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【つの版】度量衡比較・貨幣145

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 明和5年(1768年)、田沼意次の部下・川井久敬は真鍮の四文銭を鋳造しました。これは庶民から好評を博し、味をしめた久敬はさらなる貨幣改革を推進します。

◆銀◆

◆球◆


南鐐二朱

 明和8年(1771年)、川井久敬は勘定吟味役から勘定奉行に出世します。翌明和9年(1772年)正月には田沼意次に5000石が加増されて3万石となり、老中格から正式に老中に昇格します。しかし同年2月末(新暦4月1日)、江戸を大火が襲いました。江戸3大大火の1つ「明和の大火」です。

 死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超え、寺社・橋・大名屋敷も多くが焼け、田沼意次の屋敷も類焼を被ります。同年には各地で凶作となり、人々は「今年は迷惑(明和九)年」と呼んで不吉がりました。それゆえ11月には「安永」と改元されたほどです。明和7年(1770年)には江戸城・大坂城の金蔵を合わせて300万両もの備蓄がありましたが、毎年の赤字で取り崩すばかりとなり、幕府財政は不安定でした。意次・久敬は災害の復興資金を確保するためもあり、例によって貨幣改鋳を行うことにします。

 明和9年9月、川井久敬は銀座(銀貨鋳造所)に命じ新たな貨幣を鋳造させます。これは重さ2匁7分(10.12g)、銀純度は97.81%(9.9g)、形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一両」と銘記されています。「南鐐」とは「灰吹法(南蛮吹)で精錬した純銀(鐐、燎[かがりび]のように輝く金属)」を意味し、これが8枚で小判1枚=金1両にあたると定めたのです。金1両=4分=16朱ですから1枚が金2朱に相当し、歴史上は「南鐐二朱銀」と呼ばれます。ただ正式名称は「貮朱之歩判(略称は貮朱判)」であり、実際は金とも銀とも呼ばれていません。

 これは、以前流通化に失敗した「五匁銀」を改良したものです。銀純度を倍以上に上げ、かつ表面に小判との交換比率を明記することで「名目貨幣」とし、幕府の権威と信用に基づく確実な流通を意図していました。またあくまで「金貨の補助貨幣」であって、銀貨ではなく金貨の一種として扱われ、「金代わり通用の銀」と呼ばれました。金1両=現代日本円の10万円相当とすると、1分は2.5万円、1朱は6250円、2朱は1万2500円ほどです。

 しかし、幕府公定の金銀交換比率は文字金銀で「金1両=銀60匁」です。前述のように文金1両に含まれる純金は8.58g、文字銀60匁に含まれる純銀は102.948gとなりますが、南鐐二朱を8枚集めても、含まれる純銀は80g弱にしかなりません。また60匁を8で割ると7.5匁、0.46をかけて3.45匁(12.9g)ですが、南鐐二朱の純銀量は9.9gほどですから3gも足りません。微量の金を含んでいるとはいえ、これを金貨扱いで交換するのは抵抗がありました。金が基軸通貨の東日本はともかく、銀が基軸通貨の西日本では特に問題です。

 金銀の変動相場により利益を得ていた両替商は当然猛反発し、「南鐐二朱を小判や通用銀(文字銀)に両替する際、純銀の不足分を補うため2割5分(25%)の増歩を」と要求します。80g×0.25=20gで、足すと100gほどとなり、文字銀60匁に含まれる純銀より3gほどは減りますがまだマシです。これに対し幕府は翌安永2年(1773年)10月に触書を発し、「純銀10匁(37.3g)は通用銀25匁(93.25g、純銀46%として42.895g=11.5匁)で売り出していたから、金1両=通用銀60匁=純銀24匁(89.52g)だ」と説明しました。金1両=純銀24匁なら、8枚で金1両の南鐐二朱は純銀としても3匁でなければなりませんが、実際は2.7匁と1割も少なくなっています。この差益が幕府と銀座に入るのですから、これで強制的に押し通すしかありません。

 また幕府は南鐐二朱を取り扱う者に優遇措置を行い、普及を図りました。両替商が南鐐二朱を売る(小判や通用銀と両替する)時は買手に一両あたり銀4分(4/10匁)を与え、逆に南鐐二朱を買い取る時は売手から銀8分(8/10匁)を徴収すると定めたのです。また南鐐二朱による貸付の場合は、江戸では1万両、大坂では4万両を限度として3年間は無利子・無担保としました。上方(京や大坂)の両替商は「金100両に南鐐二朱25両(200枚)を差し交える」という混合方式で対処しますが、例によってグレシャムの法則が働き、南鐐二朱は次第に普及していきました。日本の東西での通貨の違いが、米や銭以外の貨幣の普及により、ようやく解消され始めたのです。

 南鐐二朱により市場から秤量銀貨が駆逐されるにつれて、通用銀の価値は相対的に高騰します。宝暦10年(1760年)頃には市場で金1両=銀64匁=銭4200文(銀1匁=銭65文)、四文銭導入後の明和7年(1770年)には金1両=銀66匁=銭5300文(銀1匁=銭74文)であったのが、安永9年(1780年)頃には金1両=銀59匁=銭6100文銀1匁=銭102文)となっています。銭1文が25円のままとすれば、通用銀1匁(純銀1.716g)が10年で1850円から2550円に値上がりしたのです。金1両も4200文=10.5万円から6100文=15.25万円に値上がりしています。これを8で割れば南鐐二朱は1.9万円になりますが、海外では銀1g1000円なので、国内では2倍近い高値です。

田沼時代

 こうした経済政策により、幕府の累積赤字はやや少なくなり(黒字にはなっていません)、安永年間(1772-81年)には安定期を迎えました。川井久敬は安永4年(1775年)に田安家家老となりますが、同年没します。安永8年(1779年)2月、将軍徳川家治の世継ぎである家基が数え18歳で急逝し、同年7月に老中首座の松平武元が逝去、高崎藩主の松平輝高が老中首座を継ぎます。しかし天明元年(1781年)7月に高崎藩で絹市に対する課税に反対する一揆が発生し(絹一揆)、輝高は気に病んで同年9月に逝去します。

 これ以後、田沼意次は実質的な老中首座として幕政を取り仕切ることとなります。最も狭義の「田沼時代」とは、武元ないし輝高の逝去から意次失脚までの6-7年間でしかありません。とはいえ相良藩主となってから20年余、側用人兼老中となってからでも10年が経過しており、すでに還暦を過ぎていた意次は幕臣の中では並ぶ者なき権力者でした。

 安永9年(1780年)、意次は12年の歳月をかけて築いた相良城を完成させています。その規模は東西500m、南北450m、三重の堀をめぐらした総石垣造りで、三重櫓の天守閣を中心に6つの櫓を備えた豪壮なものでした。同年には松平武元の子・武寛を奏者番に取り立て、翌天明元年閏5月には一橋家当主・治済はるさだの子・豊千代(家斉)を家治の養子とし、7月に加増を受け4万7000石となります。12月には嫡男の意知を奏者番としました。

 最も広義の「田沼時代」は、徳川吉宗の薨去(寛延4年/1751年)から田沼意次の逝去(天明8年/1788年)まで37年間に及びます。宝暦・明和・安永・天明と4つの元号にまたがることから、この時代を宝暦・天明期、当時の文化を宝暦・天明文化と呼びます。17世紀後期の元禄文化に続き、19世紀前半の化政文化に先立って、華やかな町人文化が栄えた時代でした。

 まず武家や豪商・富農の間で漢詩文や文人画など文人趣味が流行し、チャイナの考証学や白話文学が受容され、文人趣味のサロンやネットワークが広がりました。京都では与謝蕪村池大雅ら伝統的な文人画家に加え、円山応挙伊藤若冲曾我蕭白長沢芦雪ら写実的・個性的な絵師も活躍し、江戸では鈴木春信喜多川歌麿ら浮世絵師が出現、出版業の隆盛に伴い洒落本・黄表紙・川柳なども人気を博します。作家では山東京伝恋川春町大田南畝上田秋成などが有名です。

 学問の分野では、本居宣長が『古事記伝』(1764-98年)を著して国学を大成し、上田秋成・藤貞幹らと論争を行っています。また蘭学が流行し、杉田玄白前野良沢らが欧州の医学書を翻訳した『解体新書』を刊行(1774年)、小田野直武が西洋画の技法を取り入れて同書の解剖図を作成します。絵師の司馬江漢は彼らに師事し、銅版画や油絵、世界地図や天文図などを作成して蘭学を紹介しました。特に異彩を放つのが平賀源内です。

平賀源内

 平賀源内は享保13年(1728年)生まれで諱を国倫ないし国棟といい、田沼意次より9歳年下です。讃岐国寒川郡志度浦(現香川県さぬき市志度)の出身で、高松藩の足軽・白石茂左衛門良房の3男として生まれました。寛延元年(1748年)に父が逝去すると家督を継承し、もとは信濃源氏平賀氏の末裔だとして平賀氏を名乗ります。源内は「源氏の内」という通称です。

 宝暦2年(1752年)に長崎へ遊学し、蘭学の虜になりました。1年後に帰郷すると妹に婿養子を迎えさせて家督を譲り、藩職も辞して大坂へ遊学の旅に出ます。宝暦6年(1756年)には江戸に下って田村元雄より本草学を学び、湯島聖堂に寄宿して漢学を学んでもいます。湯島や神田で薬品博覧会を開催して注目を集め、宝暦9年(1759年)に藩医として再雇用されますが、宝暦11年(1761年)に再び辞職し、田沼意次をパトロンとして各地の鉱山開発などを行い始めます。ただ高松藩から「奉公構」を受けていたため、幕臣にも他家の家臣にもなれぬ浪人身分のままでした。

 その後は江戸を拠点として鉱山開発を行う傍ら、博覧会を開催したり著作の出版を行ったりし、明和7年(1770年)から翌年にかけては長崎へ再度遊学しますが、明和9年(1772年)の明和大火で自宅を焼かれてしまいます。翌安永2年(1773年)には鉱山開発のため秋田藩に招かれ、小野田直武や司馬江漢と交流を持ちました。他にも「源内焼」と名付けた陶器や「国倫織」と名付けた羅紗を売り出したり、秩父での炭焼き、荒川通船工事の指導を行うなど様々な事業を手掛けています。また人形浄瑠璃の脚本や広告コピー、CMソングの作詞作曲なども行い、江戸時代におけるパルプ小説「戯作」の祖ともみなされ、奇抜な発想の好色小説を執筆したりしています。

 安永5年(1776年)には、オランダから伝来した「エレキテル」を修理復元し、見世物として披露しています。これは1746年にオランダのライデン大学で発明された「ライデン瓶」の一種で、箱の中にからくり装置があり、外側のハンドルを回転させると内部でガラスが金属と擦れて静電気が発生し、銅線に伝わって放電する仕組みです。西欧では17世紀後半には静電発電機が発明されており、見世物や医療などに利用され始めていました。源内は他にも蘭書を参考としてアルコール温度計を作成しています。

 安永8年(1779年)、源内は大名屋敷の修理を請け負いますが、酔っ払っている間に修理計画書を紛失し、大工の棟梁2名を犯人だと勘違いして殺傷します。このため逮捕投獄され、同年12月に破傷風により52歳で獄死しました。男色家で生涯独身でしたが、友人の杉田玄白が喪主をつとめ、碑文には彼を称えて「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常(ああ非常の人よ、非常の事を好み、行いも非常であったが、なぜ死に様も非常であったか)」と刻まれました。彼の死から数年後、田沼時代は破局へ向かいます。

◆銀◆

◆魂◆

【続く】

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