・献文帝)が即位しますが、馮太后と対立して471年に退位させられ(476年に毒殺)、子の宏が5歳で即位します(高祖・孝文帝)。馮太后は彼の後見人として実権を握り、490年に崩御するまで北魏に君臨しました。その政治手腕は卓越しており、同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制などの政治改革を行っています。
劉宋では、文帝が453年正月に皇太子の劉劭に弑殺されますが、弟の劉駿(世祖・孝武帝)に打倒されます。彼は12年在位して中央集権を進めたものの、多くの皇族を粛清し重税を課しました。464年に孝武帝が崩御すると子の子業が即位しますが、猜疑心が強く皇族や臣下を次々と処刑したため、466年に弑殺されて文帝の子劉彧が擁立されます(太宗・明帝)。しかし孝武帝の子劉子勛が尋陽(湖北省黄岡市)で皇帝を称し、各地の将軍もこれに呼応します。蕭道成らの活躍で年内に鎮圧したものの、淮河以北の劉宋領は北魏の手に渡り、明帝も暗愚で国庫を傾けた末、472年に崩御しました。
20年間に北魏や劉宋では5人(劉子勛を含めれば劉宋は6人)も皇帝が代わる有様で、親子兄弟が殺し合う末法的状況ですが、新興国の北魏に比べて劉宋の方が腐敗は激しかったようです。
高句麗と百済
朝鮮半島ではどうでしょう。高句麗は455年、459年と劉宋に朝貢し(後者は粛慎氏の朝貢ですが地理的に高句麗を介しています)、463年(大明7年)には征東大将軍から車騎大将軍・開府儀同三司に栄進しています。征鎮安平の四方将軍号より位は高く、中央政府の大臣に匹敵する名誉称号です。その後も高句麗は劉宋への朝貢使節を毎年送り、友好関係を保っています。
北魏とは関係が悪化しました。北魏の実権を握る馮太后にとって、高句麗は祖父を殺した仇でもあります(馮氏北燕を滅ぼしたのは北魏ですし、馮太后の父は北魏に亡命していますが)。献文帝の時、馮太后は高句麗に王女を送るよう求めましたが、高句麗王は言葉を左右にして送りませんでした。
百済では毗有王(餘毘)が薨去し(『三国史記』によれば在位28年目、西暦455年)、子の蓋鹵王(餘慶、近蓋婁王)が即位しました。457年には劉宋へ遣使して除授を求め、父の官爵を継いでいます。458年には再び劉宋へ遣使し、冠軍将軍・右賢王の餘紀ら11人の将軍号を求め、許可されました。倭王に負けじと百済王も王族・臣下へ名誉称号をばらまいたのです。ただ『三国史記』蓋鹵王紀にこの時の朝貢は記載されておらず、14年目まで空白です。
左賢王・右賢王は匈奴の国制において単于(君主)に次ぐ称号で、左賢王は太子、右賢王は単于の弟が任命され、単于が南面して左(東)と右(西)に領地を持ちました。百済でも左賢王に餘昆、右賢王に餘紀と王族が任命されており、夫余や高句麗を介して匈奴の制度が伝わっていたのでしょうか。
なお新羅は、『三国史記』によれば訥祇王が在位42年で薨去し(458年)、子の慈悲王が即位しました。在位2年、5年、6年と倭人に襲撃されており、都度撃退したと書かれています。この頃の新羅は百済と関係を修復し、高句麗や倭国の圧力に対抗しようとしていたようです。
倭王興・安康天皇
倭国はどうしていたでしょうか。『宋書』にこうあります。
倭国王が代替わりしています。称号は濟の時から後退して珍の時に戻っており、安東将軍・倭国王だけです。百済とのバランスを鑑みて、あまり倭国をつけあがらせるとまずいと劉宋側が判断したのでしょうか。
濟が記紀でいう允恭天皇だとすると、興はその子である安康天皇(穴穂、アナホ)にあたります。和風諡号はなく諱そのままで、奈良時代に淡海三船がつけた漢風諡号である「安康」も、おそらくはアナホの音をもじったものに過ぎません。つまり実在性が強い存在です。
彼は允恭天皇の第二子(または第三子)で、母は忍坂大中姫です。父が在位42年で崩御すると、皇太子の木梨軽皇子を殺し(または伊予国へ流し)皇位についたとされます。そして宮を丹比柴籬宮ないし遠飛鳥宮から石上穴穂宮(天理市田町か)に遷しました。
この時、弟の大泊瀬(オホハツセ)皇子は反正天皇の皇女らを娶ろうとしましたが、彼女らは皇子が暴虐で殺人をよく行うので恐れ、逃げ去ってしまいます。天皇は叔母の草香幡梭姫皇女を彼に娶らせようと坂本根使主を遣わしたところ、皇女の兄大草香皇子は喜び、宝物と共に妹を献上します。しかし根使主は宝物に目がくらみ、天皇に「皇子は断りました」と嘘の報告をします。怒った天皇は大草香皇子を誅殺し、彼の妃の中蒂(なかし)姫を自らの皇后に迎え、草香幡梭姫皇女を大泊瀬皇子に娶らせました。
中蒂姫は前夫との子である眉輪(まよわ)王を連れて宮中に入りましたが、彼はまだ6歳でした。翌年、眉輪王は偶然に天皇が実父の仇であることを知り、母の膝枕で寝ていた天皇を刺殺しました。即位からわずか3年でした。享年は古事記に56歳とあります。陵は菅原伏見陵で、宮内庁は奈良市宝来城跡としますが古墳ですらありません。近くの兵庫山古墳ともしますが直径40mほどの円墳で、倭国王としてはしょぼいものです。
倭王武・雄略天皇:年代推定
大泊瀬皇子は兄弟たちを黒幕ではないかと疑い、問われて沈黙を守った八釣白彦皇子を斬り殺します。坂合黒彦皇子も沈黙しましたが、実行犯の眉輪王は「ただ親の仇を討っただけです」と答えます。黒彦皇子は恐れて眉輪王と共にその場を脱出し、葛城円大臣の屋敷に逃げ込みますが、大泊瀬皇子は火を放って三人とも焼き殺しました。また大泊瀬皇子は市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子をも殺し、11月に即位しました(元年は翌年)。これが雄略天皇(大泊瀬幼武天皇、オホハツセ・ワカタケ)です。
宋書に「興死、弟武立」とあり、興を安康とすれば武は雄略ですが、いつ興が死に武が立ったのか判然としません。日本書紀の年代では安康元年の干支を甲午としますが、これは西暦454年にあたります。雄略元年は丁酉で457年です。濟の進号は451年、興の朝貢は462年、武の朝貢は477年ですから、興の在位期間は最長で452年から476年の25年にもなりますが、462年時点ではまだ「王世子」です。この前年に即位して倭国王の爵号を求めたものと思われ、日本書紀の即位年代は6年ほど早く、在位3年とすれば463年頃に弑殺されたわけです。とすると、武は即位後15年近くも朝貢していません。
雄略の在位年は23年で、日本書紀の年代上は西暦457年から479年までとなります。元年が464年なら23年在位すれば487年ですが、あるいは在位年数を削って464年から479年まででしょうか。兄安康が享年56歳なら、雄略も即位時推定50代で、享年60代から70代となります。しかし允恭が400年頃の生まれで61歳頃まで生きたとすれば、安康は420-30年頃の生まれで30-40代、弟の雄略は20-30代で即位して40-50代で崩御したことになります。安康も雄略も結婚前でしたから、結構若くして即位したのかも知れません。
古事記では「124歳で己巳年(489年)の8月9日に崩御した」としますが、信じ難い長寿です。允恭紀には允恭7年に皇后の忍坂大中姫が大泊瀬皇子を産んだ時、父が浮気相手の弟姫(衣通郎姫)のもとにいたため、皇后が怒って産屋に火を放ち焼け死のうとした伝承があります(なんでよく家を焼こうとするのでしょうか)。これに基づけば、允恭は在位42年ですから雄略即位は42-7+3=38歳頃で、23年在位すると60歳過ぎになりますが、允恭(濟)の在位年代が怪しいうえ、この話も怪しいので疑わしいものです。
ところで、日本書紀に使用されている暦は2種類あります。月朔干支(月初の日の干支)の計算から、安康3年(456年)以後持統5年(691年)までは、554年に百済から輸入された劉宋の元嘉暦(宋での使用期間は455-509年)を用いています。持統天皇は697年孫の軽皇子(文武天皇)に譲位しますが、日本書紀の記録はそこで終わっています。持統6年から11年まで(696年)、及び文武元年(697年)に始まる『続日本紀』では、唐の儀鳳暦(麟徳暦、唐での使用期間は665-728)が新たに使われています。持統4年から11年までは元嘉暦から儀鳳暦への移行期間で併用されていましたが、文武元年からは正式に儀鳳暦が採用され、元嘉暦は廃止されました。
しかし、神武天皇が東征に出発する年(西暦紀元前667年)から安康2年(西暦455年)までは、元嘉暦ではなく儀鳳暦で計算されています。百済は元嘉暦を用いていましたから、百済系の史料に拠ったであろう雄略以後が元嘉暦なのはわかりますが、それより前が唐代の暦なのは時代錯誤です。
日本書紀の和歌・訓注仮名の読みも、雄略紀から崇峻紀(456-592年)、皇極紀から天智紀(642-671年)までは唐代の正音(漢音)ですが、安康以前や推古・舒明紀(593-641年)は百済系の呉音です。文体上も両者の差は大きく、編纂・述作の担当者が途中で代わったとしか思えません。詳しくは下の書籍を参照して下さい。
要するに、天武天皇による国家事業として国史が編纂された時、雄略天皇の即位から書き始められたのです。しかし途中で担当者が代わり、神代から安康に至る記述が後から加えられ、儀鳳暦採用後の文武天皇の時代に編纂されたわけです。チャイナの史書、百済や新羅、高句麗、任那の史書、倭国改め日本の先行史書も参考にされたでしょう。ただ暦のすり合わせを訂正するまでには至らず、ちぐはぐな状態で完成してしまったのです。
そうしたわけで、雄略天皇の年齢や年代はともかく、正史の最初に置かれるべき重要な存在であったことがわかります。彼以前が空白だったとか新王朝を立てたとかではなく、彼の時代になにか重大なことが起きたのです。また455年に宋で元嘉暦が採用された直後、457年の百済の遣使が元嘉暦を持ち帰ったとすれば、百済系の史官が雄略天皇(倭王武)の即位年をそれにあわせて少し遡らせたのかも知れません。新時代の到来です。
百済滅亡
興が安東将軍・倭国王となったのが462年ですが、次に倭使がチャイナに送られたのは477年で、15年もの歳月が過ぎています。この間に何があったのでしょうか。チャイナと半島の470年頃までの情勢は上で見ました。
『宋書』夷蛮伝東夷百済条は、「太宗泰始七年(471年)、又遣使貢獻」で終わっています。太宗・明帝はこの翌年の4月に崩御し、皇太子の昱が9歳で即位します。しかし幼くして暴虐で、側近も専権を振るい、皇族や政敵を次々と粛清しました。473年と476年には皇族を頂く大規模な反乱が起こり、将軍の蕭道成がこれらを鎮圧します。皇帝は彼をも殺そうとしたため、477年に蕭道成に殺され、弟の劉準が擁立されて蕭道成が実権を握ります。昱は死後に蒼梧郡王へ格下げされ、劉子業を前廃帝、昱を後廃帝とも呼びます。
このような有様ですから、百済は472年ついに劉宋を見限り、建国史上初めて北魏へ使者を送りました。『魏書』百済伝にこうあります。
上述のように、北魏の実権を握る馮太后の祖父は高句麗に殺されています。それを抜きにしても北魏と高句麗の関係は悪化しており、百済はそこへつけ込んだ形です。倭国が劉宋に求めるのは半島南部の権益ばかりで、百済を属国扱いしますし、高句麗と戦って勝ったためしがありません。劉宋は高句麗を優遇し、百済を支援して高句麗と戦おうという気は毛頭ありません。このまま高句麗に服属するよりは、と大胆な外交政策の転換に出たのです。
百済は高句麗を悪罵し、劉宋や蠕蠕(柔然)と組んで北魏に逆らっているとか北魏からの亡命者を虐殺したとか、有る事無い事を吹き込みます。北魏も遠路遥々来た使者を喜び、邵安を返礼の使者として百済へ送ります。百済から北魏へは山東半島を経由したのでしょうが、邵安は高句麗を通り、高句麗王を問責するという危険な役目を与えられました。
当然高句麗は使者を国境に入れず、邵安は北魏へ帰還します。この事は高句麗を無用に刺激し、百済への報復措置を招くだけでした。475年、北魏は黄海経由で邵安を百済へ派遣しますが、暴風に遭って到達できませんでした。『魏書』百済伝はここで終わっています。そして、北魏が百済の期待通りに高句麗を攻撃することもありませんでした。
こうなると、あとは火を見るより明らかです。
長寿王63年・蓋鹵王21年は西暦475年です。蓋鹵王紀にはぐだぐだと言い訳がましく「これは高句麗の陰謀だ!」と作り話を書き連ねていますが、長寿王紀は極めてシンプルです。百済の首都・漢城(ソウル)は高句麗軍に攻め落とされ、蓋鹵王(扶餘慶)は殺されました。建国以来130年にして、百済はここに一旦滅亡したのです。
◆滅◆
◆亡◆
【続く】
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