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【つの版】ウマと人類史EX29:伊勢平氏

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 源義家は後三年の役で清原氏を打倒し、藤原清衡を奥羽の主としますが、自身は公金横領の罪で公職追放となります。のち白河法皇に抜擢されて院政を支えますが、河内源氏に代わって伊勢平氏が台頭し始めます。

◆平◆

◆家◆


源義親乱

 義家の長男・義宗は早世しましたが、義親、義忠、義国、義時、義隆ら多くの男児がいました。嫡男となった義親は父譲りの剛勇の士で、従五位下・左兵衛尉、ついで対馬守に任じられます。しかし彼は任地を離れて鎮西(九州)諸国を横行し、人民を殺害して掠奪を行い、大宰府からの命令にも従いませんでした。彼の正室は肥後守・高階基実の娘で、この乱行は基実の支援を受けて鎮西諸国で所領を広げようとしたためのようです。

 大宰大弐の大江おおえの匡房まさふさは朝廷にこれを報告し、康和3年(1101年)7月に義親追討の官符が下されます。義家は郎党で豊後権守の藤原(首藤)資道を派遣して説得させますが、彼も義親に寝返り追討の官吏を殺害する有様でした。結局義親は逮捕され、康和4年(1102年)12月に隠岐国へ流されます。義家は彼を廃嫡し、義親の異母弟・義忠を嫡子としました。また義親の義父の基実は肥後守を罷免され、贖銅の刑(罰金刑)を科されています。

 義忠の同母弟・義国は上野国八幡荘を相続して坂東に赴いていましたが、叔父で常陸国に地盤を築いていた義光と所領を巡って争い、嘉承元年(1106年)には合戦を起こします。義家は驚いて義国を京都へ呼び戻しますが、同年7月に68歳で病没し、河内源氏の家督は義忠が相続します。

 嘉承2年(1107年)7月、堀河天皇が29歳の若さで崩御し、その子で僅か5歳の宗仁親王が即位します(鳥羽天皇)。関白・藤原忠実が摂政となりますが、政治の実権は白河法皇が握り続け、院政を強化します。なお同年8月に嘉承から改元して天仁となりました。

 天仁元年12月、義親は配流地の隠岐を脱走し、対岸の出雲に上陸します。彼は国守目代(代官)とその郎従7人を殺害して官物(公金)を奪い取り、中央政府に反旗を翻しました。近隣の住人の中にも彼に呼応する者が現れ、朝廷は仰天します。義忠は追討を命じられますが「兄と戦うのは」と拒んだため、白河法皇は因幡権守・正盛まさもりに追討を命じます。

伊勢平氏

 平正盛は平貞盛の四男・維衡の曾孫にあたり、代々伊勢・伊賀に所領を有していました。これを伊勢平氏といいます。貞盛は常陸に地盤を持つ坂東武者でしたが、伊勢平氏は畿内に近い伊勢・伊賀に地盤を持ち、摂津・大和・河内に地盤を広げた経基流源氏と並び朝廷を護衛する武者となったのです。

 伊勢・伊賀は東国と畿内を結ぶ海陸交通の要衝で、東は海に面し、西と南は山に囲まれ、伊勢神宮・多度大社などを擁しています。山地部には坂東や奥羽には及ばぬながら黒ボク土も分布し、街道を通って人や物を運ぶために各地に馬牧も開かれました。延喜式には伊勢・伊賀に牧はありませんが、続日本紀には8世紀初めに伊勢国に牧が置かれていた記録があります。

 維衡の子・正度まさのりは伊勢国一志郡木造荘(現三重県津市木造町)などを領有し、常陸介・越前守・出羽守などを歴任しました。その子・正衡まさひらは検非違使・右衛門尉などを歴任し、承保2年(1075年)に天台宗の僧良心と結託し、桑名郡における東寺の末寺・多度神宮寺の荘園を押収しようとしています(朝廷の裁下により失敗)。承暦3年(1079年)には延暦寺による強訴に対して防衛に出動し、康和元年(1099年)には出羽守に就任しています。彼の子が正盛です。

 正盛も検非違使として盗賊追捕にあたりますが、彼の代には分割相続などで家格が下がっており、受領としての任地は流刑地である隠岐国がせいぜいでした。しかし嘉保3年(1096年)に白河法皇の娘・郁芳門院(媞子)が21歳で崩御すると、正盛は娘を弔うため白河法皇が建立した六条院の御堂に伊賀国の所領・鞆田ともだ荘(現三重県伊賀市友田)を寄進します。喜んだ白河法皇は彼を若狭守に取り立て、北面武士に任じました。さらに正盛は因幡権守に転じたのち、義親討伐を命じられたのです。

 正盛は因幡・伯耆の軍勢を率いて出雲へ進軍し、天仁2年(1108年)正月19日には早くも「義親と従類5人の首を斬った」と報告がありました。出雲国に入ってから僅か13日で義親の乱は鎮圧されたのです。白河法皇は報告を受けて大喜びし、正盛を即時に但馬守とし、その子や郎党にも直ちに恩賞が授けられました。彼は正月29日に凱旋し、義親は梟首されます。

 ただ、剛勇の士として知られた義親があまりにあっさり討ち取られたことは人々に疑われ、20年以上も義親生存説が囁かれました。9年後の永久5年(1117年)には越後に源義親を名乗る法師が現れ、豪族平永基の屋敷に出入りしました。国司が引き渡しを命じると永基はこの法師の首を斬って梟首していますが、翌年には常陸に義親を名乗る者が現れます。彼は下総守源仲政に捕縛されようとしますが逃れ、5年後に下野で捕らえられて都へ送られ、偽物として斬首されています。その後も義親を名乗る者はしばしば現れ、京都に2人同時に出現して殺し合いになるなど奇怪な事態が発生しています。正盛の手柄を否定しようとする勢力の仕業でしょうか。

 義親の乱によって河内源氏の名声は失墜し、正盛ら伊勢平氏が白河法皇と結びついて名声と権勢を獲得します。義忠は彼らとの和合をはかり、正盛の娘を妻に迎え、また正盛の嫡男が元服する時は烏帽子親となって「忠」の字を与え、忠盛ただもりと名乗らせています。さらに白河院政や摂関家との関係も維持すべく努力しますが、その矢先に事件が起きます。

義忠暗殺

 天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠は何者かに背後から斬りつけられ、2日後に27歳で死亡しました。文字通りの暗殺です。当初は美濃源氏の源重実(義家といざこざのあった重宗の子)に嫌疑がかけられ逮捕されますが、現場に残された太刀が義家の弟・義綱の子である義明のものと判明します。またこの太刀を義明の乳母夫めのとぶ(養育係)である藤原季方が数日前に持ち出していたことも判明し、朝廷は「義綱・義明が季方に命じて義忠を暗殺した」と結論づけます。

 義明は病を理由に季方の邸宅へ籠もりますが、嫌疑をかけられた義綱らは反発し、義光の所領がある近江国甲賀郡の鹿深山へ子らと郎党を率いて立て籠もります。白河法皇は義親の子(義家の子とも)である13歳の為義に義忠の跡を継がせ、美濃源氏の光国とともに義綱らの討伐を命じました。また重宗の子である重時には義明・季方の追討を命じます。

 義光の本拠地は常陸でしたが、勢力を広げて陸奥や甲斐、近江にも所領を持っていました。彼は近江国園城寺の守護神・新羅明神の神前で元服していますから、もともと近江と繋がりがあったのです。

 義光は「義忠を暗殺した上、わしの所領に勝手に入るとは何事か」と兵を動かして義綱らを攻め囲み、為義に加勢します。追い詰められた義綱は出家して降伏しますが、彼の息子たちは全員自害し、義明も季方も奮戦の末に自害に追い込まれ、全てを失った義綱は佐渡に流されます。

 しかし、これは義光のしわざでした。彼は郎党の季方に命じて義明の太刀を持ってこさせ、別の郎党である鹿島三郎こと平成幹なりもとに命じ、この太刀を用いて義忠を暗殺させたのです。義忠は即死せず、成幹は反撃を受けて負傷しつつも逃げおおせ、義光の命令により園城寺の僧侶・快誉のもとへ匿われます。彼は義家らの庶長兄にあたりますが、義光からの指示により下手人の成幹を生き埋めにして殺し、口封じしてしまったというのです。のち事件の真相がどこからか漏れ、義光も常陸へ逃げ戻りました。あるいは白河法皇と平正盛の陰謀であったかも知れません。

 河内源氏は義家・義親・義忠・義綱を次々と失い、14歳の少年為義が畿内に残されます。義親の子らはいましたが父が罪人として討たれていますし、義国は坂東で義光と争っており頼りになりません。義時は河内国石川荘を所領としますが勢力は小さく、義隆は無位無官の少年です。そして河内源氏の没落と入れ替わるように、正盛率いる伊勢平氏は白河法皇の寵愛を受けて成り上がっていくことになります。

◆平◆

◆家◆

【続く】

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