【つの版】倭国から日本へ20・乙巳の変
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
舒明天皇の崩御後、皇后の宝皇女が擁立されて皇極天皇となりました。推古天皇に続く史上二人目の女帝(女王)ですが、彼女は舒明天皇と蘇我氏の娘の間に産まれた古人大兄皇子が成人するまでの中継ぎです。多くの王族は不満を鬱積させ、蘇我入鹿は先んじて最有力候補であった山背大兄王を粛清しました。これに対し、中臣鎌足は舒明と皇極の長子である中大兄皇子と手を組んで、入鹿の排斥をもくろみます。
◆20◆
◆45◆
常世の神
皇極3年(644年)には様々な兆しが書かれています。3月にはフクロウが蘇我蝦夷の河内の別宅の倉で子を産み、宇陀に紫の霊芝が出現し、6月には根が別で先が合わさった大きな百合が献上され、三輪山では眠った猿が歌い、剣池に一茎二華の蓮が咲きます。巫女たちが神憑って入鹿に多くの託宣を述べ、怪しい童謡(巫歌)が流行します。皆この後に起きることを予言したものとされていますが、中大兄らを正当化する事後予言に決まっています。
7月には新興宗教が流行します。東国の富士川のほとりの大生部多(おおふべの・おお)という人が、橘や山椒の木につく蚕に似た芋虫を「これは常世の神である。祀れば富と長寿を授かるぞ」と言って祀らせました。巫女たちも偽って託宣し、「常世の神を祀れば、貧しい者は富を得、老人は若返る」と告げたので、人々は争ってこれを拝みました。また人々に財産を投げ出させ、酒や野菜や家畜を路上に並べ、「新しい富が入ってきた!」と連呼させました。彼らは都にもやってきて同じことをさせ、人々は歌い舞って福を求めましたが、何の益もなく損するばかりでした。
典型的なカーゴ・カルトです。外来文化が現地文化と衝突すると、社会が不安定になり、胡乱なカルト宗教が発生するのは世の常です。常世とは海の彼方にあるという祖霊界で、富の源泉と考えられていました。カルト運動は富の再分配を求め、歌舞音曲を伴い熱狂的に流行し、時に反乱を起こして潰されます。黄巾の乱や五斗米道、孫恩の乱や大乗の乱、近くは太平天国や義和団の乱、ええじゃないか、東学党の乱など、いわゆる「千年王国運動」は東アジアでもしばしば発生しました。今もなんか騒いでいますね。
時に、かつて聖徳太子に仕えていた秦河勝は山背国葛野郡(京都市右京区付近)にいましたが、民が惑わされるのを憎んで大生部多を打ち懲らし、このカルト運動をやめさせました。人々は「太秦(の秦河勝)は、神の中の神だと評判の常世の神を打ち懲らしたぞ」と讃えたといいます。秦河勝が唯一神を崇めるユダヤ人やキリスト教徒というわけではなく、迷信を鎮圧しただけですね。
不穏な気配
社会不安や王族の不穏な動きを警戒してか、蘇我蝦夷と入鹿は11月に豊浦の甘橿丘(甘樫丘)に宮殿めいた豪邸を建設し、大丹穂山に寺を、畝傍山の東に砦を建てて各々に武器を蓄え、城柵を巡らし護衛を立てます。近年の発掘でこれらの施設は実際に見つかっています。
この頃、高句麗は百済と結んで新羅を盛んに攻撃しており、唐は新羅救援のためついに高句麗遠征を開始しています。水陸両路から攻めかかった唐軍は遼東半島を主舞台として優勢に進軍しますが、高句麗は激しく抵抗し、645年2月には太宗自ら出陣する大規模な戦争となりました。
蘇我氏の築いた防衛施設は、天皇の住む板蓋宮を外敵から防衛するように巡らされており、内外の不穏な情勢を警戒したものとも思われます。
皇極4年乙巳(645年)正月、各地の山々に猿のうめきうそぶくような声が鳴り響き、近づいてみると姿はなく、人々は「伊勢の大神の使いである」と言いました。伊勢の神使は鶏とされますが、これは猿でしょうか。
4月、高句麗から学問僧らが情勢を伝えました。当然唐と高句麗の大戦争について伝えたものかと思えば、「同学の鞍作得志が高句麗に毒殺された」というニュースです。なんでも彼は虎を師友として様々な妖術を学び、虎から授けられた針で病気治療を行っていましたが、のち針を虎に奪われ、帰国したいと思っていたところを殺されたのだといいます。何者でしょうか。
乙巳の変
唐と高句麗の戦争が膠着状態にあった皇極4年6月、中大兄は中臣鎌足や倉山田麻呂と謀り、「三韓(高句麗・百済・新羅)が朝貢の使者を遣わして来たから、そこで蘇我入鹿を斬ろう」と言い合いました。天皇がお出ましになると、古人大兄が傍に侍します。入鹿は疑い深く常に剣を帯びていたため、鎌足は俳優(道化師)を遣わして笑わせ、剣を外させます。
倉山田麻呂が三韓の上表文を読み上げると、中大兄は守衛たちに各門を守らせ、自ら槍を持って大極殿の脇に隠れます。鎌足は弓矢を持ち、佐伯子麻呂と葛城網田には剣を授け、「ぬかるなよ、素早くやれ」と命じます。しかし子麻呂らは恐れおののいて嘔吐し、入鹿の前に出ようとしません。倉山田麻呂は段取りどおり子麻呂らが斬りかからないため、ぶるぶる震える有様で、入鹿は「どうした」と訝しみました。
中大兄は子麻呂らをどやしつけ、自らも剣を振るって飛び出すと、雄叫びをあげて入鹿の頭から肩にかけて斬りつけます。驚いた入鹿に子麻呂が斬りつけ、脚を傷つけます。入鹿は天皇の足元に倒れ、「わしに何の罪がある」と言い、天皇も驚いて「何事だ」と問います。中大兄は平伏して「鞍作(入鹿)が王子らを滅ぼして帝位を傾けんとしています」と答えました。恐れた天皇が逃げ去ると、子麻呂と網田が瀕死の入鹿にとどめを刺しました。
この日、大雨が降って庭に水が溢れていましたが、入鹿の死体は庭に投げ出されて蓆で覆われました。しかしこれで終わりではありません。古人大兄は恐れて自宅へ逃げ込んだ一方、中大兄は法興寺(飛鳥寺)に入って砦とし、群臣を集めて同意を取り付けると、入鹿の死体を蘇我蝦夷のもとへ送りつけました。漢直らは武装して蝦夷を助けようとしましたが、説得されて武装解除し、他の人々も蝦夷を見捨てて中大兄につきます。進退窮まった蝦夷は館に火を放って自決し、ついに蝦夷・入鹿は滅びました。これを時の干支から「乙巳の変」といいます。蘇我氏自体は倉山田麻呂らのもと健在です。
この時、なぜか蝦夷の家にあった天皇記と国記も共に焼けて失われようとしましたが、船史恵尺は素早く国記を取り出して中大兄に奉ります。もちろん史書を勝者の都合の良いように書き換えるためです。
逆臣扱いとはいえ彼らのシンパは数多く、あまり貶めると恨みを買います。中大兄は両者の死体を墓に葬ることを許し、哭泣して服喪することも許可しました。その翌日、皇極天皇は史上初めて生前退位し、皇位を同母弟の軽皇子に譲ります。これが天万豊日天皇、漢風諡号は孝徳天皇です。中大兄は自ら天皇とはならず、彼の皇太子となりました。
なぜこの時期に蘇我入鹿が殺されたかは諸説ありますが、唐と高句麗の戦争が関係していそうではあります。新羅から朝貢使節は来ているものの、伝統的に倭国は百済を友好国ないし属国として扱っていますし、唐の使者の高表仁は倭王の機嫌を損ねています。蘇我氏が新羅派と誼を通じたから百済派に殺されたという可能性もありますが、まあ中大兄と軽皇子が群臣と組んでクーデターを起こした、というのが穏当でしょうか。なおこの頃の倭国の人物を「実は百済人の彼だ」「あの新羅人だ」「高句麗人だ」などとする説がしばしば取り沙汰されますが、大した根拠もない俗説や陰謀論のたぐいです。
孝徳天皇
孝徳紀によると、初め皇極は中大兄に皇位を譲ろうとしましたが、中大兄は鎌足と相談して辞退し、軽皇子に譲りました。軽皇子は古人大兄に譲ろうとしましたが、古人は「私は出家して吉野へ入ります」といい、武器を棄てて法興寺で剃髪したので、やむなく軽皇子が即位したといいます。殊勝な行いですが、まあ脅されてか、命惜しさにそうしたかでしょう。古人に即位されては、せっかく蝦夷と入鹿を始末した中大兄らのもくろみが崩れます。
退位した皇極天皇(宝皇太后)は上皇…とは呼ばれず、「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」という称号を奉られます。孝徳天皇にとっては同母姉、中大兄にとっては母ですから祖母ではありませんが、彼女の子孫が現在の皇室に繋がっているため後からそう呼ばれたのでなければ、孝徳の子孫には皇位を渡さないという中大兄らの意志でしょうか。なお孝徳には有馬皇子という男子がいますが、まだ5歳でしかありません。
天皇と皇太子は、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とし、中臣鎌足(鎌子)を内臣として大錦の冠位を授け、宰相として諸官の上に置きました。また旻(日文)法師と高向玄理を国博士(国政顧問)とします。こうして主要人事が決まると、天皇・皇祖母尊・皇太子は大槻の木の下に群臣を召集し、天神地祇の前に盟約を立て、「君に二政なく臣に二心なし。この盟に背けば天地は災いを起こし、鬼神と人間とが懲罰する」と誓います。
また、この年に初めて元号を制定し、皇極天皇4年(西暦645年)を改めて大化元年としました。生前退位なので翌年正月から変更ではなく、同年に変えています。典拠は『書経』大誥とも『荀子』『漢書』『宋書』ともされますが、化は「王(天子)が徳によって人々をよい方向へ導く」ことを意味し、大いなる教化、あるいは大いなる変化をも意味するのでしょう。新時代の到来です。チャイナの王朝以外での元号の使用は、既に高句麗や新羅で行われていました。
大化元年7月、孝徳天皇は舒明天皇と皇極天皇の娘である間人皇女を立てて皇后とし、また阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛と蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘を妃としました。小足媛は即位以前からの妻で、有馬皇子を産んでいます。
高句麗・百済・新羅は倭国で政変が起き大王が代わったと聞いて、即位を祝う使者を派遣します。この頃、百済は高句麗と手を組んで盛んに新羅を攻めており、旧任那(弁韓)地域を領有していたため、任那の使者も兼ねて朝貢しました。そのためか百済の大使は病気と称して難波津の迎賓館に留まり、新羅の使者と出会おうとはしませんでした。
倭国は高句麗の使者に「高麗の神の子(王)が遣わした使者」と呼びかけ、過去の付き合いは短いが末永く使者を往来させよう、と告げます。しかし百済の使者には百済を「我が内官家(うちつみやけ、属国)」と呼び、任那からの朝貢品が少ないから気をつけよと叱責しています。新羅については一言もありません。そういう外交態度のようです。
国内に対しては、東国の国司らを召して「戸籍を作り田畑の広さを調べよ」云々と詔し、朝廷には訴訟のための鐘と匱を設け、男女の身分(父母が良民か奴婢か)に応じて子の所属身分を定める「男女の法」を制定します。
さらに僧尼を百済大寺に集めて寺司と寺主を定め、天皇が仏教を庇護・管理することを告げます。また6月から9月まで使者を諸国に遣わし、武器を集めさせて管理下に置きます。こうして着々と中央集権を進めて行きます。
9月3日、吉野山で僧侶になっていた古人大兄皇子は、蘇我田ロ川堀・物部朴井椎子・吉備笠垂・倭漢文麻呂・朴市秦造田来津らと共に謀反を企てました。このうち吉備笠臣垂は9日後に離反し、中大兄らに自首して企てを告げました。11月、中大兄らは兵を吉野へ派遣して古人らを攻め、殺害します。これで邪魔者はいなくなりました。謀反の参加者は皆処罰されていません。
同じ頃、高句麗では唐軍が苦戦していました。太宗は西で鉄勒(テュルク)が侵攻したためと冬の訪れを案じ、この年の9月に撤退します。隋の煬帝と同じ轍を踏むわけには行きません。隋唐にとって高句麗はまさに鬼門です。
12月9日、都を飛鳥から河内に遷し、難波長柄豊琦宮に入りました。大坂城のすぐ南で、難波宮とも呼ばれます。この地で中大兄らは「大化の改新」と総称される国政改革を次々と行った、と日本書紀には書かれています。
◆大◆
◆化◆
【続く】
◆