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【つの版】度量衡比較・貨幣170

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 享和3年(1803年)末、将軍家斉らと対立した老中首座・松平信明は病気を理由に老中を辞職します。後任の老中首座には戸田氏教うじのりが就任し、定信・信明の政策を継続していくこととなります。

◆愛國◆

◆戦隊◆


戸田氏教

 戸田氏教は宝暦5年(1756年)の生まれで、松平信明より7歳、定信より3歳年長です。初名を松平元起といい、父は田沼意次の上司であった老中首座の松平武元たけちかで、系譜を遡れば水戸徳川家に繋がります。のちに元起は美濃大垣藩主・戸田氏英(1768年没)の婿養子となって家督を継ぎ、戸田氏教と名乗りました。以後は奏者番・寺社奉行・側用人と出世し、寛政2年(1790年)に老中となって松平定信・信明政権に加わっています。大垣藩主としても財政・教育・武備・治水などに多大な功績をあげており、信明の辞職後に老中首座となった時は47歳の壮年でした。

 戸田氏は源義家の末裔とも藤原北家・正親町三条家の後裔ともいい、尾張国海部郡戸田荘(現・愛知県名古屋市中川区戸田)を本貫地とします。室町時代後期に伊勢氏の被官として戸田宗光(全久)が現れ、三河国東部の碧海郡・渥美郡および尾張国知多郡に勢力を広げました。同じ伊勢氏の被官であった西三河の国人・松平信光(家康の7代前の先祖)は彼に娘を嫁がせています。戦国時代には戸田氏は松平氏・織田氏・今川氏の狭間にあって分裂・弱体化し、今川義元が討ち取られると松平元康(徳川家康)に従います。以後徳川譜代の重臣となり、寛永12年(1635年)戸田氏鉄が美濃大垣10万石に封じられました。氏教は氏鉄から数えて7代目の藩主にあたります。

 彼が老中首座となった翌年(1804年)2月に文化と改元されますが、同年6月には出羽国象潟きさかた沖で津波を伴う大地震が起きました。出羽の沿岸部は隆起して陸地となり、地面が割れ砂を噴き、津波が川を遡上して田畑を飲み込み、数千軒の家が潰れ366人が死亡する大惨事で、幕府は本荘藩に2000両を貸与して災害復旧にあたらせました。寛政5年(1793年)には津軽西部や仙台沖で、享和2年(1802年)には佐渡で大地震が起きており、寛政12年(1800年)冬からは21年にわたって出羽の鳥海山が噴火しています。こうした災害に加えて、この時代には対外問題も頻発しました。

露使来訪

 文化元年9月6日には、肥前国長崎の出島に2隻の異国船が現れます。船長はロシア帝国の正式な使節ニコライ・レザノフと名乗り、ロシアに漂着した日本人の津太夫ら4人を送還するとともに、12年前に松平定信がラクスマンとの間に交わした日露間の国交樹立および通商の履行を求めました。彼らはロシア皇帝の親書とラクスマンの持ち帰った信牌(長崎への入港許可証)を携え、帝都サンクトペテルブルクから大西洋・太平洋を経て遥々到来したもので、報告を受けた幕府は仰天します。

 レザノフは2ヶ月ほど海上で待たされた後、幕府が設営した滞在所への上陸が認められ、12月には幕府目付(監視役)の遠山景晋かげみちが派遣されます。一方で幕閣らは通商を許可するか否かを協議しました。

 しかし12年前にラクスマンと交渉した定信は失脚し、その政策を引き継いだ信明も老中首座を辞職していたため、幕閣には現状維持を良しとする保守派が多く、議論は長引きます。幕府直属の儒官・大学頭の林述斎は定信の周旋で林家を継いだ人物でしたが、老中・土井利厚からの諮問を受けてこう答えます。「ロシアとの通商は祖宗(先祖代々)の法に反するため、拒絶すべきである。しかし前に信牌を与えたのであるから、礼節をもって使節を説得し、納得してもらうしかないであろう」。まことにもっともです。

 これに対し、利厚はこう答えます。「使節に対して腹の立つような乱暴な応接をすれば、怒って二度と来なくなるだろう。もしそれを理由に攻め込んで来ても、日本の武士はいささかも後れはとらぬ」。外交も礼節も無視した乱暴な話ですが、幕府の大方針としてはどのみち通商拒絶と決まりました。出島にいるオランダ人にしても商売敵が増えるのは困ります。

 翌文化2年(1805年)3月7日、幕府は遠山景晋を通じてレザノフにこう伝えます。「漂流民は受け取るが、我が国は朝廷歴世の法として、唐山(チャイナ)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商はしない」。レザノフはやむなく津太夫たちを引き渡し、せめて薪・水・食糧を提供してもらいたいと申し出ますが拒絶され、腹を立てつつ退去していきました。

 幕閣たちは胸をなでおろしますが、かくも無礼に使節を追い返したからには、ロシア船が日本に攻めて来る可能性は高まります。土井利厚は威勢の良いことを言ったものの、こちらも艦隊を持ったり砲台を設置したりしなければ、海上から一方的に江戸や大坂に艦砲射撃が降り注ぎ、海上封鎖を受けて経済が死にます。定信・信明は緊縮財政で財政基盤を回復させましたが、近年は対ロシアのための軍備増強や蝦夷地の調査・開発、将軍の浪費などにより経常収支は赤字に転じており、経費削減のために代官を減員したりする有り様でした。防衛戦争などする余裕はありません。

 そこで文化3年(1806年)1月26日、幕府は「ロシア船を発見したら穏やかに説得(撫恤)して退去させ、必要なら薪・水・食糧を与えてよいが、決して上陸させないこと」との命令(撫恤令、薪水給与令)を発布します。使節を乱暴に追い返しておいて今さらの感はありますが、平和ボケした幕閣は「もとよりロシアは戦を好まず」などとのんきに考えていたようです。同年4月26日、老中首座在任3年目の戸田氏教は52歳で病没しました。

 新たな老中首座には次席の牧野忠精が就任しますが、松平定信は対ロシアの危機に際して対応できる人物ではないとして人事に介入し、5月に松平信明を老中首座に復職させます。忠精の嫡男は定信の娘と文化2年に婚姻していたため説得を受け入れましたが、将軍家斉は信明への権力集中を警戒し、忠精に勝手掛(財政担当)を担わせました。

文化露寇

 定信の心配は的中し、文化3年9月には樺太南部の久春古丹にロシア船が現れます。これはレザノフの部下ニコライ・フヴォストフが日本への報復と脅迫のために派遣されたもので、数十名のロシア兵を載せていました。彼らは短艇で上陸すると松前藩の番所付近を襲撃してアイヌの少年を拉致し、米600俵と雑貨を掠奪します。また家屋や船・漁網に火を放ったのち、人質を解放して去っていきました。船を焼かれた番所は連絡手段を失い、この事件が松前藩を経て幕府に報告されたのは翌年4月になってからでした。

 翌文化4年(1807年)4月、今度はロシア船2隻が択捉島西岸に接近し、内保湾に上陸して番屋を襲撃・掠奪・放火します。択捉島西部の紗那には幕府の管轄する会所(運上屋、交易場)が置かれており、弘前藩と盛岡藩の兵により警護されていましたが、幕府の役人は撫恤令にのっとり、まずは白旗を振って敵意のないことを示し対話しようとします。ロシア兵はこれを無視して短艇で上陸し、銃を発砲して箱館奉行配下の通訳を負傷させました。

 やむなく幕府役人は弘前・盛岡の藩兵に応戦を命じますが、圧倒的な火力の差に苦戦します。夕方になるとロシア兵は短艇で本船に引き返しますが、艦砲射撃により陸上を威嚇しました。戦意を失った幕府役人たちは紗那会所を放棄して撤退し、箱館奉行へ急報を報せました。ロシア兵は無防備となった会所に上陸して掠奪の限りを尽くし、放火したのち去っていきました。

 同年には日本海側の利尻島がロシア兵に襲撃され、商船が焼き払われ島民が捕虜になります。この時、ロシア兵は幕府の船を掠奪して石火矢(大砲)を奪ったともいいます。度重なるロシアの襲撃(露寇)に幕府は仰天し、東蝦夷地に加え和人地と西蝦夷地(樺太含む)をも松前藩から没収して直轄領とし、箱館奉行を松前奉行と改めて松前に移転させます。また弘前・南部・庄内・久保田の諸藩から3000名の武士を集め、宗谷や斜里など蝦夷地要所の警護に当たらせ、11月には江戸湾防衛の強化に乗り出しました。

 ロシア船への薪水給与令も当然撤回されますが、幸いロシア皇帝はこの襲撃を許可しておらず、レザノフも同年に死去していたため、フヴォストフは撤退を命じられ、事件は終結します。とはいえロシアがついに武力をもって日本を襲撃し始めたことは幕府を恐怖させました。たった2隻、数十人の兵力ですら、幕府や諸藩の兵は太刀打ちできず、無様に逃げ出すことしかできなかったのです。本腰を入れてロシアが日本侵略を図れば、いかに武士が頑張ったとて、艦砲射撃に勝てるとは思えません。

財政悪化

 この脅威に対応するため、幕府は文化5年(1808年)に間宮林蔵ら調査隊を樺太北部に派遣し、地図を作らせるとともにロシアの動向を探らせています。しかし同年8月には長崎港に英国船が侵入してオランダ人を人質にとるフェートン号事件が勃発し、文化8年(1811年)には国後島に測量調査のため到来したロシア軍人ゴローニンが日本に逮捕され、翌文化9年(1812年)には報復のため高田屋嘉兵衛らの乗った日本の商船がロシアに拿捕される事件が起きています。これらの事件は武力衝突もなく交渉で解決したものの、日本近辺で活動する異国船の数は年々増え、幕府は対応に追われます。

 この間に伊能忠敬は西日本の測量も進めていますが、各地の防衛や警備のために幕府財政はますます支出が増大し、危機的状況に陥ります。信明はやむなく有力町人から御用金を集め、農民には国役金を課し、諸大名には御手伝普請の賦課金を徴集して財政危機を補填しますが、国防のためとはいえ税負担が増大した町人・農民・諸大名は幕府や信明への不満を高めました。

 文化14年(1817年)に松平信明が危篤に陥ると、44歳を迎えていた将軍・徳川家斉は幕閣改造を企てます。彼は側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に引き上げ(翌年老中に昇進)、寺社奉行の阿部正精を歴職を飛び越えさせて老中に抜擢しました。松平定信は隠居したとはいえ健在でしたが、長年幕政を取り仕切ってきた「寛政の遺老」たちは遠ざけられます。水野忠成の義父・水野忠友は田沼意次の側近で、一時は意次の子を養子としており、定信時代に失脚して冷遇されていた人物ですから、忠成もその人脈を活用して田沼時代の重商主義政策を復活させることになります。

◆太陽◆

◆戦隊◆

【続く】

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