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【つの版】度量衡比較・貨幣24

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 十字軍運動が行き詰まりを見せていた1252年、フィレンツェ共和国は重量3.5gのフィオリーノ金貨を発行しました。同年にはジェノヴァでもほぼ同じ金貨ジェノヴィーノが発行され、欧州・地中海世界の基軸通貨となって行きます。そしてこの頃、東方からはモンゴル帝国の大軍が迫っていました。

◆さよなら◆

◆サノバビッチ◆

聖地進軍

 モンゴル皇帝モンケの弟フレグは、兄よりアム川以南の平定を命じられ、ホラズム・シャー朝の滅亡後治安が悪化していたイラン高原に侵攻します。彼は1256年にイラン北部のニザール派教団を、1258年にはバグダードのアッバース朝を滅ぼし、アゼルバイジャン地方に駐留してシリアを窺いました。彼はネストリウス派キリスト教徒で、キリキアのアルメニア人や十字軍諸国もモンゴル軍と協力し、聖地奪還を目指します。

 しかしモンケの崩御を聞いたフレグは、配下のキトブカをシリアに残してアゼルバイジャン地方へ引き返します。キトブカは集まったキリスト教徒の連合軍を率いてシリアからエルサレムを目指しますが、1260年にマムルーク朝軍に大敗を喫して戦死しました。モンゴル軍はシリアから追い払われ、マムルークの将軍バイバルスがカイロでスルタンに即位します。

君府奪還

 同じ頃、東ローマ帝国/ニカイア帝国は、ラテン人の手からコンスタンティノポリスを奪還すべく戦っていました。ニカイア帝国はラテン人がブルガリアに苦戦しているのを好機として小アジアからヨーロッパ側に進出し、トラキアやマケドニアを平定してコンスタンティノポリスを囲い込みます。

 シチリア王マンフレーディ(フリードリヒ2世の庶子)はエピルス・アカイア・アテナイ・ヴェネツィアなどと同盟し、1259年に西マケドニア地方のペラゴニアでニカイア軍と戦いますが敗れ、1260年にはコンスタンティノポリスが包囲されました。

 ニカイア皇帝ミカエルは激しい攻撃を仕掛けますが、海と堅牢な城壁に守られた都は陥落せず、ラテン人と一年間の休戦条約を結びます。そしてラテン・ロマニア帝国の後ろ盾であるヴェネツィア海軍を脅かすため、ヴェネツィアのライバルたるジェノヴァと条約を結び、通商特権の見返りに海軍を提供させることとしました。

 ところがこの条約締結から数カ月後、ニカイアの将軍アレクシオスが僅かな兵を率いてコンスタンティノポリスに潜入します。彼は内側から門を開けてニカイア軍を招き寄せ、市内に火を放ちました。ジェノヴァの手助けなくニカイア軍は帝都を奪還し、東ローマ帝国は復活したのです。

 傀儡政権ラテン・ロマニア帝国を失い、黒海への交易路を喪失したヴェネツィアは経済的に大打撃を被ります。これに代わってジェノヴァが勢力を伸ばし、ヴェネツィアの得ていた権益を全て我が物としました。すでに1256年から両国はアッコンでの権益を巡って敵対しており、地中海各地で両国の艦隊や軍隊が衝突しています。復活した東ローマ帝国はジェノヴァ側につきますが、ヴェネツィアを敵に回し過ぎても危険だとして1268年に講和し、ヴェネツィアの権益はある程度回復されました。

聖王再征

 ヴェネツィアとジェノヴァの和平を取り持ったのは、フランス王ルイ9世でした。彼は第七回十字軍から帰還後は内政に力を入れ、また欧州諸国の調停役を買って出るなどしていましたが、50歳を過ぎて病気がちになり、再び十字軍遠征を行って聖地を奪還したいと望んでいました。実際1268年にはアンティオキアがマムルーク朝に征服され、十字軍諸国は風前の燈火です。

 彼は敬虔で聖遺物を好み、1236年にはラテン皇帝ボードゥアン2世から茨の冠やら真の十字架やらを1万1000リーヴル(1リーヴル12万円として13.2億円)で購入し、これを奉納するためサント・シャペル礼拝堂を4万リーヴル(48億円)かけて建設したといいます。名君ではあるのですが。

 また、ルイの弟シャルル(アンジュー家なのでシャルル・ダンジューと呼ばれます)はプロヴァンス伯として南フランス(当時は法的には神聖ローマ帝国の一部ですが)を支配し、1266年には教皇と結んでシチリアへ侵攻、マンフレーディを討ち取ってシチリア王国を征服しました。1268年にはマンフレーディの甥コッラディーノを捕縛・処刑し、フリードリヒの家系であるホーエンシュタウフェン朝は断絶します。シチリア王となったシャルル(カルロ)は兄ルイを唆し、シチリアの南のチュニジアへ十字軍を向かわせ、自分の権益を拡大しようと目論みました。

 1270年、フランス王ルイ率いる十字軍は、南仏からサルデーニャ島を経てチュニジアに上陸します。しかし現地勢力の抵抗に手こずったうえ疫病が流行し、8月にルイは崩御しました。王太子フィリップは帰国して王位を継承し、シャルルは現地のイスラム王国ハフス朝と講和してシチリアへ帰国します。ところが、そこへ英国王太子エドワードがやってきました。

 エドワードはルイとともに十字軍遠征を行う予定でしたが、事情を聞くと遠征を続行することとし、1000人ほどを率いてアッコンへ向かいます。しかしあまりに少人数だったため、モンゴル帝国(フレグ・ウルス)に使者を派遣して同盟と援軍を要請しました。彼らは派遣されたモンゴル騎兵とともにマムルーク朝軍と小競り合いを行いますが、1272年に講和して帰国します。

 1271年、ヴェネツィアの若者マルコ・ポーロは父ニコロや叔父マフェオとともにモンゴル帝国へ大旅行に出発しています。ニコロとマフェオは1260年に政情不安なコンスタンティノポリスを離れ、クリミアからサライを経て東方へ向かい、クビライ・カアンに謁見していました。莫大な富をもたらす東方との交易路を回復するため、ヴェネツィアはシチリアと手を組みます。

晩祷戦争

 シチリア王シャルルは十字軍の失敗にもめげず、地中海に自らの帝国を築くべく策謀を繰り広げます。彼はアカイア公やラテン・ロマニア皇帝、エルサレム王らを庇護下に置き、その称号を次々と相続して「ローマ皇帝、エルサレム王、アカイア公、シチリア王」を兼ねました。またヴェネツィアと手を組んで東ローマ帝国を再征服しようと図り、1281年には教皇選挙に介入してフランス人を教皇に擁立、東ローマへの十字軍派遣を認めさせます。

 シャルルは意気揚々と遠征準備を進め、支配地域に重税を課して遠征費用を調達しますが、1282年3月にシチリアの首都パレルモで住民が暴動を起こし、シチリア全土に拡大します。暴動開始時にパレルモで晩の祈祷を告げる鐘が鳴ったことから、これをシチリアの晩祷(晩鐘)と呼びます。おそらく東ローマのスパイの煽動もあり、遠征用の艦隊は焼き払われました。

 怒ったシャルルは暴動鎮圧に乗り出しますが、シチリア人はイベリア東部を治めるアラゴン王ペドロ3世に支援を要請しました。彼はマンフレーディの娘を娶っており、姻戚関係によりシチリア王位の継承権を持っていたのです。ペドロは艦隊を率いてシチリアに攻め寄せ、シャルルをシチリアから追い出しました。シャルルは教皇に命じてペドロを破門させ、彼に対する十字軍を呼びかけます。フランス王フィリップがこれを率いました。

 この不正義極まる十字軍はアラゴン軍によって散々に打ち破られ、シャルルは東ローマ征服どころかシチリアさえ取り返せぬまま、1285年失意のうちに病没します。同年にはフランス王フィリップ、教皇マルティヌス、アラゴン王ペドロも亡くなっています。以後、シチリア王国はシチリア島と南イタリアに分裂し、後者はナポリ王国として存続しました。1291年にアラゴン王国への破門は解かれ、同年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して、東方における十字軍国家はほぼ消滅します。

元首金貨

 こうした中、1284年にはヴェネツィア共和国でドゥカート金貨が発行されました。重量と純度はフィオリーノやジェノヴィーノとほぼ等しく、ほぼ同等の貨幣として広く流通しました。金貨の発行がフィレンツェやジェノヴァより32年も遅れたのは東ローマのヒュペルピュロン金貨を用いて済ませていたからですが、東ローマ復活からは23年も経っています。シチリア王シャルルの野望にはヴェネツィアも関与していたので、それが潰えたことで改めて独自の貨幣を発行したのでしょう。東ローマも復活したもののすっかり衰えており、この頃にはジョチ・ウルスに服属して同盟しています。

 1295年にマルコ・ポーロが東方からヴェネツィアに帰国した頃、祖国はジェノヴァおよび東ローマとの戦争を再開しました。1296年にジェノヴァ人がコンスタンティノポリス在住のヴェネツィア人を虐殺し、東ローマはジェノヴァ支持に回りますが、宣戦布告されると震え上がって和平を結びます。強気なジェノヴァはヴェネツィア艦隊を単独で撃破し、マルコ・ポーロは捕虜となって獄中で『東方見聞録』を著すことになります。

 この頃、アナトリア西部ではオスマン帝国が産声を上げます。ヨーロッパ世界は中世後期に突入し、東方からもたらされた様々な文化が衝突しながら花開き、ルネサンス文化を形成していくことになります。

◆DUCATI◆

◆DUCATI◆

【続く】

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