【つの版】度量衡比較・貨幣127
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
17世紀末、英国ではイングランド銀行の創設と銀貨の大改鋳により、相次ぐ戦乱で破綻しかけた国家財政を再建しようとしていました。しかしまもなく欧州では大戦争が再開します。すなわちスペイン継承戦争です。
◆西◆
◆班◆
帝国嵐前
1697年に大同盟戦争が、1699年に大トルコ戦争が終結しましたが、戦乱の火種は残り続けました。フランス国王ルイ14世が実質的な敗戦を認めて各国と講和したのは、次に備えるために過ぎなかったのです。
16世紀以来、スペイン(カスティーリャ・アラゴン連合王国)およびナポリ・シチリア・サルデーニャ・ミラノ・ブルゴーニュなどの君主位は、スペイン・ハプスブルク家(アブスブルゴ家)が継承していました。これは神聖ローマ皇帝を世襲するオーストリア・ハプスブルク家の分家ですが、欧州の外の南北アメリカやフィリピンに及ぶ広大な植民地をも領有し、1580年からはポルトガルの王位も兼ねて「太陽の沈まない帝国」を築いていました。
しかし1640年にポルトガルが独立してから国力は衰退し、1665年に即位した国王カルロス2世は代々の近親結婚のため虚弱体質で、精神的にも不安定であり、跡継ぎは望めない状態でした。母のマリアナが長年摂政をつとめたものの、カルロスの崩御でお家が断絶する前に本家のオーストリア・ハプスブルク家から養子をもらうのが一番いいのですが、敵国フランスからすれば両家の結びつきが強まるのは大変困ります。
時のオーストリア・ハプスブルク家当主にして神聖ローマ皇帝は、マリアナの弟レオポルト1世です。三十年戦争により帝国は荒廃し、ハプスブルク家も勢力を弱めていましたが、1683年に第二次ウィーン包囲を撃退するとポーランド・ヴェネツィアと手を結んでオスマン帝国へ猛攻をかけ、ハンガリーなどを奪還する功績をあげました。中東欧の大国として復活せんとするハプスブルク家を抑えるため、フランスはドイツに侵攻したわけです。
1668年、レオポルトはルイ14世とスペイン分割条約を結び、カルロス2世崩御後のスペイン領の配分を取り決めていましたが、1672年にフランスがオランダに侵攻すると反故にします。仏蘭戦争終結後、ルイ14世はスペインとの関係修復のため姪マリー・ルイーズ・ドルレアン(王弟フィリップの娘)をカルロス2世に嫁がせますが、カルロスは彼女との間に子を儲けることができず、1689年にマリーは26歳の若さで死去します。
この頃フランスは大同盟戦争のさなかで、摂政王太后マリアナ率いるスペイン政府はカルロスの後妻として、フランスと戦争中のプファルツ選帝侯の娘マリア・アンナ(マリアナ・ネオブルゴ)を迎えます。彼女の姉エレオノーラは皇帝レオポルト1世に嫁いでいますから、彼女は皇帝と王太后にとって義妹にあたるわけです。しかし彼女もカルロスとの間に子を儲けることはできず、実家から連れてきた家臣を重んじたため王太后とも対立しました。
ルイ14世はこうした情勢を好機とし、スペインやオーストリアの宮廷に働きかけてスペイン王位の継承を狙います。彼の母アンヌはスペイン国王フェリペ4世(カルロス2世の父)の姉、王妃マリー・テレーズはフェリペ4世の娘ですが、両者とも王位継承権は放棄していました。しかしスペイン王位を継承すれば、フランスは宿敵ハプスブルク家を弱体化させたうえ広大な領土と権益と富を獲得できるのですから、狙わぬ手はありません。
継承問題
1696年に摂政王太后マリアナが崩御すると、スペイン王位継承を巡る争いはますます激しくなります。ルイ14世はトレド大司教ポルトカレッロを支援し、王太子(グラン・ドーファン)ルイを次のスペイン国王に推薦させますが、フランスとスペインが事実上の同君連合となることには反発も大きく、特に皇帝レオポルトは猛反対しました。皇帝が継承する手もありますがスペインからの反発が強くなりますし、彼の子か孫を立てればよさそうです。
白羽の矢が立ったのは、1692年にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの子として誕生したヨーゼフ・フェルディナント(スペイン名ホセ・フェルナンド)です。彼の母マリア・アントニアは皇帝レオポルトの娘で、その亡母マルガレーテ・テレジア(マルガリータ・テレサ)はレオポルトの皇后であり、スペイン国王フェリペ4世とマリアナの娘であって、カルロス2世の同母姉にあたります。ヨーゼフの父はバイエルンのヴィッテルスバッハ家ですが、母方はハプスブルク家であり、皇帝レオポルトの孫であって、スペインの王位継承権もあるというわけです。
大同盟戦争終結の翌年、英国とオランダは欧州の安全保障のために共同でこの問題の仲介を行い、関係各国との間にハーグ条約を締結します。これは広大なスペイン領の分割相続案で、ヨーゼフ(ホセ)がスペイン王位継承者(アストゥリアス公)として大部分を相続する代わりに、フランス王太子ルイがナポリ・シチリア・トスカーナを、レオポルト1世の次男カールがミラノを継承するというものです。ところが翌1699年に肝心のヨーゼフが天然痘で夭折し、条約は反故となってしまいました。
英国とオランダは翌1700年に第二次スペイン領分割案を提示し、レオポルトの次男カールをスペイン王位継承者とすること、フランスはスペイン王位継承権を放棄する代わりにナポリ・シチリア・トスカーナ・ロレーヌ等を獲得すること、ロレーヌ公は代わりにミラノ公位を得ることとされます。しかしレオポルトは分割案そのものに反対し、カルロス2世も難色を示します。
同年11月、カルロス2世は危篤状態に陥り、「アンジュー公フィリップ(王太子ルイの子、ルイ14世の孫)に王位を譲る。遺領は分割せぬこと。これを拒めばレオポルトの次男カールに譲る」と遺言して崩御しました。ルイ14世はこれを支持し、孫フィリップをフェリペ5世として即位させます。彼はフランスの王位継承権も放棄していませんでしたから、このままではスペインはフランスに併合されてしまいます。
ルイ14世はオランダへの牽制として南ネーデルラントにフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスに譲渡させます。また英国に対しては反ウィリアム派/ジャコバイトを支援して牽制し、北イタリアにもフランス軍を差し向けました。これに対し、英国・オランダおよびオーストリア・ハプスブルク家は1701年にハーグにおいて対フランス大同盟を再び締結します。
同年、皇帝レオポルトは次男カールのスペイン王位継承を主張し、名将プリンツ・オイゲンに兵を授けてミラノへ派遣します。ここに13年に渡るスペイン継承戦争が勃発したのです。
◆Franz◆
◆Ferdinand◆
【続く】
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