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【つの版】ウマと人類史:中世編30・大元皇帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1264年、アリクブケはクビライに降伏し、4年に及んだ帝位争奪戦争は終結しました。クビライは1265年に改めてクリルタイを開催し、正式に即位しようとしましたが、同年にはチャガタイ家のアルグが、翌年にはフレグとベルケが相次いで逝去し、統一クリルタイ開催は頓挫します。また反クビライ派はオゴデイ家のカイドゥのもとに結集し、中央アジアで自立の動きを強めました。この反乱はクビライの死後も続き、モンゴル帝国の政治的統一は失われていくことになります。

◆皇◆

◆帝◆

海都之乱

 カイドゥはオゴデイ・カアンの五男カシンの子で、グユクの甥、クビライの従兄弟の子にあたります。オゴデイ家はチンギス・カンの遺詔により帝位を授かりましたが、オゴデイとグユクが崩御してモンケが即位すると勢力を失い、ナイマン族の故地とジュンガル盆地の旧領は安堵されたものの、他のチンギスの子らのように広大な領土を獲得することはできませんでした。

 またモンケはオゴデイ家が再び帝位を狙わないよう圧迫し、分割相続により弱体化させたため、反トゥルイ家勢力として一定の正当性を持つ存在でした。モンケの崩御後にクビライとアリクブケが帝位を争うと、カイドゥはこの間にオゴデイ家の権力を掌握し、1266年にクビライへ反旗を翻します。

 当時チャガタイ家ではクビライ派のアルグが逝去し、チャガタイの曾孫ムバーラク・シャーが当主となっていましたが、クビライは側近のバラクを派遣して共同統治者とし、両者を傀儡として中央アジアを手中に収めようとします。しかしバラクはムバーラク・シャーを廃位して単独の当主となると、クビライに反旗を翻します。カイドゥとはマーワラーアンナフルの帰属を巡って争いましたが、1269年に和解が成立します。

 ジョチ家では1266年にベルケが逝去し、翌年バトゥの孫モンケ・テムルが当主となっていましたが、彼はカイドゥ、バラクと1269年にタラス河畔で会盟し、マーワラーアンナフルの分割を取り決めます。これにより同地の三分の一はカイドゥとモンケ・テムルで折半され、残り三分の二をバラクが治めることとなりました。ただしカイドゥはカアン/皇帝でもカン/君主でもなく「アカ/兄者」と呼ばれており、単にオゴデイ家の年長の統率者として行動していたようです。とはいえ帝国内の領土の勝手な分割は、皇帝クビライの許可なく行われたことであり、彼の権威をないがしろにする行いでした。

 一方、フレグが1265年2月に逝去すると、子のアバカはただちにクリルタイを開催し、6月にフレグの後継者、フレグ家の当主として即位しました。彼はカフカース方面からのジョチ家の侵攻を退けますが、1269-70年にはチャガタイ家のバラクによる侵攻を受けます。バラクはタラスでの会盟でマーワラーアンナフルの全土が得られなかったことを不満とし、アム川を越えてフレグ家の領地たるイランへ攻め込んだのです。

 フレグ・ウルスはマムルーク朝やジョチ家との戦いで西方へ兵力を集中していたため、東方は比較的手薄でした。ジョチ家やオゴデイ家もバラクを支援し、大兵力となってホラーサーンへ攻め込みます。アバカはこれを撃退すべくタブリーズを出発し、偽情報を流して油断させ、1270年7月にヘラート南部のカラ・スゥ平原でバラク軍を奇襲しました。彼は激戦の末これを撃破し、バラクは這々の体でブハラまで逃げ帰ります。

 この勝利により、アバカはフレグ・ウルスを強固な政権としました。クビライはアバカをフレグの後継者として承認し、ジョチ家のモンケ・テムルはカイドゥと手を切ってクビライの宗主権を受け入れ、アバカとも和解しています。ムバーラク・シャーは亡命してアバカに帰順し、ガズナを所領として分与されました。孤立したバラクはカイドゥとの対立関係を再燃させ、領土を巡って争ったのち、1271年講和会談の前夜に急死します。これはカイドゥによる毒殺と噂され、バラクの子ドゥアはカイドゥを仇敵とみなしました。

 カイドゥはチャガタイ家の当主に傍流のニグベイを立てて傀儡にしようとしますが、1272年にニグベイは反抗して戦死し、アルグの子チュベイらもカイドゥと対立して、チャガタイ・ウルスは分裂していきます。

転輪聖王

 クビライは1264年に単独の皇帝/カアンになると、8月に中統から至元と改元し、キタイ/漢地とモンゴル高原の統治を進めて行きます。1267年には漢地を統治するため燕京大興府(北京)に新たな都を建設させ、金蓮川の幕府(開平府)とともに自らの帝国の中心地とします。オゴデイ以来モンゴル帝国の首都はカラコルムでしたが、クビライは重心を大きく南へ動かします。

 燕京は漢地・モンゴル高原・マンチュリアを結ぶ要衝で、古来多くの王朝が都を置きました。鮮卑慕容部の燕国、安禄山の燕国の都もここですし、後晋から割譲を受けた契丹遼朝は南京析津府を設置して五京の一つとし、金は中都大興府を置いています。1215年にチンギス・カンが征服して燕京大興府と改められ、漢地統治の拠点となりました。半世紀あまりは金の中都がそのまま利用されていますが、クビライはその北に新たな都市を作らせました。後の明や清、中華民国、中華人民共和国もここを都としたのです。

 1267年8月からは南宋との戦争を再開し、南宋の重要な軍事拠点である襄陽と樊城を攻撃します。ここは漢江が天然の堀をなす堅固な要塞で、長江中流域の鄂州(武漢)とともに南宋の守りを担う最前線基地でした。漢江の北側が樊城、南側が襄陽城です。二つの城は唇と歯のように助け合い、モンゴル軍の苦手な水軍によって守られ、備蓄も流通も万全です。ゆえに攻略すれば南宋は風前の灯となります。クビライは譜代の重臣アジュを総司令官に任命し、ウイグル人エリク・カヤ、漢人の史天沢や劉整、フレグのもとを去ってクビライに仕えていた郭侃らを将軍として襄陽と樊城を包囲させました。包囲は1268年に始まりましたが、南宋軍は将軍の呂文煥を司令官として防御を固め、五年もの間抵抗しました。

 これに連動して、高麗でも戦争が始まります。高麗は1258年にモンゴル帝国に降伏していましたが、王家は存続し、モンゴルに服属しつつ江華島で統治を継続します。ただし実権は武臣の金俊が握っており、彼の私兵集団「三別抄」が事実上の国軍となっていました。1269年1月、高麗王(王禃/元宗)は実権を取り戻すため、武臣の林衍と結んで金俊を暗殺します。しかし林衍は王を廃位して王弟の安慶公淐を擁立し、実権を握ります。

 クビライは怒って王を復位させるよう命じ、林衍を処罰すべく喚び出します。林衍は王を復位させますが反モンゴルの姿勢を崩さず、クビライは軍を派遣して鎮圧させ、林衍は病死しました。この時、平壌を始めとする高麗北西部の諸地域がモンゴルに降伏し、モンゴル軍が平壌に駐屯することになります。高麗王は江華島を出て開城に遷都しますが、林衍の部下の一部は江華島を脱出して半島西南部の珍島に移動し、高麗国を名乗って反モンゴルの抵抗運動を継続します。彼らは半島南部に勢力を広げ、日本にも救援を求めましたが黙殺されています。

 この間、クビライは皇帝としての権威を強化するため、チベット仏教サキャ派の座主パクパ(パスパ)を利用しました。1253年にクビライの侍僧となった彼は、1261年に26歳にしてモンゴルの国師に任命され、チベット全土および旧西夏領(コデン王国)の行政権、モンゴル帝国全体の仏教教団に対する行政権を授けられます。

 またモンゴル帝国ではモンゴル語を音写する独自の文字がなかったため、クビライはパクパにその作成を命じます。パクパはチベット文字をもとにして新たな文字を作り、1269年3月にこれが国字とされました。翌年にはクビライより帝師・大宝法王の称号を授かり、パクパはクビライを仏教における地上の支配者・転輪聖王に擬して帝権の強化を図ります。

 仏典によると、転輪聖王は衰退した人類を繁栄に導く救世主で、ブッダに匹敵する存在です。彼は権威の象徴である輪宝チャクラを頭上に回転させ、四方の海に至るまでの大地を正法ダルマによって征服します。転輪聖王には四種あり、鉄輪王・銅輪王・銀輪王・金輪王といい、地上の四つの大陸のうち全てを治めるのは金輪王だけです。クビライはこのうち金輪王に擬せられ、燕京の正門には金輪が掲げられました。

 またブッダの頭頂部を仏尊化した仏頂尊が転輪聖王の姿で描かれることから、クビライの玉座の上にはこれを表す白い傘蓋が置かれ、パクパは毎年白傘蓋を祀る大法会を催してクビライを讃えるよう命じられました。皇帝を転輪聖王とすることはインドやチベットでも行われており、以後のモンゴル皇帝や、その権威を受け継いだ清朝の皇帝も同様に扱われています。クビライの母ソルコクタニ・ベキはネストリウス派キリスト教徒でしたが、クビライは仏教徒の皇帝でした。これはチベットや漢地に広く仏教が根付いており、世界宗教としての権威も充分であったことによるのでしょう。

大元皇帝

 1271年12月、クビライは国号を「大蒙古国(イェケ・モンゴル・ウルス)」から「大元大蒙古国(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)」と改めました。大元とはチャイナ風の国号で、漢人の劉秉忠が『易経』の彖伝(解説文)にある「大哉乾元」に基づいて上奏したものです。また燕京を大都、開平府を上都と改め、前者を冬の都、後者を夏の都と定めました。

 大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。
 大いなるかな乾元!万物はこれによって始まった。すなわち天を統べ、雲が動いて雨を施し、様々な物を形成する。

 かんとは易における八卦・六十四爻の最初であり、「」を象徴します。「元」とは頭部を強調した人間の形で、根元の意です。モンゴル帝国においてもテングリは至上の権威ですし、元は「おおもと」を表し、モンゴル帝国の元首として宗主権を主張したいクビライにはぴったりです。かつて鮮卑拓跋部の北魏の皇帝は、漢化するにあたり拓跋氏を「元」氏と改めましたが、その含みもあるかも知れません。ご先祖様のカブル・カンは「祖元皇帝」と名乗っていたと1234年編纂の『大金国志』にあります。

 おおよそ漢地での国号は、その王家・皇室の祖が立った地名に基づいています。契丹が大遼と号したのは遼河流域に興ったためで、女真の大金の号はアルチュフ(黄金)という名の川のほとりに興ったことによります。しかるにモンゴルは国書を漢文で送る際もただ蒙古・大蒙古国と称しており、字面があまりよくありません。そこで漢地を治める正統政権としてチャイナ風に国号を改め、天命を受けて全世界を統治する天子として、地名によらない「大元」を国号としたのでしょう。クビライは長く漢地に在留して多数の漢人と交流しており、その文化を認めていました。

 しかし、彼はモンゴル/蒙古という国号をやめてはおらず、モンゴル帝国全土のカアン/皇帝であると主張し続けました。ほかのウルスから見るならば、クビライはモンゴル本土とチベット、キタイ/漢地などを領有するクビライ・ウルスの当主であり、ジョチ家・チャガタイ家・オゴデイ家・フレグ家などを含むモンゴル帝国の宗主です。諸家の当主はカン(王)やイルカン(国王)などと名乗りましたが、カアンとは称していません。オゴデイ家のカイドゥも上述のようにアカ(兄者)と呼ばれており、カンでもカアンでもないのです。したがって、この時点でモンゴル帝国が「分裂」したというのは正確ではありません。あくまでモンゴル帝国の枠内でそれぞれのウルスが分立し、クビライを名目的にでも宗主として承認していたというだけです。

 とはいえ、これまでのカアンのように、命令一下で帝国全土の軍勢が地の果てまで遠征するというわけにはいかなくなりました。帝国の中央部に陣取るカイドゥが邪魔なのです。クビライはこれを排除すべく戦いを続けるとともに、足場を固めるべく東アジア全土の平定を計画しました。残るは南宋、高麗の三別抄、そして日本です。

◆対◆

◆馬◆

【続く】

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