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【つの版】ウマと人類史:近代編01・汗国併合

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。「近世後期編」としていましたが、どうせ近代も含むのでまとめて近代編と改めます。日本はまだ江戸時代ですが、18世紀後半以後ならまあ近代としてもいいでしょう。

 1755年、ジュンガルは清朝に滅ぼされましたが、中央ユーラシアの遊牧諸政権はまだまだ健在です。しかしジョチ・ウルスの盟主であったクリミア・ハン国は、ロシア帝国の圧力によっていまや滅亡寸前でした。

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汗国由来

 クリミア・ハン国は、チンギス・カンの長子ジョチの13男トカ・テムルの子孫によって15世紀に建国され、オスマン帝国の属国となりつつもその支援で他のジョチ・ウルス諸国の盟主となり、クリミア半島とその周辺領域を支配してきました。彼らはモンゴル帝国の末裔として「タタール」と呼ばれ、ポーランド・リトアニアやコサック、モスクワ・ロシアとも激しく戦い、掠奪や奴隷の輸出を行うとともに、騎兵戦力を同盟相手に提供していました。黒海北岸を守るクリミアは、軍事的にも経済的にも極めて重要な地です。

 モスクワ・ロシア改めロシア帝国は、黒海に進出するため繰り返しクリミアに侵攻しています。1736年にはついにクリミアの首都バフチサライを攻め落とし、半島の大部分を占領しますが、疫病と補給不足に苦しめられます。オスマン帝国は1739年にオーストリアおよびロシアと各々講和し、ベオグラードとクリミアを奪還しました。欧州諸国やロシアはその後も戦争を繰り広げますが、オスマン帝国はこれらに巻き込まれることなく30年間もの平和を享受することとなります。しかしこのことは、オスマン帝国の軍事力を欧州諸国やロシアに比べて著しく時代遅れのものとしました。

女帝奪壌

 1762年7月、ロシア帝国でクーデターが勃発し、皇帝ピョートル3世が廃位され(まもなく殺害)皇后エカチェリーナ2世が女帝に擁立されます。彼女は啓蒙専制君主を自認し、クーデターの首謀者愛人オルロフ伯爵を共同統治者として帝国に君臨しました。彼女は夫を愛しておらず、夫の在位中から大勢の愛人がいましたが、その一人がポーランド人スタニスワフ・ポニャトフスキです。1764年、彼はロシアの支援でポーランド国王となります。

 ポーランドは18世紀前半にはロシアの属国と化していましたが、エカチェリーナはこれを推し進め、1768年には法的にもロシアの属国の地位にあることを明文化します。こうした措置に反発したポーランド貴族らは反ロシア連盟を結び、ロシアとスタニスワフに反旗を翻します。ロシアはこれに軍事介入し、「反乱軍」を討伐すべくポーランドに侵攻しました。

 ポーランド領ウクライナでも騒乱に乗じて流言飛語が乱れ飛び、正教徒によるカトリック系支配者への反乱が勃発します。彼らは「ロシアが味方してくれる」と吹聴していましたが、ウクライナの独立運動はロシアにとっても看過できず、ついでとばかりにロシア軍に蹂躙されます。この時反乱軍を追ってロシア軍がオスマン帝国との国境を侵犯し、オスマン帝国はフランスやポーランドの貴族連盟と同盟して、ロシアとの開戦に踏み切りました。

 1769年、ロシア軍はオスマン帝国の属国モルダヴィアに侵攻します。また東方のジョージアにも派兵し、ギリシア各地に工作員を送り込んで反乱を起こさせ、エジプトで反乱を起こしたマムルークとも手を組みます。東西南北から攻められたオスマン帝国はたちまちガタガタになりました。

 一方ロシアはオーストリア・ハプスブルク家およびプロイセンと交渉し、ポーランド王国の領土分割を行っています。これは欧州諸国のパワーバランスを保つためのフランスの介入によるもので、ロシアはポロツクなど現ベラルーシ東部を、オーストリアはリヴィウなど現ウクライナ西部を、プロイセンは王領プロイセン(バルト海沿岸部)を獲得します。

 1774年、オスマン帝国はロシアと講和し、クリミア・ハン国に対する宗主権を放棄させられます(カリフ並みのムスリムの盟主としての権威は残りますが)。ロシアは南ブーフ川とドニエプル川の間の地域、及びアゾフとケルチを獲得し、ついに黒海への出口を確保しました。また黒海において艦隊を建造すること、ボスポラス・ダーダネルス両海峡をロシア商船が自由に通航することが認められ、オスマン帝国内の正教徒への保護権をも獲得します。これによりロシアは正教徒を保護するとの名目で内政干渉を行うのです。

東方大乱

 この頃、ロシア東方のヴォルガ・ヤイク(ウラル)流域ではコサック出身のプガチョフが反乱を起こしています。彼は自らを皇帝ピョートル3世であると称し、相次ぐ戦争で疲弊した農奴らに「農奴制を廃止する」と呼びかけます。また工場労働者や炭鉱夫、遊牧民や狩猟民、正教会から異端とされた古儀式派など圧政に苦しめられていた者たちも続々と反乱に加わり、彼こそ救世主であると喧伝されました。女帝エカチェリーナはロシア人ですらないため国内には反対派が多く、即位以来繰り返し反乱に遭遇していましたが、これはその中でも最大の反乱となったのです。

 プガチョフ率いる反乱軍は各地の要塞や都市を攻略し、たちまちのうちにヴォルガ川とウラル山脈にまたがる領域を支配下におさめました。1774年7月にはカザンを占領しますが、ロシア軍の必死の反撃により撃破され、プガチョフはウラル山脈まで逃げ込んだところを9月に捕らえられます。彼は翌年モスクワで公開処刑され、帝国を揺るがす大乱は終結しました。

 この頃、女帝の寵愛はオルロフから離れ、プガチョフの乱の鎮圧に活躍した軍人ポチョムキンに移ります。彼のもとでロシアはついにクリミア・ハン国を滅ぼし、併合して直轄地とするのです。

汗国併合

 クリミアの王族デヴレトはオスマン帝国の宗主権から離脱する=ロシアに服属することを好まず、ケルチ海峡を渡ってクリミアに入り、自らクリミアの王位につきました。またオスマン帝国に使節を送ってロシアとの条約を破棄するよう求めたので、ロシアはこれを口実として1776年11月クリミアに侵攻し、親ロシア派の王族シャヒーンをクリミアの王位につけます。

 しかし反ロシア派はシャヒーン政権に抵抗を続けたため、エカチェリーナはクリミア・ハン国の取り潰しを決定し、ポチョムキンを派遣して反乱を鎮圧させ、シャヒーンをサンクトペテルブルクに召還しました。こうして1783年、クリミア・ハン国は建国以来440年ほどの歴史に幕を下ろしたのです。

 同じ頃、ロシアはドニエプル川下流域のコサック国家を廃止し、旧クリミア・ハン国の北部領域ともども、1764年に設置されていたノヴォロシア(新ロシア)県に併合しました。ポチョムキンはノヴォロシアおよびタウリダ(クリミア半島)の総督/副王(公爵)に任命され、これらの地における全権を委任されます。肥沃にして人口希薄なノヴォロシアには帝国各地から入植者が送り込まれ、対オスマン帝国の最前線基地として発展していきます。

露墺南征

 さらにエカチェリーナはオーストリアと手を結び、オスマン帝国へさらなる戦争をふっかけます。女帝は「コンスタンティノポリスをトルコ人から奪還して東ローマ帝国を再建し、孫のコンスタンチンを皇帝にする」という壮大な計画を企図していたといいます。1787年、女帝は自らクリミアを訪れ、軍港セヴァストポリでは黒海艦隊が祝砲をあげました。

 この時ポチョムキンは女帝の通るドニエプル川の川岸を美しく飾り立て、家のハリボテを立て並べて荒廃した土地を隠したといいます。ある程度はそうしたこともあったでしょうが、悪意ある誇張とも思われます。

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 ロシアは黒海沿岸のオスマン帝国領を攻撃し、1788年には名将スヴォーロフがオズィ(オチャーコフ)を陥落させ、モルダヴィア、ワラキアばかりかドナウ川の南のトラキア地方にまで侵攻します。オーストリアはセルビア人の反乱を煽ってバルカン半島に攻め寄せ、疫病に悩まされながらもベオグラードやブカレストを占領しました。存亡の危機に陥ったオスマン帝国では1789年4月に皇帝アブデュルハミトが崩御し、跡を継いだ皇帝セリム3世は1791年に両国と講和条約を締結しました。

 オーストリアは財政危機もあって大規模な領土獲得は求めませんでしたが、ロシアはドニエストル川以北の黒海沿岸地域(エディサン)を獲得し、ノヴォロシアは東へ拡大しました。ロシアはこの地域にオデッサ(オデーサ)、ヘルソンニコラーエフ(ムィコラーイウ)など港湾都市を建設し、黒海への進出を進めます。いまドンパチやってるあたりですね。

 しかしこの頃、西のフランスでは財政問題をきっかけとして大規模な民衆反乱が勃発し、革命政権が樹立されて王権が危機にさらされていました。世にいうフランス革命です。やがてこの混乱の中からナポレオンが現れ、欧州全土ばかりかオスマン帝国やロシアをも揺るがすことになります。

◆革◆

◆命◆

【続く】

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