【つの版】度量衡比較・貨幣87
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
英国は新興国オランダ、大国フランスと手を結び、世界帝国スペインと渡り合います。英国とオランダはスペインによる貿易独占を打破するため海路でアジアへ進出し、東インド会社を設立することになります。この頃の東アジアは、日本はどうなっていたでしょうか。
◆Kyrie◆
◆eleison◆
九州平定
ローマ教皇直属の修道会「イエズス会」は東洋伝道を推し進め、日本では多くの改宗者を獲得しました。1563年には肥前の大村純忠が洗礼を受けて最初のキリシタン大名となり、領内の6万人がキリスト教徒になったといいます。同年には摂津の高山友照・彦五郎(右近)父子が洗礼を受け、ついで1578年に豊後の大友宗麟が、1580年には肥前の有馬晴信(大村純忠の甥)が入信しました。1582年(天正10年)2月、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信らはイエズス会の発案により長崎からローマへ使節団を派遣しています。
彼らキリシタン大名は、主にポルトガル人との「南蛮貿易」によって富と軍事力(火縄銃や大砲、火薬)を輸入し、戦国大名として勢力を振るいました。イエズス会士らは(フランシスコ・カブラルを除いて)基本的に日本文化を尊重し、九州のみならず畿内にも多くの信徒を獲得しています。本能寺の変後の1584年には小西行長、1585年には蒲生氏郷と黒田官兵衛が改宗しました。しかし1587年(天正15年)6月、豊臣秀吉は「バテレン追放令」を発布し、キリスト教の布教を制限します。何故でしょう。
秀吉は織田信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していました。畿内には万を超える信徒がおり、有力武将やその一族にもキリスト教徒がいたのですし、南蛮貿易によってもたらされる富や武力も魅惑的でした。1586年(天正14年)3月、秀吉は大坂城でイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、5月には布教許可証を授けています。
この頃、秀吉は九州への遠征を計画しています。豊後の大友氏は中国地方の大大名・毛利氏と敵対しており、毛利氏は大友氏を牽制するため、南九州の大名・島津氏と手を結びました。信長に追放されて毛利氏に庇護されていた足利義昭が大友氏討伐に大義名分を与えたため、大友氏は大いに動揺します。1577年から島津氏は盛んに大友氏の同盟者や領地を攻撃し、筑前・豊後を除く九州の大部分を制圧しました。弱りきった大友宗麟は1586年4月に大坂城へ赴き秀吉に服属、軍事支援を要請します。
島津氏は秀吉からの停戦命令に従わず、怒った秀吉は諸大名と大軍を率いて九州へ向かいます。その数は号して数十万、先遣隊はすでに秀吉に服属していた毛利氏や長宗我部氏・宇喜多氏らで、島津氏に征服された人々は豊臣軍が豊前に上陸するや次々と服属しました。島津氏も果敢に戦いますが衆寡敵せず降伏し、薩摩・大隅および日向南部を安堵され、残りの征服地は秀吉により毛利氏や黒田氏へ分配されます。「バテレン追放令」はその戦後処理の一環として、筑前筥崎宮で行われたものでした。
西教黙認
原因はさておき、原文を読んでみましょう。大意はこうです。
大名による強制的な改宗、奴隷売買や牛馬の肉食のための売買を禁止しただけで、どこにも伴天連を追放するとはありません。これは「覚(おぼえ/覚え書き)」と言われる草案で、翌日にはこうなっています。
秀吉が伴天連(バテレン/パーデレ、神父/宣教師)を追放したのは、彼らが地方の大名を改宗させたのみならず、大名を唆して領民や家臣を強制的に改宗させ、神社仏閣を破壊させたのが主な理由というわけです。実際大村氏や有馬氏、大友氏らの領国ではそのようなことが行われており、のちに危険だからとやめてはいますが、仏教の僧侶や神主からは異国の邪宗だと憎悪されていました。一向宗/本願寺門徒らが長年強大な勢力を保有して織田信長らに逆らったのは記憶に新しいことですから、あれを南蛮人にやられれば大変だという意識もあったでしょう。牛馬の肉食は仏教では禁じていますし(鹿や猪はよく食べますが)、奴隷売買を禁じたのも人道的ですね(日本人を捕まえて外国に売っているのも日本人ですが)。
そして、秀吉は伴天連門徒/キリスト教徒を直接迫害したわけではなく、信仰や改宗も禁じてはいません。ただ布教や洗礼を行う伴天連に日本を立ち去るよう命じただけで、南蛮貿易は推奨しています。有馬晴信はまだ健在ですが、大村純忠と大友宗麟は追放令発布の前月、天正15年5月に相次いで没していますから、これを機に日本でのキリスト教の影響を弱めようとそのような措置を取ったのでしょう。日本人の大部分は仏教徒ですし、秀吉の政策は当時では理にかなってはいました。
退去を宣告された宣教師らは秀吉に抗議し、我々を追放するなら南蛮貿易は停止すると警告しました。時のスペイン・ポルトガル国王はガチガチのカトリック教徒のフェリペ2世ですから、迫害でなくても宣教師が追放されたなどと聞けば怒って艦隊を派遣しかねませんし、そうでなくても日本との貿易を取り締まることは必定です。そこで秀吉は自ら出したバテレン追放令を無視することとし、宣教師らの活動を黙認して南蛮貿易を継続しました。
1590年7月、天正遣欧使節が長崎に8年ぶりに戻りました。彼らはマカオ、ゴアを経て1584年にリスボンに至り、スペインやイタリア、ローマで大歓迎され、教皇にも謁見しています。1591年3月、秀吉は彼らを聚楽第に招いて西洋の音曲を奏でさせたといいます。またフィリピン総督は秀吉による侵攻を恐れて友好関係を保とうと努力し、1593年にはフランシスコ会の宣教師を派遣して伝道させ、有力大名を含む1万人もの改宗者を得ています。しかし1596年、秀吉は突如としてキリスト教徒迫害事件を起こし、日本では初めてキリスト教の殉教者が出ることになります。
◆DIES◆
◆IRAE◆
【続く】
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