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【つの版】邪馬台国への旅27・東夷遣使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

泰始二年(266)十一月已卯、倭人來獻方物。(晋書武帝紀)

この年を最後に倭國の記録が一旦途絶えます。ということは、臺與や邪馬臺國に何か変事があったのでしょうか。晋書は何も語りません。

◆We've been waiting to collect◆

◆what you've let go◆

西暦248年頃に臺與が13歳で即位したなら、18年後の266年には31歳で、卑彌呼の推定享年にも及びません。晋書も他の歴史書も、この時代に倭國で政変が起きたことを一切伝えず、日本書紀にもそのような形跡がなく、考古学的にもヤマトから前方後円墳や土器の形式が日本列島各地に広がり続けていることを鑑みるならば、「親晋倭王」臺與の政権は普通にそのまま存続していたのでしょう。もし狗奴國なり神武なり九州の勢力が邪馬臺國に東遷して征服したとしたら、同時代の記録や考古学的に証拠が残るはずです。

なお、昭和の昔に「騎馬民族征服王朝説」とかいう与太話が一時流行したそうですが、現在は完全な過去の謬説として葬り去られています。4世紀から5世紀にかけての倭國の変容は、征服王朝を用いなくても説明できるたぐいのものです。いつの世もこうした俗説はあるものですね。

東夷遣使

それに「倭」の文字が見えなくなったというだけで、この時代の晋には「東夷」から盛んに朝貢の使者が訪れています。武帝紀で「東夷」の文字を検索すれば、こんなに出て来ます。

咸寧二年(276)二月、東夷八國歸化。秋七月癸丑、東夷十七國内附。
三年(277)是歳、西北雜虜及鮮卑、匈奴、五渓蠻夷、東夷三國前後十(千)餘輩、各帥種人部落内附。
四年(278)東夷六國來獻。是歳、東夷九國内附。
太康元年(280)六月甲申、東夷十國歸化。秋七月、東夷二十國朝獻。
二年(281)東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國内附。
三年(282)九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。
七年(286)八月、東夷十一國内附。是歳、扶南等二十一國、馬韓等十一國、遣使來獻。
八年(287)八月、東夷二國内附。
九年(288)九月、東夷七國詣校尉内附。
十年(289)五月、鮮卑慕容隗來降、東夷十一國内附。是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。
太熈元年(290)二月辛丑、東夷七國朝貢。

また晋書四夷伝東夷で朝貢記事を探せば、夫余は「武帝時頻來朝貢」、馬韓は「武帝太康元年、二年、其主頻遣使入貢方物、七年、八年、十年、又頻至。太熙元年、詣東夷校尉何龕上獻。咸寧三年復來、明年又請内附」、辰韓は「武帝太康元年、其王遣使獻方物。二年復來朝貢、七年又來」などとあります。馬韓には54國、辰韓・弁辰には各12國、倭にも30國がありますから、どれかは含まれていると思います(倭國で1カウントでしょうか)。

2回しか来なかった漢代の倭國(倭奴國)はともかく、帯方郡も存続しているのですから、倭國から一度も使者が来ないのは不自然です。咸寧5年(276年)まで10年間は記録がありませんが、魏志の本紀にも何度か往来したはずの倭使は1回しか記録されていませんし、なんらかの理由で記録に残らなかった使者はたくさんいたはずです。洛陽まで行かず帯方郡まで行くだけの使者や、弁韓を介して鉄や威信財を交易する使者は毎年いたでしょう。

なお張政のその後は不明ですが、黄海北道鳳山郡の墳墓から「使君帯方太守張撫夷」「大歳在戌漁陽張撫夷」という銘の入った煉瓦が出土しています。張政と張撫夷の関係は全く不明であるものの、東夷を慰撫した功績で帯方太守に昇進していたとするとロマンがあります。なお、つのは学問や政治には安易にロマン主義を持ち込みたくありません。パルプ小説でやって下さい。

泰始7年(271年)、蜀漢平定で活躍した重臣の衛瓘が征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に任じられます。泰始10年(274年)に幽州東部の5郡(昌黎・遼東・玄菟・楽浪・帯方)を分けて平州が再び設置されると、衛瓘は都督平州諸軍事も兼任します。咸寧4年(278年)には洛陽に召還され尚書令・侍中に昇進しているので、咸寧2年(276年)からその年までの東夷諸国の朝貢に関する総責任者は衛瓘だったことになります。

孫呉は孫権の死後も権力闘争による内輪揉めが続き、孫亮が258年に廃位されると兄の孫休が擁立されます。263年に蜀漢が滅亡するともはや魏晋に対する勝ち目はなくなり、孫休が急死した跡を継いだ孫皓は自暴自棄の余り手のつけられない暴君と化します。晋は着々と国内を固めた後、咸寧5年(279年)から翌年3月にかけて「破竹の勢い」で孫呉を攻撃し、ついにこれを征服して、天下をほぼ百年ぶりに再統一しました。

この年か翌年かには、倭國も当然朝貢使節を送って祝賀したはずです。臺與は在位32年目、まだ45歳です。臺與を擁立して権勢を振るったかも知れない人物は、年齢的にそろそろ代替わりでしょうか。

張華と東夷

天下統一が成ってしまうと、晋には天下太平ムードが溢れ、これまでの緊張感が抜けてすっかり弛緩しました。天子は後宮に通って悦楽に耽溺し、王族は各地に封建されて諸侯王となり、貴族は五石散(ヤク)を吸引(キメ)て俗世を離れた清談や玄学に耽り、相次ぐ天災と重税にあえぐ民衆は楽土を求めて五斗米道や浮屠(仏教)に縋ります。末法の世は続いています。

太康3年(282年)、張華が安北将軍・都督幽州諸軍事に任命されて幽州にやって来ます。彼は幽州范陽郡方城県(河北省廊坊市固安県)の人で、幼い時に孤児となり、博学才能を見い出されて劉放の娘を娶ります。そして出世を重ね、孫呉討伐でも手柄を立てました。しかし荀勗や賈充ら佞臣に疎まれ、中央から左遷されたのです。彼は腐ることなく故郷幽州の統治に勤め、内外を慰撫して別け隔てなく接したため、蛮夷も彼に心服しました。

上で見たように、赴任した年の9月には東夷29國が帰化して方物を献上し、太康7年(286年)8月には東夷馬韓新彌20余國が朝貢しました。これらの国々は幽州治所(北京)から4000里の彼方にあり、山に依り海に面し、この時まで未だチャイナに服属していなかったといいます(張華伝)。

この4000里(1736km)は5倍誇張でなく実数です。北京から丹東市までは840kmあり、丹東から平壌(楽浪)までは150km、平壌からソウル(帯方)までは240kmほど。合計1230kmを1736kmから引くと506km。ソウルから506km(1166里)も離れ、海に山が迫った馬韓の地というと、例の韓国西部沿岸を南下する航路で行けば全羅南道南岸の海南郡あたりになります。

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馬韓には54國がありますから、20余國となるとその半分近くです。全羅南道どころか全羅道の諸国が全て入るぐらいの規模です。既に29國が朝貢していますし、翌年8月には別の2國も服属したので、29+22+2=53國。ほぼ馬韓の全てが服属したことになります。帯方郡に組み入れられたわけではなく朝貢に来ただけですが、張華の名声は高まりました。

朝廷の佞臣たちはこれをやっかみ、張華を中央に呼び戻して太常(儀礼を司る名誉職)につけた上で、「太廟の屋棟が壊れた」との理由で罷免させました。宮中は外戚の楊駿らが実権を握り、張華は無官のまま朝廷に出仕し続けましたが、陸機・陸雲ら才能のある人々を見い出して暖かく接し、パトロンになったといいます。陳寿も彼の派閥に属していました。

陳寿は蜀漢滅亡後も魏晋に出仕できず、泰始4年(268年)に羅憲の推挙で取り立てられ、佐著作郎(史官)からキャリアを開始し、蜀の地方史や『諸葛亮集』『三国志』を編纂、張華に評価されて出世しています。彼の立場上、晋や司馬氏に都合の悪いことは隠さざるを得ません。また100年ほどの近現代史なので当事者やその子孫はまだ生きており、史料が多いのはいいとして彼らへの忖度も多少はあったことでしょう。お察し下さい。

張華輔政

太熙元年(290年)4月、武帝司馬炎は56歳で崩御し、22歳の皇太子司馬衷が即位します(恵帝)。彼は生まれつき暗愚でした。また皇后の賈南風(賈充の娘)は極めて嫉妬深く、政治を牛耳りたいという野心を持っていました。彼女は権勢を振るっていた楊駿らを憎悪し、反楊駿派と手を組みます。

失礼なことに、恵帝は父の崩御後すぐに永熙と改元し、翌年正月には永平と改元しました。永平元年(291年)3月、賈皇后は「帝位簒奪の陰謀あり」として楊駿一派を一斉検挙して皆殺しにします。また時代が変わったことを強調するため元康と改元し、汝南王の司馬亮と太保の衛瓘に朝政を委ねます。しかしすぐ内ゲバが始まり、汝南王と衛瓘は楚王司馬瑋らに殺され、楚王もまた殺されて、賈皇后が権力を握りました。

彼女や取り巻きには政治能力が乏しく、また人望の無さも自覚していたので、張華・裴頠・賈模ら人望が高い賢臣を抜擢して国政を委ねました。意外にもこの体制はうまくいき、天下には再び平穏が訪れたのです。このへんはかつてつのがパルプ仕立てで書いたことがありますね。

永平元年(291)…是歳、東夷十七國、南夷二十四部、竝詣校尉内附。(恵帝紀)

政変の終結を祝賀し、新体制に箔をつけるため、東夷と南夷の諸国が朝貢に訪れます。倭國も東夷諸国のうちに含まれていたかも知れません。臺與の即位から43年、まだ生きていれば56歳です。京都府木津川市山城町の上狛古墳からは、晋の元康年間(291-299)8月の紀年銘を持つ平縁神獣鏡が出土しています(多少怪しいようですが)。この6年後に陳寿は病死しました。

なお、東夷校尉の文鴦(文欽の子)は楊駿一派が粛清された時に巻き添えを食って族滅されています。彼の死で東夷との交流は一時的に絶たれたでしょうが、別に新しい東夷校尉を任命すれば済む話です。この頃、鮮卑族の慕容廆が遼寧で勢力を伸ばしており、楽浪郡や帯方郡は警戒しています。

西晋滅亡

しかし、この体制は10年ともちませんでした。皇太子の司馬遹は賈皇后が生んだ子でなく、取り巻きとも仲が悪かったので、賈皇后は張華らの制止を振り切って彼を廃位し、殺害してしまいます(西暦300年3月)。趙王司馬倫は皇太子殺害を唆した張本人でしたが、この騒動に乗じて賈皇后一派を皆殺しにし、張華もあえなく殺されます。司馬倫は自ら皇帝を名乗りました。

これに対して全土に封建されていた司馬氏の諸侯王が次々と決起し、各々の取り巻きや異民族も含めてぐちゃぐちゃにぶつかり合います。これが「八王の乱」です。晋は事実上崩壊し、後は軍閥や異民族が混ざり合い、殺し合います。幷州(山西)では南匈奴の王族が劉姓で漢朝と長く通婚していたことから「漢王」と名乗り、次いで漢の皇帝を号して晋から自立します。晋の皇帝は相次いで漢に殺され、晋は316年に滅亡しました(永嘉の乱)。

317年には皇族の司馬睿が建康(南京市、もと孫呉の首都・建業)で帝位に着き、晋朝を再興します(東晋)が、もはや華北はモヒカンが跳梁跋扈する末法の地獄と化し、難民が大挙して東晋の領域へ逃れました。これより589年に隋が南北を統一するまで272年の間、チャイナは再び分裂の時代を迎えるのです。後漢末の動乱から晋の統一を挟んで、隋の南北統一までの400年間を「魏晋南北朝時代」と呼びます。三国時代はその一部に過ぎません。

この動乱に乗じて、鮮卑や高句麗が勢力を伸ばします。鮮卑慕容部の族長である慕容廆は鮮卑大単于を名乗り、遼西・遼東を接収します。高句麗は遼東を巡って慕容廆と争い、先んじて楽浪郡と帯方郡を攻撃します。これに耐えきれなくなった両郡の官民は慕容廆のもとへ逃げ去り、高句麗は両郡の地と残った住民を接収しました(313年)。

前漢以来400年以上続いた漢人の朝鮮半島における拠点は消滅し、帯方郡も設置から100年余りで終わりを告げました。臺與が248年に13歳で即位してから65年が経過し、生きていたとしても82歳にもなります。もし倭奴國のように対外交易に強く依存した体制であれば、倭國はこの衝撃に耐え切れず崩壊していたでしょう。しかし、そうはなりませんでした。

◆MAD◆

◆MAX◆

さて、この間に倭地ではどのようなことが起きていたでしょうか。前方後円墳の分布状況などから推測してみましょう。

【明日もあなただけに邪馬台国の真実をお伝えしていきます】

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