【つの版】ウマと人類史:近代編07・帝国維新
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
フランス革命からナポレオンの時代を見てきましたが、そろそろ東へ戻りましょう。この頃のオスマン帝国やイラン、アフガニスタン、中央アジアなどはどうなっていたのでしょうか。
◆嵐◆
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宦官皇帝
まずはイランから見ていきましょう。17世紀後半から18世紀末にかけて、オスマン帝国は欧州列強やロシアの侵略に苦しめられ、大きく領土を削られました。属国であるクリミア・ハン国すら奪われ、黒海やエーゲ海には帝都イスタンブールを通過してロシアの艦隊が横行する有様です。これに乗じて東方からイランが攻め込んできました。
1747年にナーディル・シャーが暗殺されると、その帝国は大混乱に陥って分裂しました。アフマド・アブダーリーは東方で王位を称しドゥッラーニー朝を建て、クルド系のザンド朝はサファヴィー朝の王族を奉じてイラン高原の大部分を支配し、クズルバシュの一派ガージャール部族連合はカスピ海南岸に割拠します。このうちザンド朝の君主カリーム・ハーンは40年間在位して善政を敷き、1762年よりファールス地方のシーラーズを首都としました。
彼の治世の末期、1775-76年に、カリームと弟サーディクはオスマン帝国領のイラクに攻め込みます。当時のイラクはエジプトと同様、オスマン帝国を宗主とするジョージア系のマムルーク政権が支配しており、ペルシア湾に面した港町バスラには英国の東インド会社が商館を置いていました。イランはこのバスラを攻撃し、1776年に占領してしまいます。オスマン帝国は欧州やロシアとの戦争にかかりきりで手が出せず、反抗は現地のマムルーク政権に任せられました。幸い1779年にカリームが逝去し、ザンド朝は後継者争いで弱体化したため、イラク・マムルーク政権はバスラを奪還しました。
この時、シーラーズからアーガー・モハンマド・ハーン(アーカー・ムハンマド)が逃亡します。彼はガージャール部族連合コユンルー集団の族長ムハンマド・ハサンの子で、幼い頃にナーディル・シャーの息子アーディルによって去勢されましたが、アーディルの死後に父のもとに帰りました。
アーガー/アガ(agha)とはテュルク諸語アカ「兄」に由来する称号で、転じて兄貴・主人・旦那様等を意味しますが、モハンマドのは綴りが異なり、「宦官(去勢された者)」を意味するあだ名だともいいます。
ムハンマド・ハサンは部族連合を率いてザンド朝と戦いますが、1757年にシーラーズで大敗を喫し、2年後に捕らえられて処刑されます。この時モハンマドも捕らえられ、人質としてシーラーズに連行されたのです。カリームはガージャール部族連合を手懐けるためもあり、彼を厚遇し寵愛しました。去勢されているので跡継ぎを儲ける心配もありません。
しかし20年もの宮廷暮らしで鬱屈していたのか、モハンマドはカリーム逝去の翌日にシーラーズを飛び出し、故郷ゴルガーン(アスタラーバード)へと帰還します。部族連合はコユンルーとデヴェルーの二集団に分かれて争っていましたが、モハンマドはコユンルーをまとめ上げてデヴェルーを服属させ、1781年にはカスピ海南岸地域に駐屯していたロシア軍を撃ち破ってイラン北部に勢力を広げました。
1785年、ザンド朝のアリー・ムラード・ハーンはこれを討つべく北方へ侵攻しますが、マーザンダラーンの山中で迎撃され、逆に討ち取られてしまいます。続くジャアファル・ハーンは抗戦しますが1787年にイスファハーンとテヘランを奪われ、1789年に部下に暗殺されます。次のルトフ・アリーはしばしばガージャール軍を防いだものの、イラン高原南東のケルマーンを1793年に奪われ、バムで捕らえられて処刑されます。ここにザンド朝は滅びました。1795年にモハンマドはジョージアへ遠征してトビリシまで至り、宗主権を認めさせます。翌年彼はテヘランに戻り、この地で皇帝/国王(シャー)に即位しました。テヘランがイランの首都となるのは彼の時代からです。
続いて東のマシュハドを攻め落とし、ナーディル・シャーの孫シャー・ルフを殺害して、アフシャール朝を完全に滅ぼします。ロシアはイランに対抗してジョージアを従えるべく遠征が計画されますが、女帝エカチェリーナ2世がちょうど崩御したため中止されました。モハンマドは翌年再びジョージアに向かいますが、その途上で召使いにより暗殺されます。
領土失陥
モハンマドは幼少時に去勢されていたため跡継ぎとなる息子がおらず、大宰相のハジ・エブラヒム・シーラーズィーはモハンマドの甥でファールス総督のソルターン・バーバー・ハーンを迎えて帝位に擁立します。これがファトフ・アリー・シャーです。彼は1834年まで37年間在位し、反乱者を粛清して王権を強化しつつロシアやオスマン帝国と渡り合うことになります。
19世紀初め、イランはジョージアおよびカフカース地方の支配権を巡ってロシアと戦いました。皇太子アッバース・ミールザーはタブリーズ総督に任命されてカフカース方面軍を率い、フランスや英国の支援を受けて兵制改革を進め、対ロシア戦争を優勢に進めます。ロシアはちょうどナポレオンやスウェーデンとの戦争で忙しく、1812年にはナポレオンがモスクワを占領するなど困難な状況にありましたが、オスマン帝国と同盟して反撃に転じ、ついにイラン軍を打ち破ります。フランスはロシアに敗れて袋叩きにされていますし、英国もロシアを敵に回すと面倒なのでイランから手を引いたのです。
1813年9月、ロシアとイランは英国の仲介でゴレスターン条約を締結し、終戦します。これによりイランはジョージアとダゲスタン、アゼルバイジャン北部(現アゼルバイジャン共和国)を失い、アルメニアを除くカフカース地方をほぼ喪失します。さらにロシアはカスピ海に艦隊を独占的に駐留させる権利を獲得し、両国は自由貿易を行うことに合意します。イランが見返りとして得られたのは「ファトフ・アリー・シャーが崩御した時、ロシアはアッバース・ミールザーを後継者として支援する」という約束だけでした。明らかな不平等条約ですが、敗戦した以上は仕方ありません。イランは失地回復を目指して英国やフランスと手を結び、西洋化・近代化を進めますが、ロシアはこの後も繰り返し南下してイランを苦しめることになります。
帝国維新
西のオスマン帝国も、ロシアの南下政策によって苦しめられていたことでは変わりません。1789年に即位した皇帝セリム3世はロシアのクリミア領有を認めて休戦したのち、欧州列強の軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード(新たな秩序)」を編成して軍制改革を推進します。
14世紀以来の常備軍イェニチェリ(新たな兵隊)は既得権益にあぐらをかいていたばかりか、都市のギルドと結びついてヤクザ化し、しばしば暴動を起こして皇帝の首をすげ替える有様でした。欧州の市民革命に似てはいますが、古代ローマ帝国の近衛軍団と大して変わりません。セリムはこの危険な軍事集団を弱体化させ、皇帝による中央集権を進めようとしたのです。
しかしこの頃、帝国各地にはアーヤーンと総称される地方有力者が割拠していました。彼らは徴税請負人となって税金をピンハネし、そのカネで地方の官職を買い漁り、カネと権威と権力によって大土地所有者となっていった人々です。アーヤーンは各々自前の私兵を抱え、中央政府の命令にも従わなくなり、帝国はもはや彼らの協力なくしては成り立たなくなっていました。イラクやエジプトのマムルーク政権も似たようなものです。
皇帝セリムはイェニチェリの勢力を抑えるため、アーヤーンにカネを出させてニザーム・ジェディードを組織していました。また羊毛などに新たな税金をかけて資金源とし、イェニチェリから毎年兵隊を引き抜いてニザーム・ジェディードに組み入れることもしています。その軍制は友好国フランスを真似たものでしたが、1798年にナポレオンが突如エジプトへ侵攻し、パレスチナやシリアにも攻め込んできたため、セリムはニザーム・ジェディードを派遣して戦わせています。またフランスやロシアに対抗するため英国と同盟を結び、英国に黒海での通商権を与えています。
しかし、セリムの急激な改革はアーヤーンたちからも警戒され、1806年にはバルカン半島のアーヤーンに徴兵を拒否されます。また1807年2月には英国艦隊が帝都近海に入りますが、これにより「皇帝がイェニチェリを殲滅するため英国軍を引き入れたのだ」という噂が流れ、例によってイェニチェリに煽動された市民の暴動が起きます。セリムはやむなくニザーム・ジェディードを廃止しますが、追い詰められて退位に追い込まれ、幽閉されます。
反セリム派はセリムの従兄弟ムスタファを擁立して帝位につけますが、セリム派は帝都から脱出してブルガリア北部の街ルーセへ逃れ、アーヤーンのアレムダル・ムスタファ・パシャを頼ります。アレムダルは彼らの要請を受け入れ、セリムの復位を要求して挙兵し、1808年7月にはイスタンブールに入城します。恐れたムスタファは幽閉中のセリムを殺させますが、同日アレムダルにより廃位され、ムスタファの異母弟マフムトを皇帝に擁立します。
アレムダルは大宰相に就任しますがイェニチェリと争って殺され、ムスタファもマフムトの命令で殺されたため、マフムトはオスマン家唯一の男子として暗殺されない存在となり、帝位は一応安定します。しかし帝国の混乱に乗じて北からはロシアが迫り、南ではエジプト総督ムハンマド・アリーが事実上独立し、アラビア半島では豪族サウード家がイスラム原理主義組織ワッハーブ派と手を組んで、聖地マッカとマディーナを含むヒジャーズ地方を制圧していました。このような危機的状況を、オスマン帝国はどう切り抜けていったのでしょうか。
◆嵐◆
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【続く】
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