見出し画像

【つの版】日本刀備忘録29:大江坂関

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 朝廷の権威と権力が衰えた鎌倉時代には、坂上田村麻呂や源頼光ら過去の人物にかこつけて、武士が邪鬼や土蜘蛛を退治するという新たな神話伝説が流布し始めました。壇ノ浦で草薙剣が失われ、武士が日本国の実権を握る存在となったため、彼らの正統性を担保する物語が必要になったのです。

◆Demon◆

◆Devil◆


大江坂関

 前回見たように、源頼光・渡辺綱らが刀剣を振るって都を騒がす童形の鬼を退治するという酒天童子伝説の筋書きは、鎌倉時代の『古今著聞集』の鬼同丸退治、『源平盛衰記』の橋姫・山蜘蛛退治が元になっているようです。しかし鬼同丸は鞍馬寺への道中で討たれ、山蜘蛛は北野の古塚で滅ぼされ、橋姫は腕を斬られたものの退治はされず、腕を取り戻して愛宕山へ飛び去っています。北野はともかく鞍馬も愛宕も都の北の山中ではありますが、大江山はまだ出てきていません。では、なにゆえ新たに酒天童子という鬼が生まれ、大江山にいたとされたのでしょうか。そも大江山とはどこでしょうか。

 大江山と呼ばれる山は2つ存在します。現在有名なのは京都府丹後半島の付け根にある大江山連峰(最高峰は832mの千丈ヶ嶽)ですが、古代・中世において「大江山」といえば山城国と丹波国の境、京都市西京区と亀岡市の間に位置する大枝おおえのことです。ここには古来「大江の坂(老ノ坂)」と呼ばれる峠があり、山陰道の起点として関所(大江関)が置かれました。西は丹波国の亀岡盆地、東は京都盆地に至る要衝です。

 平安京のある山城国には、「四堺」と呼ばれる4つの重要な関所がありました。西が丹波との境で山陰道の起点である大枝、南が摂津との境で山陽道の起点である山崎(京都府大山崎)、東が近江との境で東海道と東山道の起点である逢坂(滋賀県大津市逢坂)、北が北陸道の起点である和邇(大津市和邇、比叡山西麓の八瀬を北上し大原から琵琶湖西岸に出たところ)です。

 これらは平安京と地方を結ぶ物流の要衝であるとともに、外敵や穢れが都へ侵入するのを防ぐ場所とされ、朝廷の陰陽師らにより穢れを外へ追い出すための祭礼「四境祭」が行われていました。ゆえに鬼が屯すにはふさわしい場所でしたし、現実的にも都に集まる貢税や旅人を狙う盗賊が山中に潜んでいたのです。『今昔物語集』にも前述の通り、大江山を通る旅の夫婦が盗賊に騙され襲われた話が収録されています。酒天童子は伝説としても、頼光・保昌ら武者が実際にこうした盗賊を討伐していたことはあり得るでしょう。実際「酒呑童子の首塚」と称されるものも存在し、祀られています。

 また酒天童子が活動していたとされる一条天皇の正暦4年(993年)から長徳元年(995年)にかけて、歴史上では痘瘡(天然痘)の大流行が起きています。正暦5年(994年)には京都に死者が満ち溢れ、翌年にかけて多数の公卿・貴族も命を落としており、「都の内外で貴賤を問わず姿を消す者が多かった」というのは、この惨事を鬼のしわざとみなしたものでしょう。疫病はチャイナから九州を経て東へ広まったようですから、まさに大江山や摂津から都へやってきたのです。安倍晴明も疫神を鎮めるために祈祷を行っていますが、源頼光が鬼退治をしたという話は同時代の記録にはありません。

鬼切推察

 実際に頼光らが活動していた時代から400年近くも後、南北朝時代になって大江山の鬼を退治するという話が出現したのは、当時の政治情勢も関係している可能性があります。鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は、源頼光の弟・頼信の末裔にあたり、源氏の権威を高めるために尊氏や子孫が頼光の鬼退治の話を新たに作らせ喧伝させたというのはありうることです。直系の祖である頼信を主人公にすると奥ゆかしくないため、すでに鬼同丸や山蜘蛛を刀剣で退治した伝説のある頼光が主人公とされたのでしょう。藤原保昌は頼光を持ち上げるため影の薄い脇役にされていますが、もとは彼を主人公とする伝説であったのを、頼光と四天王をねじ込んで乗っ取ったのかも知れません。

 1370年代までに編纂された『太平記』では、源氏重代の宝剣・鬼切について『源平盛衰記』とは異なる話が伝わっており、渡辺綱がこれを借りて大和国宇陀の牛鬼を討ち、頼光の父・満仲が信濃国戸隠の鬼を斬ったため「鬼切」と呼ぶようになったとします。まだ酒天童子の話は出てきませんが、持ち主である頼光にも山蜘蛛ならぬ鬼を斬った話がないとバランスが取れません。北条得宗家の重代宝剣「鬼丸」については、『太平記』では北条時頼の夢に現れた小鬼を斬ったと伝えていますが、魔除けの呪力はあるとしても、酒天童子のような大鬼を斬ってはいないため迫力に欠けます。

 そして『太平記』によるならば、鬼切と鬼丸はともに一度新田義貞の手に渡り、義貞が討ち取られた後に尊氏の手に渡ったことになっています。足利/室町幕府は各地に割拠する守護大名や南朝勢力に脅かされて政権基盤が脆弱でしたから、武家の棟梁としての権威付けのためにこれらの宝剣の名声を利用し、さらに喧伝する必要はあったでしょう。香取本には酒天童子を討伐した刀剣の名は特に記されませんが、源頼光や渡辺綱が鬼退治をした太刀といえば、多少の教養があればわかります。

 そも『太平記』が編纂された頃、征夷大将軍は足利義満で、執事/管領の細川頼之が実権を握っていました。酒天童子伝説がそれ以後に作られたとなると、義満が朝廷の権威を利用して官位を上昇させ、源氏長者となり、守護大名たちを取り潰し始めた時期です。この頃丹波・丹後に割拠していたのは、一族合わせて全国の六分の一を支配下に置いていた大大名の山名氏です。

 明徳2年12月末(1392年1月)、山名氏清は泉州堺から河内を経て京都へ攻め寄せ、氏清の甥で娘婿の満幸は丹波から老ノ坂/大江山を越えて京都へ攻め寄せました。義満は彼らを京都で迎え撃ち、激戦の末打ち負かしています。戦功に乏しい義満が御所を守って華々しい勝利をおさめたのですから、酒天童子伝説がこれ以前に作られていたとしても、宣伝に利用しないことがあるでしょうか。山名氏だって新田氏の傍流ですから足利氏と同じ河内源氏ですが、彼らを都を脅かす「鬼」に見立てたであろうとの想像はつきます。

 そうとらえるならば、酒天童子が唐人や天竺人をも幽閉しており、物語の最後に彼らが博多や神埼から帰国して頼光らの名声を異国に喧伝したというのも示唆的です。山名氏を平定した義満は、さらに大内氏の乱を鎮め、堺・博多など貿易港を手中に収めて、明国との貿易に乗り出しているからです。頼光ならぬ義満の名声が日本を飛び出して異国にも喧伝されることは、実際望ましいことだったでしょう。

 とはいえ、酒天童子伝説の全てが足利義満の作為というだけで説明がつくものではありません。よしんばそうだとしても、一度作り出された伝説には尾鰭がついて独り歩きしますし、ネタ元になった様々な伝承も時代とともに変化して、解釈も変わっていくものです。

 その後も酒天童子伝説には様々な異本・異説が生じ、鬼退治の場所も老ノ坂ではなく丹後の大江山や、近江と美濃の境の伊吹山とされるようにもなりました。また伊吹山で生まれて比叡山に遷り、最終的に大江山へ来たとか、生国を越後国とする異説もあります。なにゆえこれらの場所が酒天童子と結び付けられたのでしょうか。さらに深堀りしていきましょう。

◆DOG◆

◆LAND◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。