【つの版】度量衡比較・貨幣88
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1587年、九州を平定した豊臣秀吉はキリスト教の宣教師(伴天連)を国外追放する命令を発布しますが、南蛮貿易の利益は捨てきれず実行はしませんでした。ただ秀吉の脅しは国内外のキリスト教徒を慎重にさせ、スペインのフィリピン総督も恐れて友好関係を保とうと努力しています。そして1596年、秀吉は突如としてキリスト教徒迫害事件を起こすことになりました。
◆MEXICO◆
◆WOLF◆
積荷没収
1590年に関東、1591年に奥羽を平定し、名実ともに日本統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北部九州に全国から大軍を集め、1592年4月に朝鮮へ侵攻しました(文禄の役/壬辰倭乱)。秀吉は「朝鮮を通って明国を征服する」と称しており、仰天した明国は軍隊を派遣して朝鮮を救援させる一方、使節を往来させて講和を結ぶこととしました。
秀吉の侵攻を恐れたフィリピン総督は、1593年にフランシスコ会の宣教師ペドロ・バウティスタらを派遣して友好関係を結びます。秀吉は彼らを歓迎し、畿内での宣教活動を許可したため、翌年にはマニラから3人の宣教師が追加派遣されます。前田秀以(京都所司代である前田玄以の子)、織田秀信(信忠の子で信長の孫、三法師)らもこの頃に洗礼を受けキリシタンとなりました。
文禄4年7月(1595年9月)、秀吉は甥で後継者候補だった秀次を突然謀反の疑いで切腹に追いやり、一族39人を処刑します。これは1593年に誕生した秀吉の実子・鶴松(秀頼)を唯一の後継者にすることが目的だったようですが、突然のことに国内は動揺します。文禄5年7月(1596年9月)には伊予・豊後・伏見で相次いで大地震が発生し、多数の死傷者が出ました。同年9月(11月)には明国から使者が来て、秀吉を「日本国王」に冊封するとの国書と金印をもたらしています。秀吉はこれを恭しく拝領したものの、朝鮮国王の王子が来日しなかった事を理由に講和交渉は決裂したとみなし、さらなる侵攻計画を進めます。こうした時期に事件が起きました。
スペイン商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』によるとグレゴリオ暦1596年10月19日(文禄5年8月28日)、土佐国にスペインのガレオン船サン=フェリペ号が漂着します。これはマニラから太平洋を横断してメキシコを目指す途中、嵐に遭遇して流れ着いたものでしたが、土佐の大名・長宗我部元親は船を強引に浦戸湾へ曳行し、積荷を没収してしまいました。
高知長浜に留め置かれた船員たちは元親に抗議し、使者を大坂へ派遣しますが、秀吉の奉行の増田長盛は浦戸に着くと積荷を没収し、秀吉の元へ送ろうとする始末でした。さらに秀吉の書状を読み上げ「都にいるポルトガル人によると、スペイン人はペルー、メキシコ、フィリピンを武力で制圧したように、日本を征服する意図で来た海賊であるとのことだ」と告げました。
憤った船員の一人は「スペインは広大な領土を持つ国であり、日本など小国だ」と発言します。長盛が「どうしてそうなったのか」と問うと、彼は「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、国内に信徒を増やし、それを内応させて併呑するのだ」と答えました。驚いた長盛は秀吉にこれを伝え、秀吉はキリスト教徒を弾圧するに至ったというのです。この発言の真偽は定かでありませんが、秀吉がこの事件の後に禁教令を発布したのは事実です。
聖者殉教
元禄5年10月27日(西暦1596年12月16日)に慶長と改元されたのち、秀吉は慶長元年12月8日(1597年1月)京都奉行の石田三成らに命じて大坂と京都でペドロ・バウティスタら24名のキリスト教徒を捕縛させ(フランシスコ会員7名、信徒14名、イエズス会関係者3名)、京都一条戻橋で左の耳たぶを切り落とさせます。ついで「長崎で処刑せよ」と命令して大坂から護送させましたが、道中で2人の日本人キリスト教徒が捕縛されて26人となります。
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、26人は長崎の西坂の丘で十字架にかけられ、槍で突かれて処刑されました。彼らは日本で最初の殉教者としてキリスト教世界で崇敬を集めることになり、1627年には列福、1862年には列聖されました。いわゆる「日本二十六聖人」です。全員男性でした。
彼らのうち20名は日本人(1名は父がチャイニーズで母が日本人)でしたが、4名はスペイン出身、1名はポルトガル出身、1名はメキシコ出身で、全員がフランシスコ会に所属する司祭や修道士です。彼らは1593年以降にマニラから派遣されて布教を行っていた人々でした。ザビエル以来日本で布教していたのはイエズス会ですが、フランシスコ会(特にスペインのアルカンタラ派)はスペイン王室との繋がりが深く、カリブ海諸島やメキシコなど新大陸への布教も熱心でした(コロンブスのパトロンでもあります)。
殉教者のうちイエズス会員が3名だけだった(それも全員日本人)のは、秀吉によるキリスト教の弾圧が当初はフランシスコ会を標的としていたものと思われます。イエズス会やポルトガル人が彼らのシマに踏み込んできたスペイン系のフランシスコ会を排除するために秀吉にあることないこと吹き込んだのだとも言われますが、同じカトリックなのですから、フランシスコ会が排除されれば次はイエズス会も排除されるのは目に見えています。
この時に殉教したフランシスコ会員マルチノ・デ・ラ・アセンシオンは、マニラの総督宛に書簡を送って自分が処刑されることを伝え、秀吉が琉球・台湾を経由してのフィリピン侵攻を計画していることも記していました。秀吉は朝鮮・明国のみならず南蛮(東南アジア)や天竺(インド)をも征服すると宣言し、盛んにフィリピンへ人を派遣して調査させていましたし、倭寇の活動も盛んでした。彼が本気でこの計画を実行に移せば、少なくともフィリピンまでは攻め取られていた可能性はあります。その時に日本国内のキリスト教徒、特にフランシスコ会員や信徒らが内応し反乱すれば危険だと判断したのでしょう。南蛮貿易による利益は歓迎したものの、秀吉自身が南蛮を征服すれば、外国船に頼らずとも利益は得られるという考えです。
この後、秀吉はサン=フェリペ号の船員たちに修繕許可を出し、一行は4月に浦戸湾を出航して、翌月にマニラへ戻っています。フィリピン総督らは抗議して交渉使節を派遣しますが、結局積荷は返還されず、殉教者の遺体も引き渡されませんでした。「日本国王」の秀吉がこのようでは、日本におけるこれ以上の布教は望めそうにありません。朝鮮は日本軍に蹂躙されて布教どころではないため、秀吉をなんとかできそうな国は明国だけです。
1598年、イエズス会士マテオ・リッチはマカオや広東などで布教したのち北京へ向かい、明国朝廷との接触を試みています。これは失敗したものの、同年に秀吉が薨去して日本軍が朝鮮から撤退すると風向きが変わり、1601年にはついに北京の明国皇帝(万暦帝)に謁見して布教を許可されました。彼ら南蛮人のもたらす富と知識と軍事力は、疲弊した明国に大きな利益をもたらし、ポルトガル製の大砲は女直人の侵攻を押し留めて、明朝の寿命をしばらく伸ばすことになります。オランダ船リーフデ号が日本に漂着したのは、このような時期のことでした。
◆Holding Out◆
◆for a Hero◆
【続く】
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