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【つの版】ウマと人類史EX28:後三年役

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 源頼義は出羽清原氏を動かして奥州安倍氏を打倒しますが、奥羽を支配する政権がすげかわっただけでした。頼義の後を継いだ義家は白河天皇を後ろ盾とし、奥羽の権益を巡って清原氏と争うことになります。

◆炎◆

◆立つ◆


山門寺門

 延久4年(1072年)に即位した白河天皇は、中宮(皇后)賢子の養父(実父は村上源氏の源顕房)である藤原師実(頼通の子、道長の孫)を左大臣・関白とします。しかし父・後三条天皇の意向により、摂関家の血を引かない異母弟の実仁親王が皇太弟に立てられました。

 義家はこの頃京都にいたらしく、承暦3年(1079年)8月に美濃国の源重宗を官命により追討しています。重宗は源満仲の弟・満政の曾孫にあたり、従五位下・右兵衛尉の官位にありましたが、満仲の子・頼光の孫である国房と同年6月に大規模な合戦を起こし、朝廷の召還命令にも従いませんでした。義家は15年前に美濃で国房と戦ったこともあり、両者を武力で鎮圧して説得したのです。国房と重宗は私闘の罪で投獄され、義家は朝廷の命令を遂行したことで大いに面目を施しました。時に40歳の壮年です。

 ついで永保元年(1081年)9月には、検非違使とともに園城寺おんじょうじの悪僧を追捕しています。園城寺は三井寺みいでらともいい、近江国大津にある天台宗の名刹ですが、9世紀後半より比叡山延暦寺と天台座主(天台宗代表)の座などを巡って争っており(山門寺門の争い)、他の寺社や朝廷、摂関家も巻き込んでしばしば武力衝突を起こしていました。

 同年には山門派によって園城寺が焼き討ち・掠奪され、報復として寺門派が比叡山に攻め込む有様でした。さらに寺門派の僧侶らは朝廷に直訴せんと御所へ詰めかけ、義家ら武者により防がれたのです。これにより山門派が勢いを増し、朝廷は彼らの強訴(集団武力訴訟)に苦しめられます。

 この功績により義家・義綱兄弟は無官ながら白河天皇の近侍に抜擢され、郎党の武者100名を引き具して移動中の天皇を警護する役目を仰せつかりました。そして永保3年(1083年)、44歳の義家は陸奥守に任じられます。前九年の役の終結からは20年が経過していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Geofeatures_map_of_Tohoku_Japan_ja.svg

後三年役

 この頃、清原氏は内紛により動揺していました。鎮守府将軍・清原武則の子を武貞といい、前九年の役で奥州安倍氏が滅んだ際、藤原経清の未亡人・有加ありか一乃末陪いちのまえと再婚しました。彼女は安倍頼時の長女であり、母は清原武則の妹で、経清との間に男子を産んでいましたが、武貞はこの連れ子を我が子として育て、清原清衡きよひらの名を与えます。のち一乃末陪と武貞の間にも男児が生まれ、家衡と名付けられました。

 しかし武貞にはすでに真衡さねひらという実子がおり、清原氏の当主は彼が継承します。とはいえ清原氏は奥州安倍氏を裏切って滅ぼしたため、奥州における政権の正当性・正統性に乏しく、安倍氏の血を引く清衡・家衡が真衡よりも衆望を集めてもおかしくありません。

 そこで真衡は、海道平氏(鎮守府将軍・平維茂の末裔と称する)の成衡なりひらを養子に迎え、頼義の娘(義家の異母妹、母は国香流の平宗基の娘か)を彼に娶らせます。坂東平氏と河内源氏の夫婦養子を清原氏の次期当主の座に据え、家格によって政権を安定させようとの腹積もりでした。

 しかし、安倍氏どころか清原氏の血も引かない者が当主になることには当然反発が生じます。永保3年(1083年)、武則の娘婿・吉彦きみこの秀武ひでたけは出羽国荒川(現秋田県大仙市)で挙兵し、清衡・家衡に密使を送って蜂起を呼びかけます。真衡は直ちに秀武討伐の軍を起こし、陸奥守に着任した義家を国府で歓待したのち、出羽に出陣しました。

 清衡・家衡は真衡の留守を狙って彼の本拠地を襲撃しますが、待ち構えていた防衛部隊に迎撃され、義家も国府軍を率いて支援に駆けつけます。やむなく清衡・家衡は義家に降伏しますが、真衡は出羽への行軍中に病死してしまいます。義家は妹の夫である成衡を庇護下に置きつつ、清衡と家衡に真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ分割相続させました。成衡を置いておけば角が立ちますから、出羽の所領は清衡・家衡が共同統治したのでしょうか。あるいは曖昧にしておいて争いの種を蒔いたのでしょうか。

 どのみち清原氏の内紛を利用して勢力を弱めるための義家の策略かと思われますが、この状態で2年が経過します。次第に家衡は清衡とも反目するようになり、応徳3年(1086年)に清衡の館を攻撃しました。清衡は妻子および一族を皆殺しにされますが、一人逃げ延びて義家を頼り、彼の助力を得て家衡に対抗します。しかし家衡は横手盆地の西端の沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に立て籠もり、冬将軍を利用して清衡・義家連合軍を退けます。

 武貞の弟・武衡は、家衡勝利を聞きつけて彼のもとへ駆けつけ、ともに横手盆地東端の金沢柵(横手市金沢中野)に移ります。吉彦秀武は清衡と義家の側に味方し、寛治元年(1087年)に連合して金沢柵に攻め寄せました。この時、義家の弟・義光は兄の苦戦を聞き、左兵衛尉の官位を捨てて郎党の藤原季方らとともに駆けつけています。

 義家らは盛んに金沢柵を攻めますが陥落させられず、吉彦秀武の提案により包囲しての兵糧攻めに切り替えます。季節は秋から冬に差し掛かり、飢えに苦しんだ柵内からは口減らしのため女子供が投降して来ますが、義家は一度助命しようとしたものの、「投降者が増えれば柵内の兵糧の減りが遅くなる」と状況判断し、皆殺しにします(生かしておけばこちらの兵糧も食われて減りますし)。敵側は恐れて柵内にとどまり、兵糧を食い尽くしました。家衡・武衡は柵に火をつけて敗走し、逃亡を図りますが捕縛され、11月に斬首されます。ここに「後三年の役」と呼ばれる合戦は終結し、清原氏による奥羽の支配は20年あまりで幕を閉じたのです。

戦後処理

 清原氏が滅亡したため、32歳の清原清衡は実父の藤原姓に戻り、藤原清衡と名乗りました。彼は安倍氏・清原氏に続いて奥羽の支配者となり、江刺郡豊田館から南の平泉に本拠地を遷し、以後100年続く奥州藤原氏の初代当主となります。吉彦秀武は引き続き出羽の有力者として残ったようですが、彼のその後については不明です。

 ただ頼義による前九年の役は朝廷の命令による公戦でしたが、今回の合戦は清原氏の内紛(私戦)に過ぎません。義家は陸奥守という公職にありながら地方豪族の私戦に勝手に関わって私兵のみならず官軍を参加させ、しかも一方に肩入れするという不祥事を起こしたことになります。

 さらに陸奥守の職務である朝廷への租税・砂金などの貢納を行わなかったばかりか、官物(公金)を横領して戦費にあてており、明らかに罪にあたります。なおかつ寛治元年(1087年)7月には朝廷から「合戦を停止せよ」との使者が派遣されていますが、義家はこれを無視しました。

 義家は12月に報告書を送り、事後承諾の形で家衡・武衡追討の官符を賜るよう求めましたが、そんな勝手を認めていては朝廷の沽券に関わります。翌寛治2年(1088年)、義家は陸奥守を罷免され、横領した官物・公金を弁済するよう命じられました。罪人として投獄されなかったのが驚きですが、義家はこの弁済に手こずり、以後10年間も公職につけなくなっています。

 そして朝廷から恩賞が出ないとなると、義家に付き従った御家人・郎党、坂東や畿内・美濃などから集まってくれた武者たちにも褒美が出せません。とはいえ武家のオヤブンたるもの、子分が命を賭けて戦ってくれたのに報いがなければ見放されますから、彼は莫大な私財を投じて彼らに褒美を与えました。武者たちは感激して義家を褒め称え、オヤブンとして崇めたといいます。官物や公金の弁済にも協力してはくれたことでしょう。

院政開始

 この頃、義家の後ろ盾である白河天皇は生前退位し、太上天皇(上皇)となっています。中宮・賢子は2人の親王と3人の内親王を産みましたが、長子の敦文親王は4歳の時に痘瘡(疱瘡、天然痘)で夭折し、賢子も応徳元年(1084年)に崩御してしまいます。白河天皇は激しく悲しみ、翌年に皇太弟の実仁親王が痘瘡で崩御すると、その翌年には自らと賢子との子である8歳の善仁親王を皇太子に立て、即日譲位しました。これが堀河天皇です。

 8歳の天子に政権担当能力はなく、関白・藤原師実は摂政に任じられてこれまで通り政務を司ります(1088年には太政大臣、1090年には関白・准摂政)。しかし白河上皇も34歳の若さで、引退することなく上皇御所()で務を継続しました。ゆえにこれを「院政」といい、摂関家が政務を牛耳り皇位継承を左右する摂関時代は終わりを告げ始めました。ただ当初は父の後三条天皇と同じく、我が子の皇位継承を確実にするためにしたことであり、摂関家も退けられてはいません。師実は堀河天皇の生母・賢子の養父ですから、実際には摂関政治は継続しています。

 義家の弟・義綱は、後三年の役には参加せず京都にとどまり、師実を私君として畿内で護衛などの活動を続けました。寛治5年(1091年)6月には義家の郎党と義綱の郎党が河内国の所領を巡って争い、兄弟同士で兵を構える事態にも発展しますが、師実の仲裁で兵をおさめています。

 義家罷免ののち、陸奥守には藤原基家が任命されます。清衡は寛治5年(1091年)に関白・師実へ馬2疋を貢納し、朝廷・中央政府に従順な姿勢を示していますが、基家は翌年「清衡に合戦の企てあり」と報告しています。基家は翌年70歳で在任のまま逝去し、源義綱が陸奥守に任じられました。

 同年、出羽国では在地豪族の平師妙・師季父子が反乱を起こし、受領の源信明を殺害します。義綱は師妙らの追討を命じられ、翌年に郎党を派遣して乱を鎮圧させます。朝廷はこの功績を嘉して義綱に従四位下を授け、翌嘉保2年(1095年)には美濃守に任じました。前年に師実は息子・師通に関白の位を譲り、元服した堀河天皇の親政を輔弼させています。

 しかし義綱が美濃国で延暦寺の荘園領を宣旨によって没収した際、寺側と小競り合いになり、僧侶を射殺してしまいます。延暦寺は強く抗議し、比叡山の守護神・山王権現(日吉社)の神輿を担いで強訴を行いました。師通は源頼俊の子・頼治らを派遣して撃退させますが、延暦寺は態度を硬化させて師通らを呪詛し、承徳3年(1099年)に師通は38歳の若さで急死します。

 師通の子・忠実はまだ22歳で政治経験も不足しており、引退した師実も病気がちで、康和3年(1101年)に60歳で薨去します。20歳過ぎの堀河天皇はやむなく父・白河上皇(1096年に出家入道して法皇)に政務を後見してもらうこととなり、結果的に院政が成立します。白河法皇はその後も30年に及び政権の座にあり、天皇の後見人として実権を握りました。

 摂関政治の終焉後、皇室の当主として政務の実権を握った者を「治天の君(治天)」と呼びます。天皇が治天の君になれば親政ですが、上皇や法皇が治天の君なら院政です。この用語は鎌倉時代に皇室が持明院統と大覚寺統(のちの北朝と南朝)に分立して以降に生まれたようですが、歴史学上では白河院政時代から「治天の君」を用いています。

 義綱・頼治らは責任問題を問われて失脚し、頼治に至っては佐渡か土佐への流罪とされます。一方官物返済を完遂した義家は、承徳2年(1098年)に白河法皇によって引き立てられて正四位下に昇進し、院昇殿を許されるなど勢いを強めました。すでに60歳の老武者とはいえ、彼に従う郎党・御家人、一門の武力や経済力は侮り難く、摂関家や寺社の反抗を抑えて白河政権を支えるには充分です。

 さらに白河院は「北面武士」と呼ばれる近衛部隊を設立し、各地から武士団を集めて院御所や身辺を警護させました。内裏の警護にあたる滝口武者の院版ですが、規模や権勢は遥かに大きく、検非違使や受領に抜擢されて院政を支える手足となります。平貞盛の末裔である伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)も北面武士となって頭角を現し、やがて河内源氏に取って代わることとなります。

◆IN◆

◆SANE◆

【続く】

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