【つの版】ウマと人類史:近世編24・噶爾丹汗
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
モスクワ・ロシアがポーランドと休戦した頃、ロシアは清朝と再び国境紛争を起こします。また清朝の西にはオイラト部族連合を統一したジュンガル帝国が興り、モンゴルを巡って清朝と争いました。
◆羅◆
◆刹◆
三藩之乱
1661年、清朝では第三代皇帝の順治帝が崩御し、子の玄燁が8歳で即位しました(康煕帝)。遺詔により譜代の重臣ソニン、スクサハ、エビルン、オボイが輔政大臣とされ、合議制で政権運営が行われますが、1667年に老齢のソニンが逝去するとオボイが権勢を握り、スクサハは讒言によって処刑されます。しかし康煕帝はソニンの子ソンゴトゥと謀って1669年にオボイとエビルンを逮捕投獄し、15歳で親政を開始しました。
明朝から清朝に降った呉三桂ら三人は南方に藩王として封建されており、管理任命権や徴税権を持つ半独立王国を統治していました。1673年康煕帝は藩王の世襲を禁じてこの三藩を取り潰すことを決め、驚いた三藩は呉三桂を盟主として清朝に反旗を翻します(三藩の乱)。呉三桂は大元帥・周王と号し、一時は長江以南を制圧しますが、明朝滅亡の主因であった彼に大義名分は乏しく、反撃を受けて孤立します。1678年には皇帝を称するものの同年に病死し、1681年に三藩は平定され、1683年には台湾の鄭氏政権(東寧王国)も清朝の攻撃を受けて降伏しました。
清露再紛
この頃、アムール川流域にはまたロシア人が出没していました。1665年、元ポーランド貴族でシベリア送りにされていたチェルニゴフスキーという者が、イルクーツク付近のイリムスクの総督を復讐のために殺害する事件を起こしました。彼は正教徒の僧侶やコサックたちを率いて逃亡し、アムール川のほとりのアルバジン(ヤクサ)要塞を占領して、周辺住民から食糧や毛皮を取り立て始めます。
1667年頃、エヴェンキ系ネリュード族の長ガンティムールが清朝の支配を離れ、部族の長老40人を率いてロシアに庇護を求め貢納しました。清朝は彼を呼び戻そうとしますが失敗し、ロシアとの間で紛争が起きます。
1669年、ロシアの使節が北京に到来し、皇帝アレクセイの勅書をもたらしました。勅書には「ツァーリに服属せよ」とありましたが、清朝の官吏らは「友好を願う朝貢の使節でございます」と報告し、康煕帝は使節をもてなしました。彼らはようやく「羅刹」ではなく、昔モンゴル帝国が服属させた「オロス(ルーシ)」のことであると認識されたのです。清朝は「ガンティムールらは我が貢納民であるから返還せよ」との勅書をロシアに送りましたが、ロシア側は無視しました。
1670年、清朝の小規模な攻撃を撃退したのち、チェルニゴフスキーはロシアに恩赦と承認を求めます。モスクワ政府は1672年にこれを認め、1674年に彼をアルバジンの総督に任命しました。清朝は三藩の乱にかかりきりでアムール川流域まで手が回らず、ロシアもツァーリの代替わりやその後の政争で手が回らず、アルバジンは自由に振る舞うことができました。チェルニゴフスキーは翌年死んだようですが、部下たちが後を引き継ぎます。
1674年、ロシアはスパファリという者を全権大使として派遣し、清朝と自由な交易を行いたいとの要望書をもたらしました。ガンティムール問題については「勅書が読めず何もわからない」と主張しています。清朝は嘘を見抜いたものの、遠くの大国から友好親善使節が来たということで歓迎はし、ガンティムール問題について棚上げする代わりに、ロシア側の要求も何一つ認めませんでした。以後しばらく両国の交流は途絶えます。
羅刹平定
三藩の乱平定後、康煕帝は1682年春にアムール川流域を巡り、ロシア問題への対処を開始します。清朝の軍隊は1683年末までにこの地域のロシアの基地を次々と破壊し、アルバジンへの食糧補給路を遮断しました。危機を感じたアルバジンはモスクワに救援を要請し、1684年7月にアレクセイ・トルブジンが総督として派遣されますが、東への撤退に失敗して包囲されます。
1685年6月、清軍はアルバジンに総攻撃を開始し、木の壁に薪を積んで焼き払います。トルブジンは数日間抵抗しますが降伏し、600人ほどがネルチンスクへ逃亡し、45人が清軍に投降しました。清軍が立ち去った後、トルブジンはプロイセン人将校のベイトンらを援軍に加え、無人のアルバジンを奪還、土塁を築きます。1686年7月、清軍は数千の兵と大砲をもってアルバジンを再び包囲、トルブジンはまもなく大砲で吹き飛ばされ戦死します。しかしロシア軍はベイトンらの指揮下で抗戦を続けました。
アルバジンには充分な食糧がありましたが水が不足しており、疫病や壊血病が流行して、826人いたロシア軍のうち10月末まで生き残ったのは60人あまりでした。状況を聞いたモスクワ政府は北京に使節を派遣し交渉を求めたため、清軍は包囲を緩和しましたが、包囲は1687年まで続きました。またハルハ・モンゴルも清朝の同盟者としてロシアの侵攻に立ち向かい、各地の要塞を襲撃しています。
ロシアの使節ゴロヴィンは清朝の大臣ソンゴトゥと交渉を進め、1689年9月に両国はネルチンスク条約を締結しました。これによりロシアはアルバジンから撤退し、両国の国境はアルグン川、ゴルビツァ川、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)と定められます。清朝側には通訳兼アドバイザーとしてイエズス会士がつき、条約の原文はロシア語、満洲語、ラテン語で二部ずつ作成されました。この功績により、清朝ではイエズス会によるキリスト教(カトリック)の布教が解禁されています。またロシアでは清朝への譲歩が問題視され、クリミアでの敗戦もあって政変が起きました。
なお、この条約において清朝は自らの国を「ドゥリンバイ・グルン」と称しています。これは満洲語で「中の国」すなわち中国を指しますが、満洲族の本土であるマンチュリア(マンジュ・グルン)と皇帝直轄領であるチャイナ(ニカン・グルン、漢地/旧明領)をあわせたもので、モンゴルやチベットなどはトゥレルギ(外、外藩)と呼んでいます。
噶爾丹汗
この頃、ハルハ・モンゴルは西方のオイラトから侵攻されていました。オイラトは1637年にジュンガル部の長ホトゴチン(バートル・ホンタイジ、エルデネ・バートル)が盟主となり、チベットを治めるホシュート部のトゥルバイフ(グシ・ハン)の娘アミンターラを娶りました。彼は盛んにロシアと使節を往来させ、交易を行っています。1653年にホトゴチンが逝去すると、グシ・ハンの娘が産んだ息子センゲが跡を継ぎますが、異母兄弟らは彼に従わず、オイラトの北半分を率いて背きました。
1655年にグシ・ハンが逝去した後、息子オチルトはオイラトのハン、ダヤンはチベットのハンとなり、センゲはオイラトのホンタイジ(副王)としてオチルトの下につきます。やがてチベットでは実力者が次々と排除され、ゲルク派の高僧ダライ・ラマ5世がその権威によって権力を握ります。
彼は1652年に北京に赴いて清朝から承認され、改めてダライ・ラマの称号を賜るとともに、清朝の順治帝に文殊皇帝の号を贈ったといいます。清朝は彼の来訪を「チベットが清朝に服属した」と喜びましたが、チベット側はあくまで対等の関係と主張しています。のち雲南の呉三桂が清朝に反旗を翻すと、ダライ・ラマ5世は彼と使節を往来させています。
1670年にセンゲが暗殺されると、チベットに留学していた同母弟ガルダンはオイラトに戻って兄の仇を討ち、オイラトのホンタイジとしてオチルト・ハンの娘アヌを娶ります。また1676年には舅オチルトを捕らえ、ダライ・ラマ5世よりボショクト・ハン(受命王)の称号を賜ります。ガルダン・ハンはジュンガル部出身であるため、これをジュンガル帝国と呼びます。彼は1679年にハミとトルファンを、1680年にカシュガル、ヤルカンド、ホータンなどを征服し、タリム盆地を手中におさめます。さらにカザフやキルギス、タシケントやアンディジャン(フェルガナ盆地の都市)までも遠征し、中央アジア東部に覇を唱えました。
なお彼に権威を授けたダライ・ラマ5世は1682年に60歳で亡くなっていますが、執政サンゲ・ギャツォは遺言により彼の死を隠匿し、替え玉を立てたりしながら1696年まで隠し通しました。
漠北動乱
この頃、ハルハ・モンゴルは西のオイラト/ジュンガル、北のロシア、南東の清朝に囲まれていました。清朝の台頭によりハルハとオイラトは同盟し、のち清朝にも朝貢して同盟を結び、外藩として扱われています。ロシアとも外交関係を結んで交易をしていたものの、バイカル湖の南にロシア人が入植して貢納を取り立て始めると、ハルハは権利の侵害だとして抗議します。
1687年にハルハで内紛が起き、ジャサクト・ハンはジュンガルを頼りますがトシェート・ハンに殺され、援軍を率いて出陣したガルダンの弟も殺されます。1688年、怒ったガルダンは3万の兵を率いてハルハへ侵攻し、トシェート・ハンの軍勢を打ち破りました。トシェート・ハンらは多数の民を率いて清朝へ亡命し、ガルダンは繰り返し引き渡しを迫りますが拒否されます。
ネルチンスク条約の翌年、1690年にガルダン率いるジュンガル軍は北京北方300kmの赤峰(ウラーン・ブトン)まで押し寄せ、清軍と衝突します。ジュンガル軍は騎馬遊牧民の精鋭かつロシア製の大砲を装備しており、清軍に引けは取りませんが、決着はつかずに漠北へ引き上げました。ここに清朝は「ハルハ部の領土を回復する」という大義名分を得、モンゴル諸部族の盟主としてジュンガル帝国と戦うことになります。
◆Dalai◆
◆Lama◆
【続く】
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