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【つの版】ウマと人類史:近代編14・阿片戦争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1839年、清朝がアヘンを密輸する英国商人に制裁を課すと、英国議会は国益を守るためとして出兵を決定します。悪名高いアヘン戦争の始まりです。

◆戦争◆

◆MAN◆

産業革命

 この頃までの英国の状況を見てみましょう。ポルトガル・スペイン・オランダに遅れて17世紀に対外進出を開始した英国(1609年からイングランド・スコットランド・アイルランド同君連合、1707年からグレートブリテン・アイルランド同君連合、1801年からグレートブリテンおよびアイルランド連合王国)は、世界中に植民地を築いていきました。これにより莫大な富が英国に流れ込み、英国は「商業革命」の時代をまず迎えます。

 いわゆる産業革命は、商業革命によって盛んになった綿織物産業において開始されます。中世以来、英国の主要な輸出品は羊毛を加工する毛織物でしたが、インド産の綿が安価大量に輸入されたことで、綿織物が盛んに加工・輸出されるようになります。需要の増大に伴い織機や紡績機の改良が進み、大量生産のため水力やウマを動力として機械を動かすことも始まりますが、そこへ蒸気機関が新たな動力としてもたらされたのです。

 蒸気機関自体は古代にアイディアがありましたが、17世紀末から18世紀にかけてウマに代わる鉱山での新たな動力として注目され、試行錯誤が繰り返されました。1769年に新式の蒸気機関を開発したジェームズ・ワットは、そのパワーを表すため「馬力(ホース・パワー)」という概念を作り出し、「標準的な荷役馬(輓馬)1頭が継続的にものを動かす仕事率」と定義しました。数千年の間労働力として人類社会に貢献してきたウマが、ついに蒸気機関に取って代わられ始めたのです。

 ウマの牽引力の平均を180ポンド(約81.54kg)とし、1時間進ませた距離を1万852フィート(約3.255km)として、1秒間(3600分の1時間)に出せるパワーが1馬力となります。英国生まれなのでヤード・ポンド法ですが、フランスではメートル法に換算しており、日本ではフランス馬力を用います。

 爆発の危険がある蒸気機関を作り動かすには、大量の燃料と頑丈な鉄鋼、正確な機械設計と加工の技術が必要です。英国には木材は乏しいものの石炭は豊富に存在したため、早くから鉄の生産などに石炭が利用され、採掘されてきました。17-18世紀には高炉や反射炉が出現し、蒸気機関による送風装置と組み合わせて、大量の鉄を生産できるようになります。

 工作機械の改良や運河建設のラッシュも始まり、鉱山用トロッコのレールが鋳鉄で作られるようになり、輸送用に蒸気船蒸気鉄道も発明されます。さらにガラスや紙の増産、印刷機の改良、セメントの建築材への利用、ガス燈の発明、電気による通信技術(電信)の実験も並行して進められ、英国は世界随一の先進文明国として凄まじい発展を遂げていったのです。一方で貧困層は仕事を機械に取られたうえ、苛酷な格差社会で底辺労働に苦しむこととなりました。

大英帝国

 1783年に北米植民地はアメリカ合衆国として独立したものの、スペインに代わって大西洋の制海権をもった英国には経済的に従属せざるを得ませんでした。アメリカは1812-15年の米英戦争でなんとか経済的自立を達成しますが、19世紀前半には英国の支援で中南米のスペイン植民地が次々と独立し、やはり英国に経済的従属を強いられます。カナダやカリブ海諸島、南米北岸のギアナ(ガイアナ)は英国の植民地として残りました。南アフリカにはオランダがケープ植民地を築いていましたが、ナポレオン戦争に乗じて英国が占領します。居留オランダ人(ボーア人)は英国の支配を嫌って反乱を起こし、北東の内陸へ逃れて独立を保ちます。

 インドにおいては前述のようにムガル皇帝を傀儡化し、各地の藩王国を従えてほぼ征服しています。1818年には宿敵マラーター同盟を解体に追い込みました。さらにオランダの植民地や東南アジア諸国を次々と攻撃し、セイロン(スリランカ)やマラッカ海峡周辺(マレーシア・シンガポール)を制圧しました。1826年、英国はマラッカ海峡周辺を「海峡植民地(Straits Settlements)」と名付け、東方進出の拠点とします。

 東インド(現インドネシア)はオランダに返還されますが、オーストラリアやニュージーランド、南太平洋の島々にも英国の植民地が築かれ、いまや英国は「日の沈まぬ帝国」となりました。それぞれの植民地は海路で繋がれ、地球の一体化(グローバリゼーション)は相当程度まで進展します。

 ナポレオン戦争で欧州やロシアが荒廃した一方、本土が戦場にならずに済んだ英国は、戦勝国として莫大なカネと権益を手にします。歴史的な経緯により英国では立憲君主制と議会政治が根付いており、領主貴族や大富豪たちが国会議員となって国政を牛耳り、自分たちの権益を守るために熾烈な党派争いを繰り広げていました。彼らは成功を背景に他国を「半文明国」や「野蛮人」として見下すようになりましたから、清朝なにするものぞという気分はわからなくもありません。不義の戦争であっても勝てば官軍ですし、勝利して開国させれば人口4億の巨大市場が手に入ります。商人や密偵による情報によれば、清朝の海軍力は張り子の虎で、英国海軍には敵いません。

 こうしたわけで英国は「清朝は英国商人居留区の井戸に毒を撒いた」とかプロパガンダを行い、アヘンの密輸が原因という汚名をなるべく覆い隠そうとしました。俗にブリカスと呼ばれるのもむべなるかなです。

阿片戦争

 1839年10月末、エリオットは2隻のフリゲート艦を率いて自国商船の広州入港を妨害し、11月3日には広州を守る清朝艦隊29隻へ砲撃を開始します。清朝の艦船にはポルトガル製の旧式艦砲が搭載されていましたが、さしたる損傷を与えられぬまま一方的に砲撃を受けてしまいます。林則徐らは広州に大量の兵を集めて防備を固めますが、1840年8月までに派遣された英国艦隊(軍艦16隻、輸送船27隻、武装汽船4隻、陸兵4000)は広州に入らず、台湾海峡を抜け寧波沖の舟山列島を攻略したのち、北上して天津へ向かいます。

 首都に迫られて驚愕した道光帝は林則徐に責任を負わせて新疆へ左遷し、後任の琦善(キシャン)に英国と和平交渉を行わせます。1841年1月、英国は天津や舟山列島から撤退したのち清朝と川鼻条約を締結し、広州での貿易の再開、広州湾の出入口にある香港島の割譲、賠償金600万ドルの支払い、両国間の対等交渉等を要求します。しかし清朝では英国艦隊が撤退したことから強硬派が勢いを盛り返し、キシャンは罷免されて川鼻条約は批准されませんでした。英国はこれにより全面戦争にうって出ます。

 この頃の「ドル」はメキシコで発行された8レアル銀貨のことで、重量は26.8g前後、1両(海関両、37.68g)の72%です。公定価格は1両=1000文ですが、当時は銀1両=1600文に高騰しており、仮に1文を現代日本の50円とすれば1両=8万円、1ドル≒1152文=5.76万円となります。とすれば600万ドルは432万両=3456億円となります。当時の清朝の歳入は4000万両(3.2兆円)に達しましたが、国庫歳入は塩税と海関税が大半で、アヘン1300トンを1500万両(1.2兆円、歳入の4割)で輸入している有様でした。

 清朝は陸上では強くとも海軍力は乏しく、制海権を抑えられた以上、各地に兵や大砲を分散して防御せざるを得ません。長江以南の港湾都市やそれを守る船団・砲台は艦砲射撃を浴びせられ、水深の浅い内陸水路には帆走に拠らない蒸気船が自在に入り込み、砲撃を浴びせて後続艦隊の先払いとなります。広州では広東水師提督の関天培が壮烈な戦死を遂げ、両江総督の裕謙は鎮海・寧波陥落の責任をとって自決しました。

 秋冬にはモンスーン(台風)が来るため英国の侵攻は停止しますが、1842年春には侵攻を再開、5月には長江(揚子江)に侵入します。7月には南京の西の鎮江を陥落させ、帝都北京と江南を繋ぐ「京杭大運河」を閉塞することに成功しました。大人口を抱える北京は、大量の食糧や物資をこの大運河で運び込んでいたため、ここを抑えられると干上がってしまいます。

 1842年8月29日、万策尽きた清朝は英国と屈辱的な講和を結び、不平等条約を押し付けられます。これにより香港島は英国に割譲され、広州・福州・厦門・寧波・上海の五港が開港させられ、海外貿易を独占してきた特権的な商人ギルド(公行)は廃止されて、貿易は完全に自由化されます。賠償金は4年分割としても2100万ドル(1512万両≒1.2兆円)に値上げされ、外国商人の治外法権や、関税は相手国との協定によって定められること(関税自主権の喪失)なども決定します。1844年にはアメリカやフランスも同様の条約を清朝と締結し、広東システムは崩壊しました。

 清朝の敗戦と開国・開港は、これまで比較的平穏を保ってきた東アジア世界を震撼させます。朝鮮も日本も、英国を始めとする欧州列強の海からの侵略に晒される危険が強まったのです。ではこの頃、北方の帝国ロシアはどうしていたのでしょうか。

◆戦争

◆MAN

【続く】

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