【つの版】ウマと人類史:近代編18・攘夷国船
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
19世紀に入ると、日本に対する北からのロシアの圧力はさらに強まり、南からは英国がオランダの植民地を奪って東アジアに迫ってきました。果たして日本はどうなっていくのでしょうか。
◆攘◆
◆夷◆
日本幽囚
文化露寇(1806-07年)やフェートン号事件(1808年)から間もない文化8年(1811年)6月、ゴローニン事件が発生します。これは千島列島の測量調査のため国後島に到来したロシア海軍大尉ゴローニン(ゴロヴニン)が日本の役人に逮捕された事件です。彼は択捉島での日本の役人の指示に従わず、根室海峡の調査のため国後島の泊湾に許可なく入港し、「補給を受けたい」と願い出ます。彼らは上陸して国後の陣屋でもてなされますが、松前奉行が補給の許可を出すまで人質を残すようにとの要求を拒み、捕縛されます。
船に残っていた副艦長リコルドは陣屋に砲撃を行いますが、人質がいるため威嚇しかできず、やむなくロシアに戻って日本への遠征隊の派遣を皇帝に要請しました。しかし欧州ではロシアとフランスの対立が起きており、遠征隊の派遣は見送られます。ゴローニンらは松前奉行により取り調べを受け、スパイとみなされて2年間抑留されました。一時は脱走しましたが再逮捕され、獄中で日本人にロシア語を教えるよう命じられます。間宮林蔵ら学者たちもゴローニンのもとを熱心に訪れ、測量機の使い方などを習いました。獄中とはいえ、それなりの待遇を受けてはいたようです。
リコルドはゴローニン救出のため、ロシアに漂着した日本人たちを伴って1812年夏に国後島へ向かいます。日本の役人らは漂流民を受け取ったもののゴローニンについては「すでに処刑した」と偽って返還を拒絶します。リコルドは諦めず、報復として日本の商船を拿捕し、高田屋嘉兵衛らを捕縛してカムチャツカへ連れ去りました。
嘉兵衛らは国際貿易港ペトロパブロフスクでロシア語を習い、外国商人と交流するなど自由に行動できましたが、日本に帰国するため「この度の事件のもとはフヴォストフが起こした蛮行(文化露寇)であるから、その旨を謝罪する文書を幕府に提出すればよい」とリコルドを説き伏せます。幕府の方でもロシアとの紛争拡大を望まず、ゴローニンに「フヴォストフの襲撃がロシア本国の意図によるものではないと証明されれば釈放する」と伝えます。1813年、リコルドと嘉兵衛らは国後島に戻って交渉を行い、同年にゴローニンは釈放されて帰国し、事件は解決しました。
帰国後、ゴローニンは『日本幽囚記』を著して出版し、知られざる極東の島国の様子をロシアや欧州に広く知らしめました。同書はたちまちドイツ語やフランス語、英語などに翻訳され、日本にも1821年にはオランダ語版がもたらされています。これは蘭学者らにより日本語に翻訳され、1825年に出版されて、淡路島に隠居していた嘉兵衛も読んだといいます(翌々年死去)。
攘夷国船
ゴローニンと嘉兵衛の帰国から数年後、1816年(文化13年)には英国船が琉球王国に通商を請い、翌年には三浦半島の浦賀に現れます。以後も頻繁に英国船が日本の沿岸に現れ、民衆と勝手に物々交換を行うようになりましたが、これらはおもに捕鯨船でした。
捕鯨は古来世界各地で行われていますが、欧州やロシア・アメリカでは産業革命によって大量の鯨油が灯火や工業用に必要となり、世界中の海で捕鯨船が活動していました。太平洋を往来する捕鯨船にとって、日本で補給が行えれば大変助かりますし、開国して通商が可能になれば最上です。しかし、幕府はこれら異国船が勝手に日本の民衆と取引することを許可せず、1825年(文政8年)に改めて「異国船打払令」を発布しました。
この頃、英国船の沿岸立ち寄りがあった水戸藩では、儒学者の藤田幽谷の門下を中心として「攘夷論(夷狄/外国人を打ち払うべしとする論)」が盛り上がっていました。夷狄に対して弱腰で対応してはナメられるという過激な論説ですが、幕府は「征夷大将軍」を頂いているのですから、日本国を脅かす夷狄を征伐せねばならんというのは大義名分にはなります。彼ら水戸学の論説は全国に広まり、幕末の日本を揺るがすことになりました。
それからまもなく、1828年(文政11年)にはシーボルト事件が起きます。これはオランダ商館つきの医師シーボルトが、伊能忠敬の測量に基づいて作成された日本地図の縮図を持ち出そうとして露見した事件で、シーボルトは翌年国外追放となりますが、日本に関する多くの情報を持ち帰ります。このため蘭学者たちは「異国の密偵では」と攘夷論者たちに怪しまれました。長年の友好国であったオランダも、結局危険な夷狄と認識され出したのです。
無人諸島
またこの頃、日本の南の海上に浮かぶ小笠原諸島には、欧米の捕鯨船や調査船が訪れていました。この島々を最初に発見したのは1543年のスペイン人で、日本人は伊豆諸島の八丈島・青ヶ島までは古くから住み着いていたものの、その南の小笠原諸島にはまだ誰も住んでいませんでした。1639年にはオランダ人が2つの無人島を発見し、エンゲル島・フラフト島と命名しました(のちの母島・父島)。1670年に阿波国の船が現在の母島に漂着し、八丈島経由で生還したのが、日本人が発見した確実な記録としては最古です。
1675年、幕府は漂流民の報告をもとに調査隊を派遣し、石碑を建立して「この島は大日本の内なり」と宣言しましたが、みな人がいなかったので無人島(ぶにんじま)と呼ばれました。1727年に浪人の小笠原貞任なる者が「先祖の貞頼が134年前にこの島々を探索した」と称して領有権を主張し、最終的にその事実は否定されたものの、島には異称として「小笠原」の名が与えられることとなります(1785年に林子平が『三国通覧図説』に記載)。
こうしたことから無人島/小笠原島は日本の領土とみなされ、1817年にはフランス人が『三国通覧図説』の記載をもとに「ボニン諸島」として紹介しています。しかし欧米の捕鯨船は無人なのをいいことに勝手に来航して名前をつけ、1827年には英国人が勝手に領有宣言を行っています(日英は承認していません)。そして1830年にはアメリカ人ナサニエル・セイヴァリーらがハワイ諸島から渡来し、父島(ピール島)に住み着き始めました。
1835年、英国の駐マカオ貿易監督官エリオット(アヘン戦争の原因となった彼です)はこれを報告し、英国船を派遣して占領すべきであると主張しました。1837年に英国政府は調査船を派遣しましたが、アヘン戦争により英国がチャイナに拠点を確保すると、ボニン諸島の領有は見送られます。
蛮社之獄
この頃、日本では天保の大飢饉(1833-39年)が発生し、米価高騰により各地で貧困者が餓死し、百姓一揆や打毀しが頻発していました。大坂では大塩平八郎、摂津では山田屋大助、越後では生田万が乱を起こし、幕府の権威は大いに動揺します。
そうした中、天保8年(1837年)にはアメリカの船モリソン号が鹿児島湾と浦賀沖に現れ、英国船と間違われて問答無用で砲撃されます。モリソン号はやむなく立ち去りますが、実は非武装の商船で、日本人漂流民の音吉らを送還しに来たものでした。彼らは遠州灘で嵐に遭って太平洋を漂流し、カリフォルニアに漂着していたのを英国人に救助されたもので、英国からマカオを経て帰国しようとしていたのです。このことがオランダから幕府に報告され、幕閣は議論の末「英国との通商は許可しない。漂流民はオランダ船で帰国させよ」と回答しました。
これを伝え聞いた蘭学者の渡辺崋山・高野長英らは「漂流民を送り届けようとした異国船をも打ち払うのはよろしくない」「開国して西洋と友好的に交易すべきではないか」と幕政を批判する書を著し、幕府から疑いの目で見られるようになります。また「無人島(小笠原諸島)からアメリカへ渡ろうとしている」との嫌疑をかけられ、天保10年(1839年)に彼らとその仲間(蛮学社中)が一斉逮捕されます。助命嘆願もあって華山は蟄居、長英は永牢(終身刑)となりますが、逮捕者のうち町人数名は拷問死し、華山は2年後に自決、長英は4年後に脱獄した末、1850年に殺されています。
この「蛮社の獄」と同年、清朝はアヘンを巡って英国と対立し、アヘン戦争が勃発します。1842年に清朝が敗戦して英国に不平等条約を押し付けられたとの報告を受け、日本は大いに動揺しました。同年幕府は異国船打払令を撤廃し、遭難した船にのみ補給を認める薪水給与令を発布しています。また天保の改革を行って幕政刷新を試みますが混乱を招き、諸藩は独自に改革を行って異変に備えることとなります。こうした中、太平洋の彼方のアメリカ合衆国が日本に接近し、開国を求めることになるのです。
◆金◆
◆神◆
【続く】
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