![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58988596/rectangle_large_type_2_bb2c998aa12469ce0c9c3e9fa19d82ca.png?width=1200)
【つの版】ウマと人類史07・塞土地理
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
紀元前5世紀、ヘロドトスはスキティアのギリシア人都市オルビアを訪れて、スキティアやスキタイに関する情報を代官から聞き取りました。神話や伝説、歴史についてはざっと見てきましたから、ここではスキティアの地理についてどのように書かれているか見ていきます。
◆黄金◆
◆神威◆
地理概観
スキティアの領域は、西はイストロス(ドナウ)川から東はタナイス(ドン)川に、南はタウリケ(クリミア半島)から北は森林地帯に至ります。ほぼ現在のウクライナに相当し、モルドバとルーマニアの一部にも及びます。
東西・南北はそれぞれ20日行程の距離があり、1日行程を200スタディア(36km)とすると4000スタディア(720km)四方、51.84万km2です。現代ウクライナの国土面積は60.37万km2だそうですから、少し小さいぐらいですね。北部の森林地帯には別の部族がいたようです。
またスキティアの西方、マレス(ムレシュ)川流域(トランシルバニア地方)には、アガテュルソイという部族が住んでいます。彼らはトラキア風の習俗を持ち、ふんだんに黄金を身に着け、妻を共有して相互に嫉妬や憎悪の念を抱かぬようにしているといいます。オルビアのギリシア人が語った神話では(王家は)スキタイ王祖の兄の子孫とされますが、互いに仲が良くはなく、スキタイ王がアガテュルソイ王に殺されたこともあります。
西部
ドナウ川から北はスキティアの領土で、しばらく進むとテュラス(ドニエストル)という大河があり、河口にミレトスからの植民都市テュラスがあります。この川は「スキティアとネウロイの地の間の大きな湖」から流れ出しているとされますが、実際の源流はウクライナとポーランドの国境に近い、リヴィウ州ドロホヴィチあたりです。
そこから北東へ進むとヒュパニス(南ブーフ)という川があり、その東にボリュステネス(ドニエプル)という川があります。クリミア半島の付け根にあたるこの地域には、カリピダイという「ギリシア系のスキタイ」が住んでいます。その北には順にアリゾネス、農耕(アロテレス)スキタイ、ネウロイが住んでいます。カリピダイはアリゾネスともどもスキタイ風の習俗を持ちますが、麦・粟・レンズ豆・玉葱・ニラなどを栽培して食用にします。農耕スキタイも穀物を栽培しますが、食用のためだけでなく売却するために作っているとされ、キエフの南に広がる黒土地帯の農耕民でしょう。考古学的にはチェルノレス(黒森)文化圏に相当し、スラヴ人の祖とされます。
スキタイというのは、ここでは単に騎馬遊牧民の集団ではなく、彼らに服属する多種多様な生業・出自・言語・文化を持つ人々を広く含んでいます。なにしろ「ギリシア系のスキタイ」や「農耕スキタイ」もいるのですから、アメリカ人とかカナダ人、中国人程度のくくりでしかありません。何系であろうと、スキティアという国に住み、王族に服属して税金を納めるならば「スキティア人」すなわちスキタイとなるのです。
なおドナウ、ドニエストル、ドニエプル、ドネツ、ドンとdonがつく川の名が多いのは、インド・イラン諸語で川を意味する語がdanu-だからです。スキタイ語でistros/turosは「速い」を意味し、ドナウの古称イストロス、ドニエストル及びその古称テュラスはこれに由来します。Borysthenesは語源不明ですが、スキタイ語でもギリシア語でもなく、河口付近にあった先住民の集落にちなんでギリシア人が名付けたようです。ドニエプルとはスキタイ語で「深い川」を意味し、ドン/タナイスやドネツはそのまま「川」「小さなドン」を意味します。ドン川は「川川」という意味になりますね。
ネウロイは、農耕スキタイの北に住む民です。ウクライナ北部からベラルーシ、リトアニアにかけて広がる森林湿地におり、習俗はスキタイ風ですが言語は異なるといいます。考古学的にはプリピャチ川流域に存在したミログラード文化の担い手と思われ、バルト諸語話者かと推測されます。スキタイによると彼らは魔法使いで、年に一度数日間だけ狼に変身するといいます。後世の人狼伝説のはしりでしょうか。またダレイオスの遠征から1世代(30年)ほど前、彼らの国土に多数の蛇が発生し、北方からも蛇の群れが襲来したので、多くのネウロイは故郷を捨ててブディノイの地へ移動したともいいます。彼らから北は知られる限り無人の地であるとされます。
ヒュパニス川の源は、周辺に野生の白馬が生息する湖です(西ウクライナのポジーリャ地方)。水源から船で5日下る間は淡水ですが、そこから4日下って海に入るまでは塩辛くなっており、これは塩辛い川が途中で合流しているからだといいます(実際は海水の遡上による)。そちらの川の水源はエクサンバイオス、スキタイ語で「聖なる道」といい、農耕スキタイとアリゾネスの地の境にあるそうです。またここには巨大な青銅の水甕があり、かつてスキタイの王が人口調査のため1人1個ずつ青銅の鏃を出させ、それを鋳溶かして作ったものとされます。容量は600アンフォラ(2.34万リットル)、厚みは6指寸(11.4cm)もあるそうで、計算上は人口約172万人になります。
中部・東部
さて、オルビアはボリュステネス(ドニエプル)川の河口にあり、スキティアの黒海沿岸地域の中央部にあたります。ボリュステネス川を渡って東岸に着き、海辺から北上すると、まず森林地帯(ヒュライア)があります。その北には農民(ゲオルゴイ)スキタイがおり、「オルビア市民」と自称していますが、カリピダイなどヒュパニス河畔のギリシア人は「ボリュステネス河畔の民」と呼びます。彼らの領域は、ボリュステネス川を遡ること11日(1日36kmとして400km)にも及び、北東はパンティカペス(オアロス、ヴォルスクラ)川まで3日(100km)に及びます。
要はドニエプル川沿岸の肥沃な農地に住む一般のスキタイで、半農半牧の暮らしを送っている人々です。この川はイストロス(ドナウ)に次ぐ大河であり、豊かなことはナイルにも匹敵し、農耕にも牧畜にも漁業にも適しているばかりか、水は清く澄んでいて飲用にも適しています。河口付近では大量の塩が自然に結晶しており、アンタカイオス(チョウザメ)という大魚が棲息しています。最大40日も船で上流へ遡ることが可能ですが、源流はこの頃まだ発見されていません。
農民スキタイの北には広漠たる無人の荒野があり、その彼方にアンドロパゴイ(ギリシア語で「食人族」)が住んでいます。服装はスキタイ風ですが言語は異なるといい、ネウロイと同じくベラルーシ付近の住民でしょう。スキタイやマッサゲタイ、イッセドネスもたまに人肉を調理して食べますが、わざわざ食人族と言われるぐらいですから日常的に人間を取って食うのでしょうか。彼らの北には、もはや人類は住んでいません。
農民スキタイの地からパンティカペス川を東に渡ると、タナイス(ドン)川まで14日行程(約500km)に渡って樹木がない遊牧(ノマデス)スキタイの領域があります。ウクライナでいうハリコフ州・ドネツィク州・ルハンシク州、ロシア側でいうロストフ州北部にあたります。遊牧スキタイは種まきも耕作もしない真の遊牧民ですが、王族はまた別にいます。この領域の中央にはヒュパキリスという海に注ぐ川があり、ボリュステネス川から分かれたゲロスという川が遊牧スキタイの領域の南境となって、ヒュパキリスに合流しています。ゲロスはコンカ川かと思われますが、ヒュパキリスはわかりません。ドネツ川はドン川と合流しており、のち小タナイスと呼ばれました。
ゲロス川の南、西はボリュステネス川から東はタナイス川まで、南はタウリケ(ここではクリミア半島南部)に接し、南東はキンメリア(ケルチ)海峡に至るまでが、王族スキタイの領域です。つまりヘルソン州、ザポリージャ州、ドネツィク州、およびクリミアの北半分です。スキタイ王はここを直轄領として支配し、副王たちは遊牧スキタイや農耕・農民スキタイを支配しているわけです。キンメリア人たちの中心地もここにあり、バルカン半島へは向かわずケルチ海峡を渡ってタマン半島へ移り、カフカースを越えて南下したのでしょう。海峡は冬には凍結し、馬車で対岸へ渡ることができます。
タウリケに残ったキンメリア人はタウロイと呼ばれ、掠奪と戦争を生活の手段とし、難破漂流したり黒海上で襲って捕らえた船の乗員をアルテミス女神へ生贄に捧げました。生贄の生首は竿に刺して屋上に掲げ、魔除けにしたといいます。その後もクリミア半島には遊牧民たちが次々と集まり、スキタイもゴート族もモンゴル人も定着します。よほど暮らしやすいようです。
遊牧スキタイの北、アンドロパゴイの東には森林地帯があり、メランクライノイ(ギリシア語で「黒い長衣を纏う者たち」)が住んでいます。これはマイオティス湖(アゾフ海)から北に20日(720km)の場所ともいい、ウクライナ北端のチェルニーヒウ州あたりです。習俗はスキタイ風ですが言葉は通じず、古スラヴ系かと推測されます。これより北は沼沢地が広がるばかりで、知られる限り人類は住んでいません。
またオアロス(ヴォルスクラ)川の上流に、ブディノイという森林狩猟民がいます。彼らは多数の人口を有し、青い瞳と赤毛(金髪)を持ち、松の実を常食とします。彼らの住む土地は深い森に覆われ、湖と沼沢があり、カワウソやビーバーなどが暮らしています。これらの毛皮は防寒具となり、内臓は薬になります。ネウロイやゲロノイは彼らの土地に移住してきた人々で、言語も容貌も異なるといいます。ゲロノイはゲロノスという都市を作って定住しているギリシア系住民で、城壁も家屋も神殿も木で作られ、ディオニュソスを祀っています。ポルタヴァ州ベリスクにはこの時代の木造都市遺跡が存在し、ヘロドトスのいう「ゲロノス」ではないかと考えられています。
東方諸族
スキティアの領域はここまでですが、タナイス(ドン)川の東には他にも多くの部族がいます。まずサウロマタイという部族がおり、マイオティス湖(アゾフ海)の奥から15日行程(540km)に渡って広がる草原地帯に住んでいます。アゾフから東へ540km進むと、ちょうどヴォルガ川に達します。伝説によれば、彼らはスキタイの若者たちが北カフカースのアマゾン族と交わって儲けた者たちの子孫であり、少し訛ったスキタイ語を話しています。やがて東方からはサルマタイという似た名前の連中がやって来ますが、サウロマタイとの関係はよくわかっていません。
その南、マイオティス湖の東岸やタナイス川の河口付近には、シンドイやマイオタイという部族がいます。北カフカース系の半農半牧の定住民で、キンメリア人やスキタイも混じっていたようです。スキタイと同じく沿岸部のギリシア人植民都市と交易し、クリミア半島側に興ったボスポロス王国の王は「シンドイとマイオタイの王」と称していました。
タナイス川を遡っていくと、その源流付近にテュッサゲタイという部族がいます。彼らはブディノイの北東の森林地帯に住み、隣接するイユルカイと同じく狩猟で生計を立てています。彼らは馬と犬を用いて狩りをしますが、狩人は樹上で待ち伏せし、猟犬と馬は茂みに身を伏せます。獲物が近づくと樹上から矢を射掛け、すぐ馬の背に飛び乗って追いかけるのです。モスクワの南の森林地帯にあたるようです。その東には別種のスキタイがおり、王族スキタイに背いて亡命してきたといいます。ヴォルガ中流域、サラトフやサマーラあたりの遊牧適地でしょうか。ここまではいずれも土壌が深く平坦ですが、ここから先は砂礫だらけの荒れ地だといいます。
そこを過ぎると高い山脈(ウラル山脈)があり、その西麓にアルギッパイオイという部族がいます。スキタイ風の服装をしていますが言語は独特で、生まれながらに禿げ頭であり、獅子鼻で顎が張っています。彼らは家畜を飼っていますが、土地が痩せていて数が少なく、ポンティコン(ウワミズザクラ)という木の実を常食とし、家畜の乳と混ぜたりしています。夏は木陰に暮らし、冬には樹に白いフェルトをかけ、武器を持たず、周辺諸族からは争いごとの調停者として神聖視されています。
この地まではスキタイやギリシア人が訪れることもありますが、スキタイでも七人の通訳を使わないと話が通じません。アルギッパイオイの彼方にはイッセドネスが住むといい、山羊の脚を持つ人間が山脈の中に住むとも、一年のうち半分を眠って過ごす者たちがいるともいいます。イッセドネスやアリマスポイなどについては、前に触れましたので繰り返しません。南シベリアを通ってバイカル湖へ通じる川沿いの交易路が古くから存在しました。
さてヘロドトスによれば、スキティアを含むこれらの国々は、ギリシアに比べれば極寒の地です。一年のうち8ヶ月は冬で耐え難いほど寒く、海峡は凍りつき、地面は氷雪に覆われ、上で火を焚いてようやく土があらわになります。残り4ヶ月も温度は高くなく、降雨や雷鳴はこの時期に集中します。あまりの寒さに牛は角が生えにくく、ロバやラバ(ロバとウマをかけ合わせたもの)はこの地に存在せず、ウマはそれらを見ると驚くといいます。そしてスキタイによれば、自分たちが知りうる範囲より北には、羽毛(雪)が空も地上も埋め尽くしていて先に進めないといいます。
欧亜大陸
またヘロドトスは、大地の形状や呼称についてこう述べています。「アジアとリビア(アフリカ)とヨーロッパは、みな一つに繋がっている大地の一部分である。アジアとヨーロッパの境を、タナイス(ドン)川やキンメリア(ケルチ)海峡、あるいはコルキスのファシス(リオニ)川とするのは誤っており、誰が言い出したかも定かでない。リビア大陸が海に囲まれていることは、エジプト王がフェニキア人を派遣して確かめている。アジアはインダス川の河口が知られる限り東の果てで、そこから西に海を進めばリビアに至る。しかし、(カフカース以北をヨーロッパとするならば)ヨーロッパの東と北は未だに極められておらず、海に囲まれているのかは分からない。西の果て(イベリア)はリビアの西の果てと同じぐらいまで伸びていることが判明しており、東は少なくともインダス河口と同じぐらいまでは伸びているだろう。だとすればヨーロッパは、北の果ては極められぬほど遠く、東西は少なくともアジアとリビアを足したほどの幅があるということになろう」
これは「ヨーロッパ」の範囲について彼以前とは異なる意見を述べたものですが、いろいろ問題があります。まず「ヨーロッパ(エウロペイア)」とは、フェニキア人が小アジアとギリシアやバルカン半島との間で交易をしていた頃、東側を「アス(日の昇る方)」、西側を「エレブ(日の沈む方)」と呼んだことによります。従って、アナトリア(これも「日の昇る方」の意です)から海を渡って「西」がヨーロッパの原義であり、バルカン半島はともかくウクライナの大部分はアナトリアの西端より「東」にありますから、実際は「アジア」と呼んでも過言ではないのです。
ホメロスの叙事詩では「大地はアシア(小アジア=アナトリア)、ペロポネソス、エウロペア、トラキアに分けられる」と歌われますが、この場合のエウロペアはトラキアとペロポネソス半島の間、アッティカやボイオティアやテッサリアなど「ギリシア本土」を指すに過ぎません。
自らを「ヨーロッパ人」とするギリシア人は、黒海の北方をもアジアではなくヨーロッパに含め、スキティアの東の境であるドン川、あるいはペルシアの北の境であるリオニ川やカフカース山脈を「ヨーロッパとアジア」の境としました。これはアジア全土とエジプトを覆うほどのペルシア帝国に対して、吹けば飛ぶような都市国家ばかりのギリシア人が見栄を張り、「俺たちはペルシアとは違う、広大な『ヨーロッパ』の一員である」と主張したに過ぎません。ヘロドトスはそれをさらに拡大したわけですが、この「大ヨーロッパ」説はその後の地理書では採用されず、古代から近世までヨーロッパの東の境はドン川とアゾフ海でした。
ウラル山脈とカフカース山脈をヨーロッパとアジアの境と定めたのは、遥か後世の西暦1730年、ピョートル大帝時代のロシア帝国でのことです。この年、ポメラニア出身の地理学者シュトラーレンベルク(1676-1747)が地理書『ヨーロッパとアジアの北部ならびに東部』を出版し、そのように定義したのです。これ以後、ウラル山脈やウラル川から東はアジア(あるいはシベリア、スキティア)と呼ばれるようになり、チャイナまでも「スキティア」と呼ばれました。アジアを西や中央、南や東と分けたのは最近のことです。
とはいえいわゆる「ヨーロッパ大陸」はアジアやアフリカに比べれば非常に狭く、独立したプレートでもないので地学上はユーラシア大陸西端の大きな「半島」に過ぎません。ヨーロッパロシアやウクライナ、ベラルーシを除けば、せいぜいインドやアラビアと同じ程度の面積(400万km2)です。たまたまそこそこ多くの人間が居住し、それなりに高度な都市文明を築き、近世以後に地球全土へ植民地を広げたために、自ら誇って「大陸」だとしているだけです。インドを亜大陸と呼ぶのなら、ヨーロッパもそうでしょう。そして近代のヨーロッパ人は、ヨーロッパとアジアをあわせて「ユーラシア(西-東)」という矛盾する造語を生み出したのです。アジアかヨーロッパかはっきりしないこの地域は、まさにユーラシアと呼ぶべきかも知れません。
ヘロドトスの「調査報告(ヒストリアイ)」がヨーロッパ人に広まったがゆえに、ペルシア戦争やアレクサンドロスやローマ帝国のゆえに、またキリスト教がローマ帝国を乗っ取ったがゆえに、ヨーロッパ人は「西洋=ヨーロッパ世界」を神聖視し、「東洋=アジア世界」を劣った、野蛮な、腐敗堕落した悪魔の領域とみなすようになりました。この傾向は次第に強まり、近代植民地主義盛んなりし頃から冷戦時代を経て現代まで続いています。彼らが崇めるナザレのイエスは、ヨーロッパ人ではなくアジア出身なのですが。
◆黄金◆
◆神威◆
スキティアとその周辺の地理や住民については、おおむねわかりました。では、次にスキタイの習俗について見ていきましょう。
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
![三宅つの](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/22030078/profile_3821ffccf7ef8d6196daeac8b7ec79d8.png?width=600&crop=1:1,smart)